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源九郎義経




1159年誕生。
源義朝の九男。母は九条院雑仕女の常磐。
幼名は牛若丸、遮那王。
後に検非違使尉(判官)に任ぜられたので九郎判官と呼ばれる。


誕生した翌年に平治の乱が起き、父・義朝は謀殺される。
母・常盤は今若と乙若と牛若の3人を連れて大和へ逃げるが、母を平氏に捕らわれて自首する。
常盤は平清盛の愛妾となり一子を儲けた後、大蔵卿一条長成の元へ嫁ぐ。
義経は鞍馬寺の東光坊またはその弟子の覚日の元に預けられる。
その頃、義朝の寵臣の鎌田正家の子の正親から自らの自仕や父についての事実を教えられ、武術に熱中するようになったという。
義経は出家するのを嫌がり、密かに鞍馬山を脱出し奥州平泉へと向かう。
この時の手引きを金売り吉次がしたとか、道中で襲ってきた盗賊を退治したとか、伊勢三郎義盛を手下にしたなどの逸話があるが史実かどうか定かではないらしい。


辿り着いた奥州では藤原秀衡に温かく迎え入れられ、ここで数年を過ごす。
秀衡の次男の泰衡の母は、常盤が嫁いだ長成の親戚の前民部少輔藤原基成の娘で、義経の奥州行きはその関係ではないかといわれている。
義経22歳の時に兄の頼朝が挙兵。
義経もすぐ参陣しようとするが秀衡に止められ、密かに奥州を脱出し鎌倉へ向かう。
富士川の合戦の翌日、黄瀬川にて頼朝と対面する。
義経が表舞台にその名を現すのはこの時が最初で、その後木曾義仲追討の為に京へ向かうまでの消息はわからないが、鎌倉で過ごしていたのは間違いないらしい。
頼朝と対面した翌年に、大工の馬引き事件がある。


頼朝の命で兄の範頼が大手軍、義経が搦め手軍として義仲追討のため鎌倉を出発。
義仲軍を破り、範頼より先に入洛する。
その後すぐ、一ノ谷へ平家追討に向かう。
範頼率いる大手軍は東から生田の森を目指し、義経率いる搦手軍は丹波路から一ノ谷の北側を目指す。
一ノ谷の北側の鵯越の断崖を駆け下りて平氏の陣の背後を突く奇襲攻撃が功を奏し、平氏軍は敗走する。
京に戻った義経は、頼朝より京都守護を命じられる。
その後、範頼が三河守に任官されるが、義経に対しての内挙はなかった。
義経は後白河法皇より佐衛門少尉と併せて検非違使(判官)の宣旨を与えられ、義経は頼朝の許可なくこれを受ける。
当時、頼朝の許可なく任官することは鎌倉の武士社会では大きな犯罪で、義経の無断任官に対して頼朝は激しく怒り、四国の平氏追討から義経を外している。
しかし頼朝は同時期、河越重頼の娘を義経の正室として選び京へ送っている。
義経はその頃、京で白拍子の静御前を側に置いていた。


平氏追討に西へ向かった範頼軍が兵糧不足に陥って豊後国で進退窮まったため、頼朝はついに義経に出陣を命令する。
義経軍は摂津渡辺津から自らの軍約150騎を率いて強風高波を押して渡海を強行し、阿波勝浦に上陸。
夜を徹しての強行軍で屋島の内裏の背後から突入し、平氏を西へ敗走させる。
その後長門壇ノ浦で、平氏軍と伊予水軍と熊野水軍などの水軍を味方につけた義経軍が激突した。
義経は平氏の船を漕いでいる舵取りや水夫を狙って矢を射るように命じたり、潮の流れの変化を味方にして平氏を滅亡させた。
義経は三種の神器の内の2つの神鏡と神璽をもって京都に凱旋するが、鎌倉の義経に対する処置は罪人扱いであった。


義経は平宗盛父子を捕虜として鎌倉へ護送するために京を出発するが、鎌倉へ入る事を止められる。
義経は腰越より自らの心情を訴える書(腰越状)を大江広元に送るが事態は好転することはなく、結局、頼朝に対面できないまま京へと戻り、道中で頼朝の命により平宗盛父子を斬殺する。
頼朝は義経追討を決意し、土佐坊昌俊に追討の役目を命じる。
土佐坊軍60余人は夜、京の六条堀川にあった義経邸を襲撃したが、義経側の応戦に敗走。
義経の頼朝追討の院宣の要求に対して後白河法皇は院宣を下し、義経と行家は京を出発し西国へ向かう。


義経一行は摂津大物浦から九州を目指すが、船は嵐で転覆し一行は四散。
その後の足跡は確かではないが、義経らは山伏に姿を変え逃亡を続け、後白河法皇は義経と行家捜索の院宣を下す。
途中で義経一行と別れた静は吉野で捕まり、京の北条時政に引渡された後、母の磯禅師と共に鎌倉へ送られる。
その後、静は男子を出産するが由比ヶ浜に投じられ、失意のまま京へ戻る。
次々と郎党が捕らえられたり自刃するなか、義経は奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れる。
しかし、義経が頼みとしていた秀衡が、泰衡らに義経を大将軍として兄弟力を合わせて頼朝を討つよう遺言して死去。
泰衡は頼朝の再三の督促による宣旨に屈して衣川の館の義経を襲い、1189年、義経は持仏堂にて妻子を殺し自刃した。
義経の首は美酒に浸し鎌倉に運ばれ、腰越にて梶原景時、和田義盛により首実検が行われた。


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