人物事典
−平家一門(弐)−
たいらのつねまさ 平経正 |
?〜1184 経盛の長男。清盛の甥。 正四位下、但馬守。歌人として知られる。 琵琶の名手で、平家都落ちの際、名器「青山」を守覚法親王に返上したという。 一ノ谷の戦いで討死。 |
たいらのつねとし 平経俊 |
?〜1184 経盛の次男。清盛の甥。 従五位下、若狭守。一ノ谷の戦いで討死。 |
たいらのあつもり 平敦盛 |
1169〜1184 経盛の三男。清盛の甥。 従五位下に叙せられたが官職が無いことから無官大夫と呼ばれた。笛の名手。 一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。 |
たいらのみちもり 平通盛 |
?〜1184 教盛の長男。母は皇后宮大進藤原資憲の娘。清盛の甥。 中宮亮・建礼門院別当・非参議従三位。 一ノ谷の戦いでは乱戦の最中に弟たちとはぐれ、自害しようとしたところを佐々木三郎盛綱らに取り囲まれて討たれた。 |
たいらののりつね 平教経 |
1160〜1185 教盛の次男。清盛の甥。 正五位下能登守。 勇敢で、屋島の戦いでは佐藤継信を射止めたといわれる。 壇ノ浦の戦いでは義経を八艘飛びさせるほどに追いつめ、敵方の猛者を両脇に抱え込み入水したといわれるが、「吾妻鏡」には一ノ谷の戦いで捕殺とある。 |
たいらのなりもり 平業盛 |
?〜1184 教盛の三男。清盛の甥。 蔵人大夫と称した。従五位下。一ノ谷の合戦において討死。 |
たいらのちゅうかい 平忠快 |
1162〜1227 教盛の四男。清盛の甥。 壇ノ浦の戦いで捕らえられ、伊豆国に流罪。後に出家。 |
たいらのこれもり 平維盛 |
1157 〜1184 重盛の長男。 右権中将伊予権守従三位。 その姿が美しかったので桜梅少将と呼ばれた。 源頼朝と富士川に対陣して水鳥の羽音に驚いて敗走し、倶利伽羅峠の戦いで大敗を喫したことで、一門の中で孤立した存在となる。 一ノ谷の合戦にも参加せず、その後、屋島にあった一門から離脱し高野で出家。 那智で入水したとも病死したともいう。 |
たいらのすけもり 平資盛 |
1161〜1185 重盛の次男。 右権中将、蔵人頭、従三位。 歌人で箏の名手。恋人は歌人の建礼門院右京大夫。 一ノ谷の前哨基地であった三草山では総大将であったが、義経軍に大敗。 壇ノ浦の戦いで弟の有盛らと共に入水。 |
たいらのきよつね 平清経 |
?〜1183 重盛の三男。母は中納言藤原家成の娘で大納言成親の妹の経子。 従四位上左近衛権中将。 都落ち後、もと家人の緒方惟義に太宰府を追われた平家一門は豊前柳ガ浦に船を浮かべるが、この状況に絶望して入水したといわれている。 |
たいらのありもり 平有盛 |
?〜1185 重盛の四男。母は大納言成親の妹の経子。 正五位下左近衛少将。壇ノ浦の戦いで入水。 |
たいらのもろもり 平師盛 |
1171〜1184 重盛の五男。母は大納言成親の妹の経子。 従五位下備中守。一ノ谷の戦いで討死。 |
たいらのただふさ 平忠房 |
?〜1186 重盛の六男。母は大納言成親の妹の経子。 屋島の戦いで敗れると戦線離脱、紀伊国の豪族の湯浅権守宗重に庇護を求める。 やがて、近隣諸国に潜んでいた平家の家人や落人と共に源氏と戦うが、降人となり、鎌倉に送られた後、再度上洛する途中に斬首。 |
たいらのろくだい 平六代 |
生没年未詳。 維盛の嫡男。母は藤原成親の娘。 平家都落ちの際は幼く、奥嵯峨に隠れ住んでいたが、密告により捕らえられた。 文覚上人により処刑を免れ、その弟子となってやがて出家。 最期は古江川で斬られた。 |
たいらのきよむね 平清宗 |
1171〜1185 宗盛の長男。 平家主流派の嫡子として、若くして正三位右衛門督と異例の出世を遂げる。 壇ノ浦の戦いでは、入水するも死にきれぬまま父と共に捕われた。 鎌倉に移送された後、近江国篠原宿において堀弥太郎景光に斬られた。 |
たいらのよしむね 平能宗 |
1180〜1185 宗盛の二男。 従五位上。壇ノ浦の戦いで一族と共に西海へ落ちたが、捕らえられた。 六条河原において斬首。 |
たいらのともあきら 平知章 |
1169〜1184 知盛の長男。母は八条院の女房の治部卿局。 従五位上左馬頭兼武蔵守。 一ノ谷の戦いでは、父の知盛に従い生田の森で源氏軍を迎え撃った。 知盛と共に敗走中に源氏方に追い付かれ、知盛を守って戦い討死。 |
たいらのともただ 平知忠 |
?〜1196 知盛の次男。母は八条院の女房の治部卿局。 平家都落ちの際、知盛の乳母の夫の橘為範に預けられた。 為範は成長した知忠を伴って反抗のすきを伺っていたが、密告により検非違使の追捕を受け自害。 |
たいらのときのぶ 平時信 |
?〜1149 清盛の妻の時子、時忠、建春門院滋子の父。 鳥羽院判官代をつとめ兵部権大輔正五位下。 外孫の高倉天皇の即位で、正一位佐大臣が追贈された。 |
たいらのときただ 平時忠 |
1128〜1189 兵部権大輔正五位下の平時信の長男。清盛の妻の時子の弟、後白河帝の女御の建春門院滋子の兄。 権大納言正二位。豪毅で理論家肌の政治家。 「平家にあらざれば人にあらじ」と豪語したことは有名。 滋子の縁で早くから後白河の寵臣となるが、皇子憲仁(高倉天皇)を皇太子につけようと画策したことで出雲国に配流されたこともある。 清盛亡き後、平家の実質的な指導者となる。 壇ノ浦の戦いで息子の時実と共に捕らえられ、保身の為に娘を源義経に嫁がせる。 能登に配流され、そこで死去。 |
たいらのしげこ 平滋子 |
1142〜1176 兵部権大輔正五位下の平時信の娘。清盛の妻の時子、時忠の妹。 後白河天皇の女御。高倉天皇の母。建春門院。 |
たいらのもりくに 平盛国 |
1113〜1186 主馬判官と呼ばれた。 清盛の側近で保元・平治の乱で活躍。 壇ノ浦の戦いで捕らえられ、宗盛と共に鎌倉に送られたが、断食して死んだといわれる。 |