No.5 発行2000/07/20


渡辺 初美

 昔々、私が小さい頃、朝起きて着がえずにボンヤリしていると、祖母が「早(は)よおショウゾク(洋服)をつけなよ。」と言ったものです。ショウゾクと言う名のワッペンみたいなものをベタッと胸にでも、くっつけるのかと考えたことを覚えています。又近くに住んでいた上品なおばさんは、いつも私の頭をなでながら「美しいおぐしじゃネ。」と言ってくれました。大きくなって中学や高校で、中央から遠い所程古い文化が残っていると習いました。大人になって県外から赴任して来る人が「徳島と徳之島は同じだと思った。」とか「来てみるとやはり文化果つる地だ。」とか言うのを聞いて何だかつらくて肩身の狭い思いで幾十年……。しかし、頭の中の大きな部分が三村さん菌に感染している現在では、祖母達の言葉も優雅な趣があると思えるし、最後進県とか言われても「今に見ていろ阿波だって。」と考えられるようになって来ています。
 第一回徳島古事記研究会に出席させていただいて、自分はあまりにも何も知らないナ!とつくづく解りました。でも、一生懸命ついて行きたいと思っていますのでよろしくお願い致します。
 徳島古事記研究会の発足が嬉しい限り!!




自然人工
多家良町・立岩神社の
巨石の不思議

澤田 俊明

 7月9日 「高天原をゆく」に参加しました。見学会時、そして見学会後、最も興味の引かれた場所は多家良町・立岩神社の巨石でした。【右写真、立岩神社 御神体】当日の見学会での観察からは、時間的制約もあり地質学的に見てあれだけの岩が突出すべき自然的理由を見つけることは困難でした。一般に、山地部における自然の状態での巨石の存在形態は、地山と一体になっている【岩盤】が露頭している存在形態と、岩が巨石のまま転がってきて現在の場所に留まっている【転石】としての存在形態があります。
 そして、自然現象としての【転石】が生まれる主要因は二つあり、一つは山の崩壊によるもの、そしてもう一つは川の流水によるものがあります。山が崩れた後の地形を地質学で【崖錐(がいすい)】と呼びますが、崖錐の多く存在する徳島県内では、木屋平・上勝・祖谷など多くの崖錐地形の場所で転石の存在が認められ、10mを越える転石も多く存在しています。
 今回の見学会で拝見した神山町元山(天香具山)の立岩神社・「御神体岩」は、【山の崩壊】に起因する転石と推察され、見学会の最後に拝見した勝浦町・与川内地区の巨石群は、【川の流水】に起因する転石と推察されます。したがって、これらの巨石はいずれも自然の状態で存在していると考えられます。実際に、これらの見学箇所は、見学対象となった巨石以外にも周辺に同様な巨石が多く確認できました。
 しかしながら、多家良町・立岩神社の巨石だけは、不思議でした。現時点での周辺の地形や、巨石の分布状態から、自然の状態で生まれた巨石とは、私にはどうしても考えられませんでした。多家良町・立岩神社の巨石は、ただ一つ存立しているのです。自然でなければ何か、それは、人工物ということになります。人工物であれば、巨石をどこかから運んで埋めたか、元々大きな山であったのを巨石だけ残して、その回りを切り崩して今の地形にしたかのどちらかになります。通常、岩の重量は1立方メートル当たり約2.6トンであり、仮に2.0m×5.0m×10mのサイズで100立方メートルの体積だと、約260トンもの重さになります。この重さの巨石を持ち上げて埋めるという行為は、現在の建設技術を持ってしても容易なことではありません。むしろ、建設技術的視点から可能性の高いとものとして、回りの地面を掘り下げて、岩盤と一体となった現在の巨石を形づくりながら掘り起こす、という行為が考えられます。
  7月9日の短時間の観察だけからの推察にすぎませんが、もし、多家良町・立岩神社の巨石が人工物とすると、いずれにしてもかなりの【力】を持った【誰か】が存在していたことになります。そして、人工だとすると、「多家良町・立岩」でなければならなかった【積極的な場所的要因】があっただろうと思われます。阿波には、奈良・京都・出雲などに比べて、現在残存する、巨大人工物が少ないと言えます。
 このように、見学会に参加して、「多家良町・立岩神社の巨石が自然か人工か」ということに、非常に興味を持ちました。既に、調査されているかもしれませんが、過去の調査資料の収集を行ったのち、機会があれば、地質学及び土木工学の専門家と現地詳細調査をすることができれば、と新たな思いを募らせています。

【高天原をゆく】参加者
澤田俊明・川田吉子・佐藤文昭・蜂谷やす子・蜂谷海文・土井シズエ・天羽菜美・広瀬泰治・広瀬弘美・三村隆範


【神山町元山 立岩神社参道にて】




日本固有の神仙思想としての
浦島太郎の物語。

正木 学

 明治神道界の重鎮、宮地厳夫の著書に『本朝神仙記伝』がある。神話時代の饒速日命から明治までの仙人について考訂したもので、その中に水江浦島子並蓬莱女仙というのがある。これは一般的な浦島太郎の物語とはかなりちがう。
 その概略をいうと、浦島太郎の元の名前は水江浦島子、または筒川島子という。ある日ひとり小舟に乗り釣りに出かけたが、一匹も釣れなかった。けれど、あやしき亀をえたという。その亀は、美しい女性に変身したという。島子はおどろきていう、ここは海上にて舟はない。あなたはどこにいて、どこからきたのかと。美女はこたえていう。私は蓬莱山の娘にして金闕の主なり、不死の金庭、長生の玉殿が私の居所ですと。美女はつづけて、島子を蓬莱にむかへ、羽客の上仙にしたりと、島子はそれにしたがい、蓬莱山へいき仙女と結婚をし夫婦の契りをした。そして3年の月日がたった。島子は仙女に向かってこういう。私は偶然に神仙の世界にきましたが故郷と両親のことが忘れることができない。故郷に帰り両親にあいふたたび神仙界(蓬莱山)に帰ってきたいと。仙女はいう。あなたは夫婦の契りをしたのに故郷に帰りたいというのですが、神仙の世界をさってふたたび帰ってくることは不可能に近い。たとえ帰ったとしても前のままではない、むしろここにとどまって欲しいと。しかし島子は故郷に帰りたいというので、仙女は島子に玉手箱を与えてこういう、もし君が神仙界に帰ってきたいと思うなら玉手箱をあけてはいけない、あけなければいつか帰ってこられるから、こんな約束をして故郷に帰るのですが、故郷ではあの日から348年にもなっていた。失意の島子は仙女との約束を忘れ玉手箱をあけてしまい老人となり死んでしまうわけです。龍宮城と蓬莱山。乙姫と仙女といったちがいがあります。
 このことについて詳細を知りたい方があれば古事記研究会で発表したいと思います。




◆◆◆ お 知 ら せ ◆◆◆

8月2日(水)  阿南古事記研究会 富岡公民館 図書室
午後7時30分〜9時30分
8月10日(月) 徳島古事記研究会 昭和町公民館 2F
午後7時30分〜9時30分