No.7 発行2000/09/20
阿波に生きて
久米川 佐代子 阿波共鳴塾の方より、徳島古事記研究会を紹介していただき3度程参加しましたが、親しみを感じる人達と古事記を読み、阿波の歴史など色々雑談していく中で、心を同じにする方々が身近にいることはうれしい限りです。 |
大代古墳から見える古事記の世界
徳島古事記研究会 会長
9月17日(日)の夕暮れ時、大代古墳(写真1)の現地説明会に行ってきました。前回の鳴門市大麻町大谷にある西山谷2号墳(円墳)現地説明会には行けなかったから、今回はどうしても見学しておきたかったのです。終了時刻も近かったのですが、地元の方々も後から後へと見学に来られ、早く切り上げたいらしく、埋蔵物センターの方も終われないのでヤキモキしていました。 |
さて、考古学からの証明は埋蔵物センターにおまかせして、先人が一足先に書き残してくれた文献によって、歴史を振り返ってみましょう。 鳴門地域は考古学界でも重要な地域であるように、古事記を見てもイザナギ・イザナミ命が淡路島に降りた事が書かれています。 二柱の神が、天の浮き橋から矛を指し下ろし、塩こをろこをろに撹き鳴らして引き上げれば、矛の先よりしたたり落ちた塩が重なり積もって島となった。と古事記に書かれています。これは、鳴門の状況や渦潮そのものをイメ−ジするシ−ンです。日本で一ヶ所常に大きな渦が巻っている鳴門海峡です。鳴門海峡だけに大きな渦が巻くのは、海峡の下が浅くなっており、両側が急に深くなっているからだそうです。 寺戸恒夫.編著の「徳島の地理」には「今から一万八千年程前の海面は現在より100m低く、紀伊水道の深さは現在最深部で70mですから、当時は四国から紀伊半島まで歩いて行けたに違いない。その後海面は約六千年前まで急上昇し−わが国ではこれを縄文海進とよんでいる−」と書かれています。紀伊半島まで歩いて行けたのですから、当然、淡路島も歩いて行けたのです。縄文時代の鳴門海峡は阿波と淡路島がつながっていて、潮の満ち引きによって道ができたり隠れたりする橋のような時期があって、それが天の浮き橋という表現になったのかも知れません。また、淡路島の阿那賀港と福良港の両港は、海峡をへだてわずか4キロしかないのに干満が逆になります。これによって鳴門海峡に大きな渦が巻くのです。 鳴門の状況を見るだけで、古事記に書かれたイザナギ・イザナミ命の国生みの事が思い浮かびます。身近に数々の知られずにある阿波の遺跡にもっと関心を持ってほしいと思います。 鳴門の「渦のみち」に行かれて、体感してみて下さい。 |
◆◆◆ お 知 ら せ ◆◆◆ 10月4日(水)阿南古事記研究会 富岡公民館 図書室 午後7時30分〜9時30分 10月2日(月)徳島古事記研究会 昭和町公民館 2F 午後7時30分〜9時30分 |