人物事典

−平家一門(壱)−



たいらのただもり
平忠盛
1096〜1153
従四位上の平正盛の子。清盛の父。
白河、鳥羽両上皇に信頼され、山陽、南海2道の海賊を追捕し、再度西海の海賊を平らげた功績により、従五位下、伊勢守・備前守・播磨守などを歴任。
その後刑部卿正四位上。
得長寿院造営の功により天皇の御所への昇殿を許される。
日宋貿易に尽力。

たいらのむねこ
平宗子
生没年未詳。
藤原宗兼の娘。忠盛の後妻。清盛の継母。頼盛の実母。池禅尼。
忠盛没後に出家し、六波羅の池殿に住む。
平治の乱で捉えられた源頼朝を助命。

たいらのきよもり
平清盛
1118〜1181
忠盛の長男。平相国。浄海入道。六波羅殿。
母の出自は不明で、白河院の寵姫の祇園女御の妹ともいわれ、白河院の落胤ともいわれる。
保元・平治の乱後、源氏に代って勢力を得て累進、従一位太政大臣となる。
その後病により出家。
妻の時子の妹の建春門院を仲介に高倉天皇に娘の徳子を入内させ、安徳天皇の出生により天皇の外戚としての地位を固める。
その後は強圧的な施策によって武家政権の樹立を図る。
諸国の叛乱が激化する中、九条河原口の平盛国の邸で病死。

たいらのときこ
平時子
1126〜1185
兵部権大輔正五位下の平時信の娘。清盛の妻。時忠の姉。二位尼。
清盛と結婚し、宗盛、知盛、重衡、徳子らを生む。
清盛と共に出家し、徳子の入内により従二位に。
壇ノ浦の戦いで三種の神器のうち神璽と宝剣を帯し、孫の安徳天皇を抱いて入水。

たいらのつねもり
平経盛
1124〜1185
忠盛の三男。母は陸奥守皇后亮源信雅の娘。
安芸守などを歴任、正三位参議に昇る。歌人で笛の名手。
壇ノ浦の戦いで異母弟の教盛と共に入水。

たいらののりもり
平教盛
1128〜1185
忠盛の四男。母は少納言藤原家隆の娘。
清盛の六波羅邸の門脇に邸宅を構え、門脇殿と称された。
平治の乱の功により越中守、その後、正三位権中納言。
源行家を播磨に破ったが、壇ノ浦の戦いで異母兄の経盛と入水。

たいらのいえもり
平家盛
?〜1149
忠盛の次男。母は宗子。
右馬頭・従四位下。病死。

たいらのよりもり
平頼盛
1132〜1186
忠盛の五男。母は宗子。
六波羅の池殿に住んだため、池殿、池の中納言などと呼ばれた。
権大納言正二位。
常に異端児的な存在に見られ、治承三年のクーデターの際には他の公卿や殿上人などと共に解官された。
都落ちの際、鳥羽離宮の南門から引き返して法住寺殿に逃げ込み、その後、頼朝を頼って鎌倉へ下向。
母の池禅尼が源頼朝を助けた功により、平氏滅亡後も頼朝に厚遇された。
壇ノ浦の戦い直後に出家し、その翌年に死去。

たいらのただのり
平忠度
1144〜1184
忠盛の六男。母は院御所に仕えた女房。
正四位下薩摩守。
歌人としても有名で藤原俊成に師事した。
都落ちの際は、途中から引き返して俊成の門をたたき、勅撰集への入集を願い自分の歌集を託していったという。
一ノ谷の戦いで破れて逃げ延びる途中、岡部忠純に追いつかれ討死。

たいらのしげもり
平重盛
1138〜1179
清盛の長男。母は右近将監高階基章の娘。小松殿。小松内府。灯籠大臣。
保元・平治の乱に功あり、累進して左近衛大将、内大臣を兼ねた。
謹直、温厚で、武勇人に勝れて忠孝の心が深かったと伝えられるが、「殿下乗合事件」で基房に報復を仕掛ける一面も。
晩年は病気がちで、出家して病死。

たいらのむねもり
平宗盛
1147〜1185
清盛の三男。母は時子。
従一位内大臣。
清盛の死後、家督を継ぎ一門の棟梁となる
源義仲の入京を前にし、一族と共に安徳天皇を奉じて西走。
壇ノ浦の戦いで捕えられ、鎌倉から京への上洛途中、嫡子清宗とともに篠原の宿で斬首。

たいらのとももり
平知盛
1152〜1185
清盛の四男。母は時子。
権中納言従二位。
源頼政を宇治に滅ぼし、源行家を美濃に破るなど一門の軍事面での中心的存在として活躍した。
一ノ谷での敗戦後、知盛の軍勢は彦島を固め、周防・長門に下った範頼の軍を苦しめた。
壇ノ浦の戦いで入水。

たいらのしげひら
平重衡
1156〜1185
清盛の五男。母は時子。
正三位左近衛権中将。
武勇の将として知られ、源頼政を宇治に破り、東大寺・興福寺を攻めてこれを焼いた。
一ノ谷の戦いで生け捕りにされ、京中を引き回された後、鎌倉へ下向。
奈良僧徒の請で奈良に送られ、木津川で斬首。

たいらのとものり
平知度
?〜1183
清盛の七男。
淡路守、尾張守、参河守。
富士川の戦いで敗走するが、墨俣川の戦いで新宮十朗行家を破る。
その後、義仲討伐の為に北陸へ向かい、志保山の戦いで討死。

たいらのとくこ
平徳子
1155〜1213
清盛の次女。母は時子。高倉天皇の皇后。安徳天皇の母。建礼門院。
後白河法皇の猶子として入内後、高倉天皇の女御となった。
その後中宮となり、安徳天皇を産む。
壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海に投じたが、源氏に救われて京都に還り、剃髪して真如覚と号して洛北大原寂光院に住んだ。

たいらのもりこ
平盛子
1156〜1179
清盛の娘。
高倉天皇の准母。白河殿。
摂政近衛基実と結婚したが、11歳の時基実が死去。
摂関家の遺領を全て相続する。

たいらのよしこ
平能子
生没年未詳。
清盛の子。母は常盤。廊御方。
平氏一門の都落ちの際に同道し、壇ノ浦の戦いで異父兄の源義経に捕縛される。
その後、藤原兼雅の寵愛を受ける。