人物事典

−源氏と源氏をめぐる人々(弐)−



あつただいぐうじのむすめ
熱田大宮司の娘
?〜1159
熱田大宮司藤原季範の三女。由良御前。
源義朝の妻。頼朝、義門、希義、一条能保の妻の母。

ときわ
常盤
1138〜?
もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕女。常盤御前。
源義朝の愛妾になり、今若、乙若、牛若を産む。
平治の乱で義朝敗死後、三児と共に大和に隠れるが、捕らえられた母の為に六波羅に自首。
その後平清盛の寵愛を受け女子を産むが、藤原長成に再嫁した。

みなもとのよりまさ
源頼政
1104〜1180
摂津源氏源仲政の長男。
保元の乱では平清盛や義朝と共に後白河天皇側につき戦い、平治の乱では途中から清盛側につき戦う。
戦後、清盛の信頼を得て従三位まで昇進。
後に以仁王を奉じて平氏追討を図り挙兵するが、宇治川の戦いで敗れて自害。
歌に秀で、家集「源三位頼政集」がある。
宮中で鵺を退治した逸話もある。

みなもとのなかつな
源仲綱
1126〜1180
源頼政の長男。伊豆守。
以仁王の令旨を受けた父に従い兵を挙げたが、宇治川の合戦で平氏に敗れ、弟の兼綱や子の宗綱らと共に自害。
秘蔵の名馬「木の下」を平宗盛に請われて貸したが、宗盛はこの馬に「仲綱」という焼き印を捺すなどして侮辱し、これが頼政らの挙兵の一因になったともいわれる。

みなもとのありつな
源有綱
?〜1186
源頼政の孫で、父は伊豆守源仲綱。義経の婿。
義経と行動を共にしていたが、義経が頼朝と不仲になり都落ちする時に、途中から別行動を取る。
大和国宇陀郡で鎌倉方の討手と戦い自害。

いちじょうながなり
一条長成
生没年未詳。
参議藤原忠能の子。常盤の再婚相手。義経の養父。
但馬守。大蔵卿。正四位下。

いちじょうよしなり
一条能成
1163〜?
父は一条長成。母は常盤。義経の異母弟。
義経が頼朝と不仲になり西国落ちの時に同行。
その後、従三位に昇進。兄達を弔うために出家したといわれる。

みなもとのよしなか
源義仲
1154〜1184
父は源為義の次男の義賢。頼朝、義経の従兄弟。木曾義仲。
父の義賢が義平に討たれ、木曾山中で育てられる。
以仁王の令旨を奉じて挙兵し、平通盛らを越前に破り、平維盛を礪波山で破る。
平氏を西海に走らせて京都に入り、征夷大将軍に任ぜられた。
その後、範頼、義経の追討軍と戦って敗走。
近江粟津原で討死。

みなもとのよしたか
源義高
1173〜1184
義仲の長男。清水冠者。
父の義仲と頼朝が対立状態になった際、人質として鎌倉に送られる。
その後頼朝の娘の大姫と婚約。
義仲を追討後、頼朝は義高の殺害を計画するが、大姫の機転で逃亡。
武蔵国で追手に殺害される。

ともえ

生没年未詳。
木曾の豪族の中原兼遠の娘。今井兼平の妹。義仲の愛妾。巴御前。
武勇すぐれた美女で、武将として最後まで義仲に随従。
義仲の討死後は、捕縛されて鎌倉に連行されたとか、和田義盛に再嫁したとか、尼となって越中に赴いたなどといわれる。

ほうじょうまさこ
北条政子
1157〜1225
源頼朝の妻。頼家、実朝の母。北条時政の長女。
父の時政の反対を押し切り、伊豆配流中の頼朝と結婚。
頼朝の死後は剃髪し、時政、義時父子と共に頼家、実朝の後見となる。
実朝の死後は京都から後継者として九条頼経を迎え、自ら簾中に政務を統べ、尼将軍と称された。

おおひめ
大姫
1178〜1197
源頼朝の娘。母は北条政子。
義仲の嫡子の義高と婚約するが、義仲敗死の際に頼朝の命で義高が殺害されたことで悲嘆にくれる。
その後、若くして病死。

みなもとのよりいえ
源頼家
1182〜1204
鎌倉幕府第2代将軍。頼朝の長男。母は北条政子。
北条氏に強請されて将軍職を弟の実朝に譲る。
その後、舅の比企能員と組んで北条氏を除こうとして失敗。
伊豆修禅寺に幽閉され、北条時政らに殺害される。

みなもとのさねとも
源実朝
1192〜1219
鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。母は北条政子。後に右大臣。
歌人で作歌には万葉調の佳作が多い。
鶴岡八幡宮の境内で兄の頼家の子の公暁に殺害される。

かめのまえ
亀の前
生没年未詳。
頼朝の側室。
政子が出産のため不在中に、頼朝が御家人の伏見広綱の家に住まわせる。
後に政子が知り、牧宗親に命じて広綱の屋敷を壊す。
頼朝も宗親の髻を切って責めるなど派手な夫婦喧嘩となった。

しずか
生没年未詳。
源義経の愛妾。京都の白拍子。母は磯禅師。静御前。
義経と吉野山で訣別し、捕えられて鎌倉に送られる。
鶴岡八幡宮で源頼朝、北条政子らを前にして義経恋慕の舞を舞った。
義経の男子を出産するが、頼朝の命で即日殺害される。
京に戻るが、その後の消息は不明。

かわごえしげよりのむすめ
河越重頼の娘
生没年未詳。
義経の妻。鎌倉の御家人の河越重頼の娘。郷御前。
一ノ谷の合戦後、頼朝の命で義経の正室として上洛。
その後、平泉まで義経を追って行き、最期は義経と共に衣川の館で自害したといわれている。

たいらのときただのむすめ
平時忠の娘
生没年未詳
平清盛の妻の弟である平時忠の娘。
父の保身の為に義経の妻になったといわれている。

いそのぜんじ
磯禅師
生没年未詳
静の母。多くの舞女を抱える芸能者の長といわれている。