刻一刻と去りゆく一塵の命。今が有る事に感謝しつ,
生かして欲しい一掴みの光明の為に。
 日は沈みゆく時,北斗の杓を引き寄せて,桂酒を
酌み明日にそなえる。そして又,日は東の湯谷に出て
扶桑の木に登ると言うは,命の輪廻転生の如くで有る。
 ならば,晴耕雨読,曇遊華酒で往きますか。

 12月25日 生まれ      山田 善仁


曲水の宴をたずねて(3)  山田 善仁

 王羲之(おうぎし)は,永嘉元年(307)司馬睿(えい)が建康(けんこう)に鎮した年に生まれ,興寧3年(365)59歳で没したのが定説になっている。
 生誕地は,山東臨沂(りんぎ)の南仁里。
 幼にして父に死別し,母と兄の訓育を受ける。少年時代の羲之を庇護した人に,宰相の周(しゅうがい),叔父の王(おうい),父の従兄の王導(おうどう),王敦(おうとん)達で,いかに大きな期待をかけられていたかが酌み取れる。
 王は永昌元年(322)に没す王羲之16歳。その年,都督揚州江西諸軍事の鑒(ちかん)の娘(名を(せん),あざなは子房)を娶る。2人の間に,玄之(げんし),之(ぎょうし),渙之(かんし),肅之(しゅくし),徽之(きし),操之(そうし),献之(けんし)の七男と一女をもうけた。
 は,羲之の没後30余年も長らえ,90歳余りの長寿を保った。夫人の弟に(ちいん),曇(ちどん)がおり,曇の娘を末子献之の為に娶る。とは会稽郡で優遊の交友で有った。
 羲之の官歴は秘書郎から始まる。
 咸和9年(334)28歳の時,征西軍府の参軍となり,武昌(ぶしょう)に赴き長史となる。数年後,寧遠将軍江州刺史となる。咸康4年(338)には王導が丞相となる。
 永和2年(346)輔軍将軍に推される。この頃,道教に似た天師道(てんしどう)(五斗米道(ごとべいどう))に熱心になり,自然に遊び,服食養生(ふくしょくようじょう)の道を楽しみ憧れ,子供が成人してからは,後漢の隠者向子平(しょうしへい)を見習い,官界を去って悠々自適の生活に入りたいと願っていた。
 羲之にとっては,姑息な平和をたのしみ,我身の栄達や家門の繁栄をのみ望む人々が集まり,遊惰な気分がみなぎっている様な中央政府へ入る気がしなかった。心ある者は,北方の匈奴を攻め,失地奪回を願う北方政策を推し進め,羲之も同感で有った。ついに護軍将軍として,建康政府に入ったがなじめず,永和7年(351)45歳の時,右軍将軍,会稽内史(かいけいのないし)として会稽郡治山陰県(今日の浙江省紹興(しょうこう)の地)に赴任。
 栄進を願う者にはまず行かない所であるが,羲之にとっては此の地が気に入っていた。第一に風光が良い。
 「世説新語」の注会稽郡記に依ると,会稽の境には特に名山水多し。峯隆峻(ほうがくりゅうしゅん),雲霧を吐納(とのう)す。松楓栢(しょうかつふうはく),擢疎条(たくかんそじょう)あり。潭壑鏡徹(たんがくきょうてつ),清流写注(しゃちゅう)す。王子敬(王献之)これを見て曰く,山水の美,人をして応接に暇あらざらしむ。と有る。
 王羲之はここで4年間在任する。


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