人物事典
−朝廷・奥州・その他の人々−
ごしらかわほうおう 後白河法皇 |
1127〜1192 鳥羽天皇の第四皇子。母待賢門院璋子。名は雅仁。 即位の翌年に保元の乱が起る。 二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政を行った。 造寺、造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。 源平争乱などの激動期を義朝、清盛、義仲、義経らを影で操り続けることで、朝廷権力の確保をはかる。 |
すとくじょうこう 崇徳上皇 |
1119〜1164 鳥羽天皇の第一皇子。名は顕仁。 5歳で即位。退位後に保元の乱に敗れて讃岐国に配流され、同地で没す。 |
もちひとおう 以仁王 |
1151〜1180 後白河天皇の第三皇子。三条宮。高倉宮。 皇位継承を望んだが、平氏の圧力により親王宣下を得られず、不遇の生活を送る。 源頼政の薦めにより平氏討伐を企て、令旨を諸国源氏に発するが事前に発覚。 園城寺に逃れ、南都へ向かう途中に討死。 |
しゅかくほつしんのう 守覚法親王 |
1150〜1202 後白河天皇の第二皇子。似仁王の同母兄。 出家して仁和寺御室第六代。義経が頼朝と不和になり都落ちして各地に潜伏した際に、義経を庇護して頼朝から非難される。「北院御室御集」「守覚法親王百首」「野月鈔」の著がある。 |
たかくらてんのう 高倉天皇 |
1161〜1181 後白河天皇の第七皇子。母は建春門院滋子。中宮は清盛の娘の建礼門院徳子。名は憲仁。 在位中は平清盛が執政。後に安徳天皇に譲位。 清盛のクーデターにより、短期間名ばかりの院政を敷く。 |
あんとくてんのう 安徳天皇 |
1178〜1185 高倉天皇の第一皇子。母は建礼門院徳子。名は言仁。 平氏政権の衰退期にわずか3歳で即位。 義仲の入京により平宗盛に擁せられ西国に赴く。 壇ノ浦の戦いでの平氏滅亡の際に、清盛の妻の二位ノ尼に抱かれて入水。 |
ごとばてんのう 後鳥羽天皇 |
1180〜1239 高倉天皇の第四皇子。母は坊門信隆の娘の藤原殖子。名は尊成。 平氏の都落ち直後、祖父の後白河法皇の院宣により4歳で即位。 在位中は後白河法皇と源通親に政治の実権を握られたが、譲位してからは23年間に渡って院政を行った。 承久の乱を起こしたが、幕府軍に大敗し、配流先の隠岐島で崩御した。 歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰。 |
くじょうかねざね 九条兼実 |
1149〜1207 公卿。父は藤原忠通。「愚管抄」を書いた慈円の兄。 月の輪関白と称す。 後白河法皇にも平氏にもつかず、義仲が入京してからも静観。 その後、頼朝と提携し親幕派公卿の筆頭となる。 頼朝の後援により議奏公卿の上首、摂政となり記録所を再興、関白となる。 後に源通親が政権を握ると朝廷を追われて出家。 兼実の日記「玉葉」は同時代の基本史料。 |
たかしなのやすつね 高階泰経 |
1130〜1201 後白河法皇の側近として少納言、右京大夫、大蔵卿などを歴任して権勢を振るった。 義経の謀反を後押しして頼朝追討の宣旨に関与したとして、頼朝の怒りを買い伊豆国に配流。 翌年に許され帰京するが、後に出家。 |
たいらのともやす 平知康 |
生没年未詳。 鼓の名手で、鼓判官と呼ばれた。 後白河法皇に仕え、木曾義仲が法住寺御所攻めの際に防衛に当たったが敗れ、検非違使の職を解かれる。 後に鎌倉で源頼家に仕え、頼家幽閉後、京に戻った。 |
ふじわらのもとなり 藤原基成 |
生没年未詳。 名門藤原北家の流れをくむ家に生まれ、鎮守府将軍に任じられ陸奥国に赴く。 その後、娘を藤原秀衡に嫁がせ奥州藤原氏と結びつくことで、東北方面での政治的地位を不動のものにした。 義経の養父の一条長成とは従兄弟にあたる為、そういった理由から義経は奥州行きを決意したといわれる。 |
ふじわらのひでひら 藤原秀衡 |
1121 〜1187 二代目当主藤原基衡の嫡男。 出羽押領使、鎮守府将軍、陸奥守。 平泉に居り、奥州藤原氏の最盛期を築く。 宇治平等院を模して無量光院を建立。 鞍馬を出た義経を匿い養育したが、源平の争乱時には一貫して中立の立場をとり頼朝に服従することもなかった。 頼朝と不和となり都落ちした義経を庇護し、頼朝を牽制する態度を示すが、病死。 |
ふじわらのくにひら 藤原国衡 |
?〜1189 秀衡の長男。通称は西木戸太郎。 庶子であった為、弟の泰衡が秀衡没後、家督を継承する。 頼朝の奥州攻めに際し、阿津賀志山で防戦。 敗走中に和田義盛に射られ大串次郎に討たれた。 |
ふじわらのやすひら 藤原泰衡 |
1155〜1189 秀衡の次男。母は藤原基成の娘。 庶子であった兄の国衡を差し置いて、秀衡没後に家督を継承する。 父の遺命によって義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧迫を受け高館に奇襲して義経を自害させる。 頼朝の奥州征伐を受け敗北。 比内郡贄柵において郎従の河田次郎の裏切りにより殺害された。 |
ふじわらのただひら 藤原忠衡 |
1167〜1189 秀衡の三男。通称は泉三郎。 衣川のほとりの泉ヶ城に住したので泉氏を称した。 父の秀衡没後、終始義経擁護の立場を固持。 その為に反対派の兄の泰衡によって殺害される。 |
かねうりきちじ 金売り吉次 |
生没年未詳。 吉次信高、橘次末春とも称す。 奥州の黄金を京で商って長者になったという伝説的人物。 鞍馬で知り合った牛若丸を平泉の藤原秀衡のもとに連れて行ったとされる。 |
たんぞう 湛増 |
1130〜1198 父は第18代熊野別当湛快。妻は頼朝の叔母。 代々熊野新宮別当を務める家柄で、保元の乱の際に平氏に加担して勢力を拡大させる。 後に源氏に味方し、屋島、壇ノ浦の戦いでは200余艘の軍船からなる熊野水軍を率いて参戦、源氏の勝利に貢献した。 |
きいちほうげん 鬼一法眼 |
生没年未詳。 「おにいちほうげん」とも読む。 伝説上の人物。京都一条堀川に住んだ陰陽師で、文武の達人とされる。 義経が法眼の娘と通じて、伝家の兵書「六韜三略」を盗み学んだというので有名。 |
もんがく 文覚 |
1139〜1203 俗名は遠藤盛遠。元は北面の武士。 横恋慕の末に誤って袈裟御前を殺して出家し、熊野で苦行したという。 高雄山神護寺再興の為、後白河天皇に直談判するが捕らえられ伊豆へ配流。 配流時に会った頼朝に決起を促せるなど頼朝の挙兵を助勢。 幕府開創後その帰依を受けたが、頼朝没後、佐渡対馬に流罪。 |