人物事典

−鎌倉御家人(壱)−



ほうじょうときまさ
北条時政
1138〜1215
鎌倉幕府の執権。源頼朝の妻の政子の父。
頼朝の挙兵に従い補佐する立場で活躍。制覇後、七国地頭。
頼朝の没後、跡を継いだ頼家の親政を止めさせ、時政を含む13人の合議制を確立。
初代執権となり、頼家を廃して政子と共に幕府の実権を握るが、次期将軍問題で息子の義時と対立し隠退した。

ほうじょうよしとき
北条義時
1163〜1224
時政の次男。通称は江間小次郎。
頼朝の没後、13人の合議メンバーに加わり頼家を補佐する。
その後、頼家を幽閉し実朝を将軍に擁立した。
次期将軍問題で父と対立し、父を伊豆に追放。
二代執権となり実権を握る。
承久の乱に勝って、武家政権の優位を確立すると同時に執権政治の基礎を築いた。

かじわらかげとき
梶原景時
?〜1200
通称は平三。
大庭景親に従い石橋山で頼朝を破るが、捜索時に頼朝の所在を知りながら見逃した話は有名。
その後頼朝に属し、平氏追討に参戦。
屋島の戦いにおける作戦で義経と対立し、これ以降は義経の不義を頼朝に讒言して失脚させたといわれる。
その後、結城朝光を頼家に讒訴したことで弾劾され、鎌倉から追放。
駿河国狐崎で一族と共に討死。

かじわらかげすえ
梶原景季
1162〜1200
梶原景時の長男。通称は源太。
若くして騎射の達人として知られ、宇治川の戦いで佐々木高綱と先陣争いをしたことは有名。
平氏縁者の配流と源行家追討を義経に伝える使者として上洛した際に、義経の動向を探って頼朝に報告した。
頼朝没後、父の景時の弾劾に伴い、駿河国狐崎で討死。

かずさのすけひろつね
上総介広常
?〜1183
千葉常胤の又従兄弟。
上総、下総の支配権を継承した最有力在庁官人。
保元の乱では義朝の子の義平に従い、頼朝挙兵には大軍を率いて従うなど、平氏討伐に貢献。
頼朝の信頼が厚かったが、謀反の嫌疑をかけられ梶原景時により謀殺。

ちばつねたね
千葉常胤
1118〜1201
上総介広常の又従兄弟。
保元の乱で義朝の郎党として出陣。
頼朝挙兵後も頼朝に従い、平氏討伐、奥州討伐に参戦。
戦功により奥州各地の所領を得ると共に、幕府の宿老として重んじられた。

かとうかげかど
加藤景廉
?〜1221
頼朝挙兵の際に父の加藤景員と共に従軍し、目代山木兼隆を討つ。
その後も平氏討伐、奥州討伐に参戦し、戦功により遠江国浅羽荘地頭食となる。
梶原景時の謀反に連座して領地を没収され、その後出家。

かねこいえただ
金子家忠
1138〜1216
武蔵七党の1つの村山党の一族。
平治の乱では源義平の元で活躍。その後の源平合戦でも数々の戦功を立てた。
頼朝、頼家、実朝の3代に仕えた。

たけだのぶよし
武田信義
1128〜1186
甲斐源氏清光の子。戦国大名の武田氏は後裔にあたる。
似仁王の令旨を受け頼朝に応じて信濃甲斐の平氏討伐のため挙兵し、富士川の戦いに参戦。
駿河国守護に任じられるなど源氏一門として重きをなすが、後に後白河法皇の頼朝追討に加担した嫌疑をかけられ、失意のうちに死去。

あだちもりなが
安達盛長
1135〜1200
頼朝が伊豆に配流中の頃より側近として仕え、御家人の中でも頼朝の信頼が1番厚かったといわれる。
奥州征伐や頼朝の上洛にも従軍。
頼朝没後は13人の合議メンバーに加わる。

あだちきよつね
安達清経
生没年未詳。
父は安達景盛で、安達盛長の孫。
祖父、父同様に頼朝に仕えた。
頼朝と義経が不和になると京都に赴き、義経の監視及び報告の任務を任せられ、静と磯禅師が鎌倉に連行された際は、2人の身柄を預かる。
その後、静が義経の男児を出産すると、頼朝の命により、その子を由比ガ浜に捨てたといわれる。

ささきさだつな
佐々木定綱
1142〜1205
宇多源氏の佐々木秀義の長男。通称は太郎。
平治の乱後、本領の近江佐々木荘を没収されたが、頼朝の挙兵に従い戦功を立て近江守護となる。
延暦寺の衆徒の強訴で薩摩に流されるが、許されて復帰する。

ささきつねたか
佐々木経高
?〜1221
宇多源氏の佐々木秀義の次男。
平治の乱後、相模の渋谷荘に逃れる。
頼朝の挙兵に加わり戦功をたてる。
承久の乱で後鳥羽上皇方に属して敗れ、自害。

ささきもりつな
佐々木盛綱
1151〜?
宇多源氏の佐々木秀義の三男。
頼朝の挙兵に参加して戦功をたてる。
頼朝の死後出家したが、越後城氏の反乱鎮圧、京都守護平賀朝雅追討などに功績があった。

ささきたかつな
佐々木高綱
?〜1214
宇多源氏の佐々木秀義の四男。通称は四郎。
頼朝挙兵と同時に関東に参向。
宇治川の戦いで梶原景季と先陣を争い勝利した話は有名。
後に剃髪して高野に入り、西入と号した。

みうらよしずみ
三浦義澄
1127〜1200
早くから頼朝の側近として仕え、その後の平氏討伐、奥州討伐でも活躍。
頼朝の信頼が厚かった御家人の1人。
頼朝没後は幕府の宿老として合議制に加わり、北条時政と競うほどの勢力を誇った。

こやまともまさ
小山朝政
1155〜1238
通称は小次郎。
早くから頼朝に属し、平氏追討の際には範頼軍に従う。
幕府設立後は、下野、播磨2国の守護を兼任するなど幕府宿老として重んじられる。
その後、出家。

どいさねひら
土肥実平
生没年未詳。
通称は次郎。
頼朝挙兵以来、常に頼朝に従う。
平氏追討の戦功により、備前、備中、備後の守護に任ぜられる。
義経が頼朝と不和となり京を去った後は、京都警護も兼任。
奥州征伐にも参戦。

はたけやましげただ
畠山重忠
1164〜1205
頼朝挙兵時は平氏方について敵対したが、その後降伏して頼朝に属し、平氏追討、奥州討伐などで活躍する。
子の重保と平賀朝雅との争いが原因で、北条義時軍と戦って敗北し討死。

ごとうもときよ
後藤基清
?〜1221
佐藤仲清の子で後藤実基の養子。
頼朝に仕え平氏追討に活躍する。
中原政経らと源通親襲撃を謀り流罪となるが、後に許される。
承久の乱で後鳥羽上皇方に属し斬首。
義経一行が腰越手前の酒匂で足止めされた時、後藤基清の郎党と伊勢三郎の郎党が乱闘になったといわれている。