(航空写真昭和50年ごろ)

目次:縄文遺跡・神宮の御厨・地名の由来・山口県柳井市平郡島開拓者紀州早田の城主慶長検地の七軒の当主・早田浦庄屋、肝煎尾鷲市史年表(早田関係)・歴代九鬼村村長


早田の縄文遺跡

早田の縄文土器(早期)の発見した場所は、九鬼よりの明神岬付近の通称石浜と砂浜(字名東山)で1978年発見(発見者は、作者です。高校3年の時)

発見場所が波打ち際のため、磨耗が激しいので縄文土器で在る事は、確かなのですが、年代が特定出来ないものが、出土ましてた。

縄文土器以外にも、平安、鎌倉期の須恵器、土師器が見つかっています。

 

神宮の御厨・比志賀(ひじか)

九鬼、早田の古地名ともいわれている

場所は、九鬼町の奈佐の鼻から当町オビヤナの鼻の間に在る地名です。

当町では、大志賀(おじか)、小志賀(こじか)と地名で呼んでいます。現在大志賀が九鬼町、小志賀が当町になります。明治初年両町が相談の結果和解し、今に至ています。

九鬼町では、大志賀を比志賀と呼んでいます。

しかし尾鷲組大庄屋文書のなかに早田の海岸の境界は、大比志賀鼻と書かれている。

早田では、何時の間にか比が略され、九鬼では自領の、大比志賀を比志賀と現在言っています。荒磯で両比志賀共、涌き水が涌き先人が住んでいたとて、不思議では、在りませんまた、沖を望むと遠くは志摩半島、が見えます。

大、小と附く地名は、ほかには、木名があります。


早田(地名の由来)
早田と書いてハヤタと読ます所は多いが、ハイダと読ます例はほかにない。ハヤタの場合は字の如く、早く稲が実る温曖の地という意味であるが、早田町には田が少なく、ハヤタではないようである。
全国の例をみるとハイダという地名は、拝田(大分県)、林田(岡山県)、止田(奈良県)などがある。
ハイはもともとハエで、ハエにはニつの意床があり、一つは小平地、もう一つは岩礁という意である。この二つの意味は今の早田町にそのまま当てはまる。
当地の方言として輝(ハエ↓ハイ)、娃(カエル↓カイル)、前掛(マエカケ↓マイカケ)のように、工がイに変化する。また反対に岩(イワ↓ユワ)、位牌(イハイ↓ユ・ハイ)、鰯(イワシ↓ユワシ)ともなり、イとユは混同して使用される。
ハエダがハイダになっても別に不思議ではない。音があって、あとで漢字を当てるので、漢字そのものにはあまり意味がない。
早田浦に初めて人が住みついたと言われる所は、橋掛崎の湾口から少し湾内へ入った「人所」で、次が「木名・小ロ」だといわれる。小口には小石を積み重ねた古い形式の墓が残っている。
安政元年(一八五四)の津波で、早田浦は四○戸も流失したが、この津渡より一四七年前の宝永四年(一七○七)の津渡には、早田浦の被害は計上されていない。
他の浦村では相当な被害があったのに、早田浦に被害のなかったのは、現在のように湾奥に住んでいたのではなく、人所・木名・小口に住んでいたため、津波は素通りしたのであろう。


山口県柳井市平郡島の開拓者紀州早田の城主

平郡島は、瀬戸内の島で平安末期、鈴木三郎帯刀助が主君木曾義仲の遺児へぐり丸を守り落ちて住み着き、無人島を開拓したまた鈴木氏が祭った八幡宮は、早田八幡宮です、尾鷲市早田町かと、思ったので郷土史家の伊藤良氏に聞いた所当時は、その当時は、志摩の国であり、鈴木氏の父親が紀州の藤白(海南市)に住んでいたので、その近くに早田と言う所があったのでは、ないかと言われました、ただ神社が八幡宮、平見(子字名)に城が在った口伝があり、今早田には、鈴木姓は、いませんただ昔紀州の人が、無人島を開拓したのは、事実です。

 

慶長六年以前の文献がわかりません

知って折られたらご一報または、掲示板に掲示下さい

 

慶長六年 検地帳(七軒の当主、屋敷地の面積)

検地帳にの書かれている当主、寺は、寺だけで名前がありませんでした。

古文書のなので解読がちがうかもわかりません。製作者がよみました。

居屋敷 ・三間 ・5間・十五歩  ・ 勘衛門

同   ・ 六間 ・ 六間・壱畝六歩・ 寺

同  ・三間 ・九間・十五歩 ・下 藤三郎

同  ・四間 ・五間・二壱歩 ・下 与一郎

同  ・三間 ・四間・十弐歩 ・与のやもめ

同  ・三間 ・三間半・九歩 ・下 与三郎

同  ・四間 ・五間・弐畝壱歩・庄屋 才蔵

家数合七間内

四間・役人 ・壱間・庄屋

壱間・寺  ・壱間・やもめ

慶長六年十月三日

(屋敷の在った地名がありません)

田、畑の地名は、山原、打越、森の上が読み取れました。

早田浦・庄屋・肝煎  (おわせの浦村より)

安永4 (1775) 善 七     長三郎
安永6 (1777) 徳太郎     長三郎
天明4 (1784) 徳太郎     長 蔵
寛政6 (1794) 徳太郎     長 七
亨和3 (1803) 徳太郎     彦之丞
文化6 (1807) 徳太郎     喜平治
文化9 (1812) 善 七     善右衛門
           亀 吉     徳右衛門
文政7 (1826) 彦之丞
文政11(1828) 四郎左衛門   善右衛門
文政12(1829) 藤 蔵     伝兵衛
天保2 (1831) 藤 蔵     徳兵衛 
天保5 (1834) 四郎左衛門   善右衛門
天保6 (1835) 徳兵衛     善右衛門
天保8 (1837) 四郎左衛門   善右衛門
天保9 (1838) 徳太郎     半三郎
天保10(1839) 半三郎     伝兵衛
天保13(1842) 半三郎     民之丞
弘化3 (1846) 半三郎     彦之丞
弘化5 (1848) 半三郎     八治郎
嘉永2 (1848) 八治郎
安政2 (1855) 半三郎
安政6 (1859) 八治郎     四郎左衛門
安政7 (1860) 八治郎     彦之丞
文久2 (1862) 和右衛門(九鬼)彦之丞
文久3 (1863) 四郎左衛門   彦之丞
元治2 (1865) 四郎左衛門   善右衛門
慶応2 (1866) 四郎左衛門   彦之丞
慶応3 (1867) 徳太郎     庄兵衛
明治3 (1870) 善三郎     庄兵衛

上記の村役の名をみると現在子孫の苗字は、東、三木、   西川姓で大部分は、東、三木である。

尾鷲市史年表(早田関係)市制四十周年平成6年20日

135成務5
大阿斗足尼、熊野国造となる(旧事記)
645大化2
志摩国英虞郡に編入され、余戸となる(和名抄紀伊続風土記ほか)
715霊亀1乙卯
0500攝津から紀伊・志摩にかけて飢饉〔熊野年代記〕(上巻p83)
731天平3辛未
この年熊野地方一帯に5日間にわたり高潮来襲し、3日間の赤潮〔熊野年代記〕
(上巻p83)。
827天長4
2月僧空海熊野に入る(年大記)
1051永承6
この頃の須恵器(後期)土器片が地下杉(石浜)付近ではけん他に縄文土器、土師器、石器も発見
1090寛治4
熊野信仰さかんとなる。
1180治承4
西行法師の熊野来杖はこの年と推定(平氏熊野の伝記)。山家集に「新宮より伊勢の方へまかりけるに三木島云云」とあり。
1185建久3
屋島・壇浦の戦いに熊野海賊は、源氏に味方する。
1193建久4
この年の神凰鈔に記す鎌倉時代の伊勢神宮の(天文年中まで守護不入)のうち、比志賀御厨(現九鬼、早田の境界)
1424応永31
有馬荘(熊野市)和泉守忠永は近郷を制圧し、阿田和より九木・行野まで16ヶ村を領す(続風土記)
1555〜7弘治年間
三木荘は、三鬼新八郎が領有す(古江郷土史)
1574天正3
新宮の堀内安房は三木城に三鬼新八郎を攻む。鳥羽城主九鬼大隅守嘉隆は三鬼氏を援け、堀内方は木本荘司らを討ちとったので、堀内勢は、一応退却す。間もなく三鬼氏と大隅守は不和になり大隅守は鳥羽に引上げたので、三木城は堀内氏の手に落ち、三鬼新八郎は、上北山へ逃げ殺すさる(続風土記)
長島の加藤甚五郎は赤羽の奥村新之丞と共に、三木城を急襲し、堀内勢を追い城をとる(闕疑集)
1576天正4
新宮堀内安房氏善は兵二千をひきい加藤甚五郎を三木城に攻めて破る。この時赤羽の奥村新之丞は、堀内氏に内応し長島城を攻む
長島城は兵火にかかり甚五郎自刃す(伊勢軍記)
1583天正11
堀内氏の臣有馬中務は九鬼目代となる(続風土記)
1601慶長6
慶長検地帳は土地以外に夫役を課徴する役屋を把握す(この年の尾鷲地方の検地帳は、東京徳川林政史研究所に所蔵)  早田 七軒
1619元和5
この年行政区劃として組制を採用す
三木荘から尾鷲組みなる〔早田から北と尾鷲郷と須賀利(相賀荘)〕(続)
この年の三木里郷士世古主計の書に「二木島の楯ヵ崎より早田のマナ板島の間を、三鬼島といい、湾口を三木口と云う」(続)
1630寛永7
人所に五輪塔建つ(大塔)森下長九郎のち森下家墓地へ移設
1635寛永12
三木浦の木名浦狼煙場を設け、海上警備に備える
1637寛永14
人所に五輪塔建つ(小塔 妙徳禅定門)森下長九郎夫人のち森下家墓地へ移設
1645正保2 2月
北水山観音護国禅寺を僧 活雲性覚創立 (慶長の検地に寺が存在する)
1666寛文6
東七郎左衛門ははじめ尾鷲郷一一ヵ村(氏子一二〇人)尾鷲神社の神職となる(闕疑集)
1673〜80延宝年間
熊野で秋刀魚網が考案され各地に普及す(日本水産史、海年収)
1705宝永2
九木浦ヒジカ山へ早田浦百姓侵入し、木を伐り争うなり、真岩寺、観音寺が仲裁す(寺記)
1707宝永4
一〇月四日午刻大地震、津波来襲早田別条なし。浦方文書流失多し。
1715正徳5
この年御領分の御高(斗以下略)早田浦二三石
1716享保1
藩は、浦組制度を整備し浦組各組に和歌山より順に「い・ろ・は」の符号をつけ、尾鷲組は「お」組となり、異国船発見の際の措置・人員・船・武具・馬数・大まとい・高張提灯・のろし合図等を記した浦組帳を備えた
1750寛延3
早田浦口前所(定銀一一〇〇匁)在請になある。
1754宝暦4
早田御口前所は前年まで野地弥次右衛門名代支配だあったが、この年浦口下請名代となる
1656宝暦6
各浦村田作毛付飯料として三一九石拝借歎願す
早田浦は地下名吉網・細魚網・鰹立切網の費用拝借歎願す
1759宝暦9
名古屋の桑名屋長衛門船が大尾崎で難船し早田浦へ入津
1760宝暦10
各浦不漁のため得漁祈祷を行う
1763宝暦13
夏、春奥熊野全体に諸漁一切なし
1765明和2
藩より疱瘡病人改役河野文平来り、組内の個別に改む
早田浦・病人37・自力養生14・死人3
攝州二ッ茶屋浦木屋又兵衛船が遠州灘で難船し早田浦へ入津
1767明和4
早田浦御口前所の定銀の減額を願う
1772安永1
早田浦と盛松浦と持前山の伐荒しのことで縺れる
1774安永3
三月大坂富田屋吉衛門船が早田浦へ入津しその夜出火全焼
一一月紀州日高納屋浦長兵衛船が難船し早田浦へ助かる
1784天明4
早田などに雲芸院の秘文を下し、豊漁祈祷のため、海岸より五〜六町沖に流さす
1793寛政5
藩は全領に大指出帳を提出さす
早田浦・家数45・人口248・網数12・舟数26・牛数1
1795寛政7
四月卯日、正一位早田稲荷大明神勧請す(大庄屋文書)口伝伏見稲荷と云いう
1803享和3
豆州下田の源兵衛船が、遠州灘で水船になり、大坂富田屋の船に助けられ五月早田浦へ入津1806文化3

四月早田の御口前所直口となる
1808文化5
早田浦口で土井八郎兵衛船隆宝丸および志州畦名村伝五郎船は台風にて破船
1809文化6
六月早田浦不漁難渋のため浦祭りに人形芝居を興行したき旨を願出る
1813文化10
和具浦三吉乱心しチョロ船にて早田浦へ漂着、和具へ送る
1814文化11
勢州大湊松崎屋長次郎船九月二〇日早田浦口にて難船
1816文化一三早田・九木両浦も不漁
早田浦では庄屋善七・肝煎若右衛門が難渋人に施米す
1819文政2
この年の人口(但し八才以上)早田 298
1820文政3
早田浦武助より出火し、入港中の他国船の水主や、九木浦より三〇人出て消火に当る。類焼・けが人なし
1823文政4
早田浦は盛松浦の網代の借受賃四両を、一両減額するよう願う
1826文政9
比井浦文吾の船が遠州灘で難船となり上積荷物刎捨てたといつわり早田浦へ入津し積荷砂糖を売払ったので、買主林浦宇衛門・早田浦五人組ら吟味をうく
1828文政11
早田浦不漁難渋につき、土井本家米五俵、ほか五名より米一六表合力す
1929文政12
一月異国船錦浦沖を漂流中を三木浦の漁船が発見し報告続いて異国船沖合を通るを、早田浦九木崎遠見番が発見し報告、

七月早田浦不漁難渋により、二歩口役所へ拝借金を嘆願す
1832天保3
一二月大坂河内屋仁三郎船が難船し早田浦へ入津
1834天保5
一二月29日林浦彦右衛門より出火し四十軒類焼。けが人なし。九木浦より二〇人、早田浦より一〇人後片付けの応援あり。藩より米七石五斗二升銀一両三〇〇目銭45貫文救あり
1836天保6
六月早田浦不漁難渋につき拝借残金を得漁まで浮置に願う
1837天保8
早田浦難渋につき、同浦徳兵衛・喜平治・四郎左衛門より米各一俵地下より米三石五斗を合力して救う
1838天保9
一月早田浦は地下名吉網の仕入金に五〇両拝借す
この年尾鷲組一四ヶ在の人口激減し天保八年の七五弐六人が、六四二一人に減る(八才以上)その死因は餓死が大部分である
1839年天保10
大曽根浦、早田浦の極難渋者に施米す
1854安政1
一一月四日大地震大津波
早田浦は流失戸数・四〇津波後の難渋者二〇三
尾鷲組では若山御仕入方より金一五〇両拝借し諸入用に支払う外米七九石買入在在を救援
藩より尾鷲組へ銀一〇貫七九一匁五分、銭一八〇貫二〇〇文を建築材購入費として御救下さる。なお一〇四石の御救米下される
1869明治2
早田浦徳太郎外三名は米一石二斗九升を合力し村民を救う
早田浦は七月の大風雨で田畑大荒で米収なく、一二月一八七人に粥米を下付さる。
1870明治3
九月一八日大暴風高波、被害多し
早田浦流失三戸・半流失四戸・流失船四・流失網五、
九月の暴風にて諸浦は漁具を流失したため拝借金許可さる
早田浦五〇両
1872明治5
戸籍簿できる。この年の戸数人口
早田浦・戸数52・人口223
1878明治11
西川芳平観音寺西の間にて授業す生徒数一〇人(百年史)
1882明治15
三月一五日早田学校校舎建つ
1889明治22
九木浦・早田浦・行野浦が合併して九鬼村となる
この年大敷網を始めて張る(組合)
1904明治27
正一位早田稲荷大明神社遷宮今の社殿になり銘文神光不眛・鎮護国家できる
1907明治40
早田浦で鰤大敷網をはじめる(既に何回か張っている)


歴代九鬼村村長(早田浦・九木浦・行野浦が合併し、明治22年九鬼村になる)

    明治22年 5月   〜25年 1月13日   宮崎嘉助

      25年 4月17日〜26年10月27日   田崎政次郎

      26年11月 7日〜33年 5月31日   田崎伝之丞

      33年 6月15日〜34年12月14日   川上元松

      34年11月 5日〜35年11月 2日   川上利之助

      35年11月 5日             田崎政次郎(辞退)

      35年12月16日〜37年 5月 4日   稲葉専四郎

      37年 5月28日〜39年 3月31日   尾崎七蔵

      39年 5月11日〜44年 8月25日   川上利之助

      44年12月11日〜45年 2月22日   田崎佐伍太夫

    明治45年 3月11日〜大正5年3月10日   宮崎倉之助

    大正 5年 3月27日〜 9年 3月24日   田崎伝之丞

       9年 4月 6日〜11年 3月 4日   宮崎嘉助 

      11年 3月 5日             中崎安太郎(辞退)

      11年 3月 7日             宮崎和右衛門(辞退)

      11年 3月27日〜12年 5月 2日   中崎安太郎

      12年 9月25日〜13年 3月21日   尾崎七蔵

      13年 5月 2日〜13年 9月29日   中村国助

      13年11月13日〜14年 8月 5日   川上五平

    昭和 2年 9月 1日〜 4年 7月31日   稲葉専四郎

       4年10月 1日〜 8年 1月 4日   渡辺万次郎

       8年 7月 3日〜10年2月       米川良弼

      10年 4月 1日〜11年4月       川上義輔

      12年 2月25日〜21年11月15日   九鬼鉄雄

      22年 2月20日〜26年 4月 2日   川上義輔 

      26年 4月23日〜29年 6月19日   加藤才次郎 

昭和29年6月20日北牟婁郡尾鷲町、須賀利村、九鬼村、南牟婁郡北輪内村、南輪内村が合併尾鷲市誕生