No.12 発行2001/02/20


鳴門カネガ谷遺跡。現地説明会にて

渡部初美

 2月3日に鳴門カネガ谷遺跡の現地説明会に行きました。新聞で国内初と紹介された小型ぼう製鏡の写真を見て行きたいと心がおどりました。あこがれの鏡は何ともかわいらしいもので、お金を表す時に親指と人差し指をくっつけた位の大きさでした。もっと大きいと想像していたのでびっくりしました。無知ではずかしいのですが、ぼう製鏡と言う意味が解りませんでした。係の方に教えてもらったのですが、ぼう製鏡の「ぼう」はで模倣の「倣」なのだそうです。それで中国の鏡をまねて作ったものと言うことらしいのです。なるほど!
 現地で三村さんが、たくさんの人に会報「阿波岐原」を配りながら古事記の舞台は阿波であること知ってほしいと話しかけている姿を拝見して、常々底辺を広げることを実行されていることに感心しました。私も勉強して会の方々にアチコチつれていってもらって経験をつんで底辺を広げる為のお手伝いが出来るようになりたいと思いました。
 民意のもり上がりでドンドン掘ってもらって、カネガ谷の製鏡のように国内初!と言われる宝物がジャンジャン阿波から出てくれれば、もう決まりです。




高志考

天羽クリニック医院長  天羽達郎
【写真:天羽達郎・塩田龍瑛住職・後方、天羽菜美】

 高志(たかし)という地名は私にとっては懐かしいそして母の温もりを感じる名である。旧高志村瀬部井内とは母の生まれたところ、吉野川の北岸に接し現在の上板町の西端部分を言う。土手より北へ2百メートルほど行ったところに天然記念物の大いちょうの木があり、そのすぐ西側には母の実家がある。私はその家で祖父母にずいぶんと可愛がられた。孫に女が2人続いた後の、初めての男の子が私であったためである。幼児期はかなり長い間母の実家で過ごしたような気がする。その頃は周囲にはほとんど家がなく見通しが良くきいた。そして土手の上からは南の山々が遠くの方に霞んで見えたので、不思議な思いをした記憶がある。私の生まれは阿南市桑野町、そこは盆地ですぐ目の前に山が迫っており、そんな景色に馴染んだ者にとっては奇異に感じたのであろう。現実感のあまりない別世界のもののように思えた。先般阿波古事記研究会の或る会員が『高天が原とは吉野川から南の山々を眺めたところを言うんですよ。』というのを聞いたとき、即座にその意味が理解できた。
 北に目を転ずれば現実の山と実感できる距離に阿讃山系の東端がある。そのうちの一段高いところは大山と言う。
 2月18日そこに在る大山寺を我々会員が訪れた。塩田龍瑛ご住職から重要文化財の経筒を見せていただき、いろいろとお話を伺った。それによると大山神社と大山寺とはかっては山の中腹、ささはら(笹原)というところに一緒にあり、その後別れて神社は瀬戸内海の大三島に、そして寺は今の場所に移ったと言う。源頼朝などの信仰厚きあの有名な神社はもとはそこにあったのだ。今は女竹の繁る荒れ地だという。
 さて高志という地名について考えてみたい。我々が使っている古事記のテキストでは高は音読みの「こう」(旧仮名づかいでは「カウ」)ではなく「こ」と短くして、高志を「こし」として読ませ、越(こし)の国を指すと言う。この解釈は本居宣長によるもので、諸橋轍次の大漢和辭典でもそれを踏襲しているようだ。この辭典では高という字について熟語慣用語、地名人名とも合わせて1383の記載があるが高を「こ」と短く読むのはこれだけといっても良く、ほかには高麗「こうらい」という地名に人という字を付けて高麗人「こまびと」、同様に笛を付けて高麗笛「こまぶえ」など高麗に付随したものが数語見られるのみである(高麗焼はなぜか「こうらいやき」と読む)。後は「たか」か「こう」である。人名では高志泉冥「たかしせんめい」泉州堺、寶暦人間の人というのがあり、そのほか高笑「たかわらい」、高御座「たかみくら」、高瀬船「たかせぶね」などである。「こう」では気高い志を意味する高志を「こうし」と読み、辭典にはないが、木頭村で紅葉の名所である高瀬峡は「こうのせきょう」で、足利尊氏の家臣に高師直という、やり手だが助平で女癖の極めて悪い奴がいたが、これも「こうのもろなお」と読む。頼山陽の日本外史の川越本(天保年間出版)でその名前の初出のところにはわざわざ「カウノ」と仮名を振ってあったと記憶する。高志はやはり「たかし」か「こうし」、「こうのし」と読むのが自然であろう。「こし」では少し無理があるような気がする。
 2月23日(金)の新聞に奈良の藤原京跡から「高志調」と書かれた木簡が出土したと報じられ、「高志は越国(津軽半島から駿河湾までの地域)か、越後国(現新潟県)古志郡にあたり」と書かれている。高志を古志にあてて「こし」と読んだために、古事記がつじつまの合わない話になってしまった。古事記にいう高志とは阿波の高志(たかし)村である。




古事記研究会  2月の活動報告

●2月19日(日)葦稲葉神社をいく(調査探訪会)を開催
 徳島古事記研究会会長の経営する川内町のカフェ・ケストナーに集合しておいしいコーヒーを飲んだ後、徳島県埋蔵物センター・船本遺跡・葦稲葉神社・大山寺・黒岩権現・和礼芽(われめ)神社・丸山古墳を廻りました。
 上板町神宅に式内社、鹿江比売神社(式外、葦稲葉神社)があり、大山に大山津見神が祀られていた。阿波には古事記が舞台そのままであることが実感されました。
 大山寺では、塩田ご住職からお話を聞き、重要文化財の「経筒」を間近で拝観させていただき感激した1日となりました。

●2月25日(日)相生町ふるさと交流館にて那賀生涯学習講座(那賀広域学習実行委員会主催。
 相生町教育委員会・鷲敷町教育委員会・上那賀町教育委員会後援)が開催され講師として古事記研究員の三村隆範氏が「丹生谷を駆け抜けたイザナギノ命」と題して講演しました。
  40数名の受講者が参加され、我が町にあてはまる古事記の話にメモを取りながら熱心に耳を傾けていました。



お 知 ら せ

4月4日(水) 阿南古事記研究会 富岡公民館 図書室
 毎第1水曜 午後7時30分〜9時30分
4月11日(水) 徳島古事記研究会 昭和町公民館 2F
 毎第2水曜 午後7時30分〜9時30分