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伊勢三郎義盛




伊勢三郎義盛の正確な出自や年齢は不明ですが、武蔵坊弁慶と違って実在の人物なのは間違いないようです(弁慶に関しては架空の人物とか、義経の逃避行に従った別の僧とか、何人かの僧の象徴などいろいろと説があります)。
源義経筆頭の郎党にあげられていて、「玉葉」「吾妻鏡」「愚管抄」などの史料から「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などの物語に出てきます。
一騎当千の郎党で合戦でも活躍したとされていますが、剣の達人という記述はありません。
俗に義経四天王の1人といわれていますが、この四天王はいろいろな説というか組み合わせがあって、佐藤兄弟と鎌田兄弟の4人という説では伊勢三郎は四天王ではないことになります。
ちなみに義経四天王は
◆伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎の4人、
◆伊勢三郎、武蔵坊弁慶、佐藤継信、忠信の4人、
◆佐藤継信、忠信兄弟と鎌田盛政、光政兄弟の4人
などの説があります。


物語ではいろいろな伊勢三郎の出自についての記述があります。
◆「義経記」では義経が奥州へ向かう途中の上野国板鼻で泊まった家の主として登場し、父は伊勢国の生まれで大神宮神主のかんらひ義連とされています。
◆「異本義経記」では父は勢州三重郡河島を領して河島二郎盛俊といい、伊勢で生まれ鈴鹿山にいたところ山賊として捕われ上野国松井田に流され、名も武盛といったが義経の義の字を賜わって義盛と改めたとされています。
◆「源平盛衰記」では鈴鹿山で伯母聟与権守または伊勢守景綱を殺し、上野国に流され上野国荒蒔郷に住んでいたと記述されています。
◆「平家物語」では越中次郎兵衛盛次とのやり取りで、「伊勢の鈴鹿山にて山賊して、妻子をも養い」という記述があります。
どれも元々れっきとした武士の出身ではなく山賊や盗賊という記述が多いですが、「源義経のすべて」の前川佳代氏の執筆の章に、(以下、引用)『壇ノ浦の合戦後に捕虜を伴い入洛した伊勢三郎が、肩白赤威の鎧をつけ東国御家人である土肥実平と護衛にあたったことは「侍」身分の出身であったことを物語っている』との記述があります。


物語などに描かれていて、史実かどうかは解らない伊勢三郎に関する逸話はいくつかあります。
◆那須与一が平家方の船上の扇を射た後、船で舞い始めた男を射るように与一に命じた。
◆16騎で阿波民部重能の嫡子、田内左衛門教能の元へ行き、嘘八百並べて3千騎を降下させた。
◆壇ノ浦の戦いの前、優秀な船頭や船を管理している船所五郎正利を説得して味方にした。
◆壇ノ浦の戦いで、海に飛び込んだ平宗盛親子を熊手で小船に引き上げたなどです。
義経一行が腰越手前の酒匂で足止めされた時、頼朝の妹婿の一条能保の侍従の後藤基清の郎党と伊勢三郎の郎党が乱闘となったことは史料の「吾妻鏡」に記述されているので、史実とされています。
史料の「愚管抄」には木曾義仲を伊勢三郎が討ったと書かれていますが、これは真偽がはっきりしていません。


伊勢三郎の最期は、義経の奥州行きに加わらず伊勢国へ帰り守護首藤四郎を襲撃し失敗、鈴鹿山へ逃亡し自刃しています。「玉葉」には文治2年7月25日に梟首との記述があります。


新歌舞伎十八番の1つで河竹黙阿弥作の「みばえ源氏陸奥日記」の通称が「伊勢三郎」といいます。伊勢三郎と源義経との対面を描いた活歴物です。


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