人物事典
−鎌倉御家人(弐)−
わだよしもり 和田義盛 |
1147〜1213 幕府初代の侍所別当。 頼朝挙兵以後、常に従って戦功を立て、頼朝の信頼も厚かった。 その後、北条氏勢力の確立を図る北条義時と対立。 北条氏の挑発に乗り挙兵して敗死、一族は滅亡。 |
おおうちこれよし 大内惟義 |
生没年未詳。 一ノ谷の戦いでは義経軍にあって活躍。 伊賀国守護に任ぜられ、国内の平氏残党を追討する。 頼朝没後は京都にあって朝廷との折衝にあたる。 |
やまなよしのり 山名義範 |
生没年未詳。 清和源氏新田氏の始祖である新田義重の長男。山名氏の始祖。 一ノ谷の戦いでは義経軍に属し戦功を立てた。 その後、奥州征伐に従軍したり、頼朝の上洛に供奉。 二度目の上洛では頼朝の伴として参内している。 |
くまがいなおざね 熊谷直実 |
1141〜1208 武蔵国熊谷郷の豪族。平知盛に仕えたが、頼朝挙兵に伴い従軍し、平家追討で活躍した。 一ノ谷の戦いで平敦盛を泣く泣く討ち取った話は有名。 その後、久下直光と地を争って敗れ、京に走り仏門に入って法然に師事した。 |
かわごえしげより 河越重頼 |
?〜1185 義経の正室の父。 武蔵国入間郡河越荘司として勢力を持ち、代々ここを本拠とした。 義仲追討、平氏追討と戦功を立てた。 頼朝と義経が不和になると、娘が義経の正室であったことに連座して所領を没収された。 その後、頼朝の陰謀により謀殺されたという。 |
ひらやますえしげ 平山季重 |
生没年未詳。 頼朝が挙兵をすると馳せ参じ、平氏追討に参戦。 その後は義経軍に属して活躍した。 一ノ谷の戦い後、頼朝の許可なく右衛門尉に任官した為に頼朝の怒りを買うが、のちに許されて奥州征伐に参戦。 |
ひきのよしかず 比企能員 |
?〜1203 頼朝の乳母の比企禅尼の養子。娘は頼家の妻。通称は藤四郎。 早くから頼朝に仕え、平氏追討などに従軍。 頼朝の側近として幕府設立時は行政事務に関与した。 頼朝没後は13人の合議メンバーに加わる。 頼家と謀って北条氏の討伐を企てたが、北条時政により一族郎党すべて謀殺された。 |
とさのぼうしょうしゅん 土佐坊昌俊 |
?〜1185 頼朝の命令で、京都堀川殿の義経を襲撃するが失敗。 鞍馬山に逃れたが捕らえられ、六条河原で斬られた。 前身は義朝の郎党の1人であった渋谷金王丸といわれる。 常盤に義朝の死を伝えた後に出家し、その後頼朝に仕えたという。 |
たしろのぶつな 田代信綱 |
生没年未詳。 頼朝挙兵に従い、義経軍に属して一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いで活躍する。 一ノ谷の前哨戦である三草山の戦いでは、義経に夜討ちを進言して味方に勝利をもたらす。 |
こうのみちのぶ 河野通信 |
1156〜1223 妻は北条時政の娘。本拠は伊予国。 頼朝が挙兵すると鎌倉方に従う。 屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでは、水軍を率いて大いに活躍する。 承久の乱では京都方に味方し鎌倉方と敵対したが、敗れて所領を没収され奥州平泉に配流。 |
なすむねたか 那須宗高 |
生没年未詳。 通称は与一。 下野国那須部の武士の那須太郎資高の11男。 弓の名手と知られ、源平合戦には義経軍として参戦。 屋島の戦いで扇の的を射落した話は有名。 戦功により所領を賜るものの、その後の消息は不明。 |
いちじょうよしやす 一条能保 |
1147〜1197 父は藤原通重。母は藤原公能の娘。妻は頼朝の同母妹(姉)。 姓の一条は五摂家の一条家ではなく住所から。公卿。 頼朝の義弟として京都の情勢を東国へ通報し、京都における頼朝の代官的役割を果たす。 義経のあと、京都守護となる。 |
なかはらちかよし 中原親能 |
1143〜1208 大江広元の兄。妻は頼朝の娘の乳母。 頼朝とは弟の広元との関係から側近として活躍する。 頼朝の代官として義経と共に京都へ派遣され、範頼軍に属して九州各地で転戦した。 その後、弟の広元と共に幕府創業に尽力。 |
おおえのひろもと 大江広元 |
1148〜1225 父は参議藤原光能。中原親能の弟。 兄の関係で頼朝に鎌倉に招かれ公文所別当となる。 守護・地頭の設置は広元の献策といわれている。 頼朝の信頼も厚く、義経が腰越状を広元宛に書いて頼朝へのとりなしを依頼した話は有名。 頼朝の死後も北条氏と結んで幕政の基礎を固めた。 |
みよしやすのぶ 三善康信 |
1140〜1221 母は頼朝の乳母の比企尼の妹。公家。 伊豆に配流された頼朝に、京都情勢や朝廷や平氏の動向を報告した。 頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向し政務を担当。 初代問注所執事として裁判事務の責任者となる。 頼朝没後、13人の合議メンバーに参加。承久の乱後、没した。 |