人物事典

−源氏と源氏をめぐる人々(壱)−



みなもとのためよし
源為義
1096〜1156
源八幡太郎義家の孫で義朝、為朝、行家の父。
検非違使に任じられ、住まいを六条堀川に構えたため「六条判官」と呼ばれた。
保元の乱に崇徳上皇方について敗れ、後白河天皇方についた義朝や平清盛らに敗れ斬首される。

みなもとのよしとも
源義朝
1123〜1160
源為義の長男で頼朝、義経の父。
保元の乱に後白河天皇方に参加、白河殿を陥れ勝利し左馬頭となる。
その後、藤原信頼と組んで平治の乱を起こすが、平清盛らに敗れて東国に敗走。
尾張国で、家人の長田忠致に風呂に入っている所を襲われ斬殺される。

みなもとのよしかた
源義賢
?〜1155
源為義の次男で義仲の父。
武蔵国の豪族の秩父重隆の婿となり、武蔵北部を中心に勢力を伸ばすが、危機感を抱いた義朝の長男の義平に襲われ討死する。

みなもとのよしひろ
源義広
?〜1184
源為義の三男。志太義広に改名。
はじめ頼朝に従ったが、頼朝に反抗して挙兵。しかし敗れて義仲を頼る。
その後義仲と共に入洛し、右衛門少尉・検非違使に任じられる。
範頼、義経の義仲追討軍と戦い敗走。
伊勢国で討死。

みなもとのよりかた
源頼賢
?〜1156
源為義の四男。
保元の乱で敗戦後、京都船岡山で斬首。

みなもとのよりなか
源頼仲
?〜1156
源為義の五男。
保元の乱で敗戦後、京都船岡山で斬首。

みなもとのためむね
源為宗 
?〜1156
源為義の六男。
保元の乱で敗戦後、京都船岡山で斬首。

みなもとのためなり
源為成
?〜1156
源為義の七男。
保元の乱で敗戦後、京都船岡山で斬首。

みなもとのためとも
源為朝
1139〜1170
源為義の八男。鎮西八郎為朝。
豪勇で射術に長じていたが粗暴になったため、九州の豊後に追放され、肥後の豪族の婿となる。
保元の乱には父と共に崇徳上皇方につき、夜襲を提案するが反対され敗北。
捕らえられて、伊豆大島に流罪される。
その後、工藤茂光らの討伐軍と戦って自刃。

みなもとのためなか
源為仲
?〜1156
源為義の九男。
保元の乱で敗戦後、京都船岡山で斬首。

みなもとのゆきいえ
源行家
?〜1186
源為義の十男で、頼朝、義経、義仲の叔父。
本名は義盛。新宮十郎行家。
熊野新宮に住み新宮十郎と呼ばれていたが、後に源頼政の仲介で以仁王に会い、八条院蔵人に補せられ行家と改名する。
以仁王の令旨を頼朝、義仲らに伝える。
頼朝挙兵後、尾張の墨俣川で平家軍と戦うが惨敗。
頼朝と不仲になり、義仲のもとへ向かい共に入洛する。
義仲と不仲になると範頼、義経の義仲追討に協力し、平家滅亡後は頼朝と不仲になった義経に加担し、頼朝追討の宣旨を得るが失敗。
和泉国に潜伏中に捕らえられ、斬首。

みなもとのよしひら
源義平
1141〜1160
義朝の長男。悪源太義平。
15歳の時、叔父の義賢と戦って斬り、悪源太の異名を得た。
後に平治の乱に父に従って奮戦、敗れて美濃に逃れる。
父の死後、単身京都に潜伏中、捕えられて斬首。

みなもとのともなが
源朝長
1145〜1159
義朝の次男。
父に従い平治の乱に参戦するも敗走。
美濃国青墓宿で父や兄と別れ、信濃で再挙を計ろうとするが戦傷が悪化。
引き返し父の義朝の手により殺害される。

みなもとのよりとも
源頼朝
1147〜1199
源義朝の三男。母は熱田大宮司藤原季範の娘。
鎌倉幕府初代将軍で武家政治の創始者。
13歳の時、父に従い平治の乱に参戦するが敗走。
捕らえられるが平清盛の継母の池禅尼の力で助命され、伊豆の蛭ヶ小島に配流される。
以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山で敗れた後、富士川の戦いに大勝。
鎌倉にて東国を固め幕府を開き、弟の範頼、義経を遣わして源義仲、平氏を滅亡させた。
その後守護地頭の制を定め、右近衛大将、征夷大将軍となった。
相模川に架けた橋の渡り初めを行った帰路に落馬し、それが原因で死去。

みなもとのよしかど
源義門
生没年未詳。
源義朝の四男。母は熱田大宮司藤原季範の娘。

みなもとのまれよし
源希義
?〜1180又は1182
源義朝の五男。母は熱田大宮司藤原季範の娘。
父が平治の乱で敗れたため従者と共に逃亡するが、駿河国で捕えられ土佐国に配流される。
頼朝が挙兵すると当地で呼応するが援軍が間に合わず、平氏方に敗れ討死。

みなもとののりより
源範頼
?〜1193
源義朝の六男。母は遠江国池田宿の遊女。
遠江蒲御厨に生れたため、蒲冠者や蒲殿と呼ばれる。
兄の頼朝の挙兵に馳せ参じ、義経と協力して義仲を討ち、平家を一ノ谷や壇ノ浦で破った。
戦功により従五位下三河守に任命される。
曽我兄弟の仇討ち事件の際、頼朝に謀反の嫌疑をかけられ、伊豆国修禅寺に幽閉され殺害される。自害という説もある。

あのぜんじょう
阿野全成
1153〜1203
源義朝の七男。母は常盤御前。幼名は今若。
平治の乱後、捕らえられるが死を免れ醍醐寺で出家。
名を全成に改める。剛毅な性格から醍醐悪禅師とも呼ばれた。
頼朝の挙兵に弟の義円と共に馳せ参じ、北条政子の妹の阿波局を妻とし、駿河国阿野荘を与えられる。
頼朝の死後、謀反の嫌疑で捕らえられ殺害される。

みなもとのぎえん
源義円
1155〜1181
源義朝の八男。母は常盤御前。幼名は乙若。
平治の乱後、捕らえられるが死を免れ出家。
はじめ名を円成、のちに義円に改める。
八条宮円恵法親王の坊官として祗候。
頼朝の挙兵に兄の全成と共に馳せ参じ、墨俣川の戦いに参戦するが討死する。

みなもとのよしつね
源義経
1159〜1189
源義朝の九男。母は常盤御前。幼名は牛若。遮那王。九郎義経。
平治の乱後、捕らえられるが死を免れ鞍馬寺に入る。
その後、奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せるが、兄の頼朝の挙兵に応じて馳せ参じる。
源義仲を討ち、さらに一ノ谷、屋島、壇ノ浦で勝利し平氏を滅亡させる。
頼朝の許可なく検非違使・左衛門尉に任官したことから頼朝と不和となり、再び秀衡のもとに身を寄せる。
秀衡の死後、その子の泰衡に襲われ衣川の館で自刃。

いちじょうよしやすのつま
一条能保の妻
1154〜1190
源義朝の娘。母は熱田大宮司藤原季範娘。頼朝の同母妹または姉。