古事記研究会に参加してよかったのは、子供の頃の?(疑問)が解けてきたことです。
神話、伝説、昔話がたいへん好きな女の子でしたが、距離感覚や物理的なことが引っ掛かったままこの年まで来てしまいました。
阿波から晴れた日は、遙か紀州が見えるのです。はての九州から見えもしない大和に行こうと想うのでしょうか? 私達より何倍も視力のあった阿波の古代の人が、想いをはせ、計画を練り実行したのです。古事記は事実を基に創作して書かれていると思います。そのわからないパズルが解けるのも近い将来ではないでしょうか。
白肩の津で敗れた神武天皇は、熊野から八咫烏(やたからす)の導引で十津川沿いに山越えして吉野に出た??。だいたいの口語訳はそうなっています。
吉野までたどり着く道は、役(えん)の行者の昔から、そこは断崖絶壁、岩谷ばかりの曲がりくねった難所中の難所です。その上、大峯山系は日本一の多雨地帯。神武天皇の頃は、今以上に危険な所です。子供の頃、近所のおじさん連中が、山伏姿で修行に行くのに、冗談半分に「水盃しはったか」と声がかかるほどの山系です。浪速で敗れ、大勢の犠牲もあったのに、食料や武器持って、1000メートル以上の高い険しい所を山越えて行くか…?が子供心に疑問?でした。
古事記を初めてじっくり読み合わせてみて、「ヘッ!」と思いました。山越えしたとは何も書いてないのです。「じゃ、どこから上陸したのか、そして、どこを通って大和に入ったのか?」と考えあぐねるうち、気がつきました。
我がご先祖は、飛鳥村の山頂近くの集落で大和が一望できます。柏森、芋峠をへて吉野、宇陀、国楠経由で伊勢へのルートがあるのです。
それと、進軍の時の久米歌です。
「神風の 伊勢の海の 大石に 這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻(もとほ)り 撃ちてし止む」伊勢湾から入ると日を背負って西進出来ます。それと、伊雑宮も気になるし、天孫降臨の後、思金神は五十鈴川のほとりの皇大神宮、猿田比古も伊勢と関係あり、阿耶訶(あざか)(松阪)では貝に手をはさまれ溺死の言い伝え。要するに、その地域は息のかかった部族のいる場所です。そこで英気を養い、弓矢を集め、食料も調達。登由宇気比売、天照大御神を祀り戦勝祈願をした後、伊勢神宮に至ったのではないでしょうか。ここから吉野には出やすいのです。
十津川と北山川の分岐点近く、熊座社で高木神のお告げで転身。磯伝いの船旅となったのでしょう。その後の大和朝廷と伊勢・尾張との関わりも納得がいきます。
一度、大和から国見峠越えて伊勢方面を辿ってみようと思っています。
自分の足で古代の地を歩く楽しみが、またひとつ増えました。
皆様も、ロマンを追って、大和から伊勢をご一緒に訪ねてみませんか。