人物事典

−義経郎党−



むさしぼうべんけい
武蔵坊弁慶
?〜1189
幼名は鬼若丸。
熊野の別当の子という説もあるが、その出自は不明。
武蔵坊と称して比叡山西塔にいたが、源義経に仕えて武名をあげた。
義経の没落に際しても忠実に随行し、安宅の関での難を逃れ、後に衣川の戦いで全身に矢を受け仁王立ちのまま絶命。

いせさぶろうよしもり
伊勢三郎義盛
?〜1186
出自は伊勢国とも上野国ともいわれ定かではない。
義経が鞍馬から奥州に向かう際に郎党になった。
源平争乱時には多くの戦功を上げた。
義経の都落ちに同行するが途中で別れて伊勢に帰り、守護の首藤経俊を討とうとして敗れ、鈴鹿山で自刃。

さとうさぶろうつぐのぶ
佐藤三郎継信
1158〜1185
父は佐藤元治で元は奥州藤原氏の家臣。忠信の兄。
義経が奥州から鎌倉へ向かう際に、藤原秀衡の命で忠信と共に従軍。
屋島の戦いで義経の身代りとなり、平教経の矢に射られて戦死。

さとうしろうただのぶ
佐藤四郎忠信
1161〜1186
父は佐藤元治で元は奥州藤原氏の家臣。継信の弟。
義経が奥州から鎌倉へ向かう際に、藤原秀衡の命で継信と共に従軍。
兄の戦死後も義経の側で活躍。
義経が吉野山に隠れて山僧に攻められた時、自ら義経と称して奮戦。
翌年京都に入り、糟屋有季に囲まれて自刃。

すずきさぶろうしげいえ
鈴木三郎重家
?〜1189
父は鈴木重倫。紀伊国熊野権現を護る豪族出身。亀井重清の兄。
壇ノ浦の戦いの際、熊野別当湛増率いる水軍が源氏側に付いたのは、重家とのつながりがあったためといわれる。
戦後、一度熊野に戻るが義経を追って奥州へ向かい、衣川の戦いで討死。

かめいろくろうしげきよ
亀井六郎重清
?〜1189
父は鈴木重倫。鈴木重家の弟。
源平合戦においては、兄の重家と共に義経軍に加わり多くの戦功を立てた。
その後、義経の都落ちにも同行。
平泉に落ちてからも兄との連絡を絶やさず、衣川の戦いで討死。

するがじろうきよしげ
駿河次郎清重
?〜1189
元猟師といわれるが、出自は不明な点が多い。竹下次郎とも称す。
最初、頼朝に仕えていたが、源平合戦では義経の郎党に加わる。
堀川夜討の時に、捕らえた刺客の土佐坊昌俊を処刑した。
義経の都落ちに同行し、衣川の戦いで討死。

きさんた
喜三太
1163〜1189
出自は不明。鬼三太ともいわれる。
厩の係を勤めて「御馬屋の喜三太」と呼ばれ、弁慶と共に勇名をはせる。
堀河夜討の際、奮戦してこれを防いだ。
義経の都落ちに同行し、衣川の戦いで討死。

かたおかたろうつねはる
片岡太郎常春
生没年未詳。
次郎常春ともいう。為春の兄。
弟の為春と共に義経に従い、源平合戦で戦功を立てる。
養父の佐竹義政と共に頼朝に謀反を企て、下総三崎荘を没収される。
のちに戻されるが、再び召し上げられる。

かたおかはちろうためはる
片岡八郎為春
?〜1189
常春の弟。
兄の常春とともに九郎義経に従い、源平合戦で活躍する。
義経の都落ちに同行し、衣川の戦いで討死。

ほりやたろうかげみつ
堀弥太郎景光
?〜1186
出自は不明だが、書物によっては金売り吉次の後身ともいわれる。
義経都落ちに同行するが、その後別れて京都に潜伏。
糟屋有季に捕られ、義経が南都興福寺の聖弘得業に匿われていることを白状し、その後斬殺。

ひたちぼうかいそん
常陸坊海尊
生没年未詳。
出自は不明。海賢、荒尊とも称する。
元は園城寺の悪僧ともいわれる。
義経の都落ちに同行するが、衣川の戦いでは物詣に出て帰らず難を逃れた。

わしおさぶろうよしひさ
鷲尾三郎義久
?〜1189
鷲尾庄司武久の子。丹波国多紀郡鷲尾の住人。
一ノ谷の合戦の際に猟師の子として義経軍の道案内をして勝利をもたらしたといわれる。
その後、義経の郎党として活躍し、衣川の戦いで討死。