平成19年 (2007)
4月30日(月) 阿南市見能林町柏野 賀志波比売神社 天照大御神生誕地祭 看板・石碑 設営除幕式 参加者 約1200名(奈良 天香具山神社 橘宮司 他) 奉納 阿波踊り 天の渦女連 五色五石の餅投げ 福札(まんじゅう引換券) |
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天照大御神饅頭 |
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【看板】 延喜式内社 賀志波比売神社 阿南市見能林町柏野 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原 天照大御神ご生誕地 最東端の地 日本最古の歴史書「古事記」に 『夫婦神の伊邪那岐命と伊邪那美命は、高天原から降りて来られ国生みをはじめられた。その途中で亡くなった伊邪那美命に会うため、伊邪那岐命は、黄泉の国に行った。「見てはいけない」と言われた伊邪那美命の屍体を見たため追われた。黄泉の国を逃げ出した後、伊邪那岐命は「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊ぎ祓いをすると、天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。この時、伊邪那岐大神は「天照大御神と月読命は高天原を治めよ。須佐之男命は海原を治めよ。」と命じた。』 と記されています。 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と祓詞でも奏上される「竺紫」とは、「尽きる」で、「日向」は、ひむか・ひむかし・ひんがし・ひがしと変化した言葉です。つまり「竺紫の日向」とは「東に尽きた地」という意味です。 神武天皇が奈良へ行く前の最東端の地は、橘湾に面した阿南市見能林町青木・柏野地域にあたります。ここが『天照大御神の生誕の地』です。 賀志波比売大神の神名は「古事記」等に書かれていませんが、伊邪那岐命がこの地で禊ぎ祓いをして天照大御神が生まれたと「古事記」に記されていることから、天照大御神の幼名は賀志波比売大神であったと考えられます。光輝く天照大御神と月読命は、高天原(神山町)へ巫女として送られました。 賀志波比売神社は、平安時代(九二七年)に完成した延喜式神名帳の中に記録された三一三二座の由緒ある延喜式内社の一社です。現在、賀志波比売大神は津峰山頂にある津峯神社に奉斎されています。 御神紋は八角形(三方)です。神様に御供えする際に使われる「三方」は、古くは柏の葉(ひらで)が用いられ、現在も皇室では使用されております。また、「柏」は「柏手を打つ」というように神事と深い関わりをもっているのです。 天照大御神の平和の光を世界の隅々まで阿南市から広げましょう。
阿波古事記研究会 |
平成19年 (2007)
7月17日(火) 海部郡海陽町久保 八坂神社 日本三祇園 宍喰 八坂神社 海原の王(きみ)スサノオ 看板設営除幕式 参加者 約400名 奉納 阿波踊り 天の渦女連 奉納 餅投げ 福札(まんじゅう引換券) |
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記念パンフレット |
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【看板】 日本三祇園 宍 喰 八 坂 神 社 徳島県海部郡海陽町久保 当社の御祭神は、素戔鳴尊です。 素戔鳴尊を祭神とする八坂神社は、京都の八坂神社、広島県福山市鞆町の沼名前神社が古くより日本の三祇園として知られています。 須佐之男命について日本最古の歴史書「古事記」には、次のように書かれています。 『はじめに高天原があり、高天原から国生みをするため夫婦神の伊邪那岐命と伊邪那美命が降りて来られた。国生みの途中で亡くなった妻の伊邪那美命に会うため、伊邪那岐命は、黄泉国に行った。「見てはいけない」と言われた伊邪那美命の屍体を見た伊邪那岐命は追われ、黄泉国を逃げ出した後、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で祓ぎ祓いをすると、天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。この時、伊邪那岐大神は「天照大御神と月読命は高天原を治めよ。須佐之男命は海原を治めよ。」と命じた。』 「海原を治めよ」と父の伊邪那岐大神に命じられて須佐之男命がやって来たのが、宍喰です。木屋平から始まる古事記の話が、美馬市、阿南市を経て宍喰に繋がるのです。 徳島県南部は、黒潮を治める好位置にあります。この地から各地に広がって行ったと考えられます。阿波忌部が関東に移住し、阿波から千葉県の「安房郡」になりましたが、阿波から安房への移住は、黒潮の流れを利用したものでしょう。また、式内社の和奈佐意富曾神社が海部郡海陽町大里海岸にあり、奈佐湾沿岸を古くは、和奈佐と呼んでいました。 「阿波国風土記」逸文に「奈佐浦。奈佐というのは、其の浦の波の音は止む時がないので奈佐という。海部は波を奈という。」と書かれ、「播磨国風土記」には「伊射報和気(履中天皇)が志深の里で食事した時、『この貝は阿波国の和那散で我が食した貝である哉。』」と書かれています。 また、「丹後国風土記」逸文に丹後の比治の山の里人、和奈佐という老夫婦の羽衣伝説が書かれています。 「出雲国風土記」には、「阿波枳閇倭奈佐比古命の曳き来すえましし船、すなわちこの山これなり、故に船岡と云う」と書かれ、島根県には、現在でも和奈佐町の地名があります。 このように海原を治めた和奈佐の地名が、各地に広がり残っているのです。
阿波古事記研究会 |