No.15 発行2001/05/20

ワシ(鷲)について

渡辺初美

 5月6日、クントゥル・ワシ神殿の発掘展(古代アンデス文明の遺跡)を見に文化の森へ行ってきました。大きな石の彫刻も目をひきましたが、壁に掛かっている、掘ったお墓の中の写真を見て、びっくりしました。黒っぽい土の上に、鮮やかな朱色が浮き出ていて、日本の古墳の朱と重なって見えました。同じ物だと思ったけれど、一応博物館の人に確かめてみると、やっぱり同じものなのだそうです。また、まだ何に使われたかはっきり解ってないが、多分神様にお供えしたお酒を入れたとみられる壺(土器)の中にワシを象ったものが、つけられていました。ペルーの神様は、ジャガーとヘビとワシです。
 4月26日付朝日新聞に「ゼウス像の足」見つかった…の記事がありました。アフガニスタンのカブール博物館から8年前に行方不明になった紀元前3世紀の重要美術品「ゼウス像の左足」が東京で見つかり、古代オリエント博物館で展示されることになったそうなのです。記事によると「ゼウス像の左足」は大理石で、長さ28.5センチ、幅21センチ。サンダルのひも部分にギリシャ神話の神ゼウスを表すワシの翼と稲妻を組み合わせた文様を表現する…とあります。
 さて、日本の忌部氏は、天日鷲命(あめのひわしみこと)の子孫です。この三つのワシは、はるかな昔一つの根っ子から分かれたのではないかと考えました。随分地理的には離れていますが多分そうだろうと思います。
 ――― けれども今それを確かめるすべを知りません。




のまちがい
邪馬壱(壹)国
 邪馬台(臺)国は間違った表記

三村隆範

 つまり、「ヤマタイコク」という読み方の国は無いのです。
 ゴールデンウイークの5月4日は、中国の敦煌は莫高窟(ばくこうくつ)へと向かうバスの中で、現地ガイドの盛鳴春(セイメイシュン)さんの説明に耳を傾けていた。(写真.左は盛鳴春氏)
 「…沙州と呼ばれた敦煌は、その名のとおり、広大な砂漠に…、ゴビのオアシス…、莫高窟(ばくこうくつ)の中でも…第16・17窟は20世紀最大の発見…、16窟の壁が割れ中から4万点余の写本群が発見された。
 …写本は写し間違いがあるが、木版刷りの本は、間違いがあれば活字を彫りなおして印刷するから正確に書かれている…」
 …「エッ!」
 その時、常々、古代阿波研究所の堀川所長から、「写本は臺も壹あるが、版本には壹しか使われていない」と聞かされていたことを思い起こした。徳島に帰ってから堀川所長にどの本に、それらのことが書かれているかをお聞きした。「古田武彦の『邪馬台国はなかった』などはどうか。」と教えていただいたので、早速、県の図書館で借りて読むと、次のように書かれていた。(参考文献「邪馬台国」はなかった 古田武彦著 朝日新聞社発行)
 「三国志・魏志倭人伝」には邪馬壹国としか書かれていないにもかかわらず、邪馬壹国をヤマトと読みたい人々が、「壹は臺のまちがい」として「後漢書」に書かれる邪馬臺国を採用し、略して邪馬台国と通常に使われるようになった。」との趣旨である。
 臺の文字は、魏にとっては「神聖至高の文字で、天子の居城」を示す時に使われる用法であるから、日本に対し、邪馬台国や卑弥呼・倭・奴国・夷など卑字を用いている事実からも臺は使われることはない。
 卑弥呼に「親魏倭王」(倭は、したがう)という称号を与え、徹頭徹尾「忠実なる臣下」として著述している「三国志」において「邪馬臺国(邪馬台国)」などという表記はありえない。と結んでいる。
 通常「壹(壱)は臺(台)の誤り」として邪馬台国と表記されているが、邪馬壹(壱)国が正しいのである。
 邪馬壹国が正しく、壹は(壱・一)、中国読みなら「イイ」である。つまりイの国である。ここに古事記との接点があり、伊予の二名島(四国)の東半部が伊(イ)の国に通じ「邪馬壱国は阿波だった」が浮上してくるのである。
 伊(イ)の国については、志賀島出土の金印についても同じである。
 金印には、「漢委奴国王」と書かれている。これを(カンノノナノコクオオ)と読ませている。なぜ、「漢委」が(カンノ)と読めるのかわからない。普通に読めば「カンノ」と読むものを、学者は、「日本にもらった金印だから、委は倭(ワ)の誤りである」という。三文判をもらったのでなく金製の印である。間違ったものを送るとは考えられない。イノナ国が正しい読みだ。(ワと読みたいから、委をワと読ますにしか過ぎない)また、邪馬臺国の臺を台と略して表記しているが、本来、台と臺は異字であり、台は臺の略字ではない。臺は(ダイ)としか読めないが、台は(イ)の読みがある。つまり邪馬台国と書けば、これまた、ヤマイの国になってしまう。邪馬台国と書く人達は、今後は、自分たちの言っていることを首尾一貫して表すために、少し大変でも邪馬臺国と書いていただきたい。これらについては、漢和辞典でご確認ください。
 「『邪馬台国はなかった』に、師の説を継承し、発展させる。これは『美風』かもしれない。しかし、本居宣長は、『師の説に、な、なづみそ(先生の説に決してとらわれるな)』」と書かれている。学問は、真理を追究するものですから、それを継承し、明らかにしていきたいものである。







徳島大学「公開授業」
5月10日より毎木曜7月12日迄 10回
【講座とくしま学】
考古学からみた「とくしま」像

埋蔵文化財調査室  北條芳隆助教授

受講レポート

5月17日 第2回目
年代測定法
古さ新しさをどうやって知るのか
 江戸時代に徳島藩士が正月行事に使用した大福茶の茶碗(しめなわ文茶碗)が大量に出土するが、その当時、みんなが知っていたはずのことがたった100年の間に、そんなものがあったことさえ忘れ去られてしまう。不思議なことだが、それは徳島が常に変化し、繁栄している証かもしれない。

5月24日 第3回目
旧石器・縄文時代の四国地域東半部
狩猟採集社会
 徳島市国府にある矢野遺跡には、縄文時代の土器や土面が出土している。いままでは、稲作からは弥生時代、それ以前は縄文時代と区分されていたが、矢野遺跡は平野部にある縄文遺跡であり、縄文時代にも農耕が行われていたかも知れないと思われる、注目する遺跡である。他に、
※徳島市三谷の最後の狩猟採集民縄文晩期)
※小鳴門海峡のナウマン象ハンター旧石器時代)


矢野遺跡で見つかった日本最古級の土面(右)と複製品

 当会から佐藤文昭会長、広瀬泰治、蜂谷やす子、横田奈美枝、渡部初美、三村隆範の計5名が受講




お 知 ら せ

6月 6日(水)阿南古事記研究会 富岡公民館 図書室
 毎第1水曜  午後7時30分〜9時30分
6月13日(水)徳島古事記研究会 昭和町公民館 2F
 毎第2水曜  午後7時30分〜9時30分