大嘗祭と阿波忌部(2)   三木 信夫

 「あらたえ」の漢字は「阿良多倍・麁布・麁妙・荒妙・荒布・麁服」があります。
 あらたえは荒い織物,繪服(にぎたえ)は細かい織物をいいます。
 麁眼の材料は,麻とする説と穀(かじ)又は楮の皮で織った太布とする説がありましたが,麻殖の郡名や麻の霊力と祓い清めから大麻を麁服の原料としています。
 木綿(ゆう)は穀又は楮(こうぞ)の皮で織った布をいい,阿波の太布に類似した織物と考えます。阿波の太布織りは「阿波太布製造技術保存伝承会」に受け継がれ,県の無形文化財に指定されています。
 阿波忌部の麁服奉仕者は,当初は卜(ぼく)定により忌部氏人より「御殿人(みあらかんど)」として選定された忌部達が行っていましたが,後世の鎌倉時代には既に三木家等家筋がほぼ固定していました。この御衣御殿人は三木家文書に拠ると13人を原則としていました。「御衣人(みぞびと)」とは麁服を調製する忌部の人,「御殿人」は麁服と共に京師へ上る忌部の人をいいます。
 延喜式での「麁妙服」(あらたえ)と「由加物の麁布(あらぬの)」は別個の物です。
 阿波忌部からの由加物は,「麁布1反,木綿6斤,年魚(あゆ)15缶,蒜英根合漬(ひるのはなねのかでつけ)(=ニンニクの花と根の塩漬け),乾羊蹄(ほしし)15籠,蹲鴟(そんし)15籠(=いえのいも),橘子(たちばなのみ)15籠」を献上します。入れ物の「缶」は焼物の壺の様な蓋付きの入れ物と思われます。
 那賀郡の潜女(かずきめ)10人で「鰒(あわび)45編,鰒鮨15坩(つぼ),細螺(しただみ)・ウニ・石華(せい)并20坩献上します。これらは腐らない様に漬けてあります。
 阿波忌部は麁服以外に山の幸・川の幸を献上しています。阿波忌部は農耕民族といわれていますが,馬・太刀・弓・箭等を麻殖郡と那賀郡で大祓料として献上させられており,これらを作る技術集団がいたと考えられます。庸布(ようふ)は普通の布で1丈の長さに織られた物です。木綿(ゆう)・麻(お)1斤とは糸にする前のそれぞれのひも状の繊維をいいます。
 大嘗祭の大嘗は大新嘗の略で,大嘗という呼称の初見は日本書紀天武天皇2年「12月壬午朔丙戊(みずのえうまついたちひのえつちのえ),大嘗に侍(つかえ)奉れる中臣・忌部及び神官の人等,並びに播磨・丹波二国の郡司,また以下の人夫等に悉く禄を賜う。」とあり,関係者全員に賞与が出ています。
 大嘗祭が大々的に行われたのは858年に9才で即位した清和天皇の時です。藤原良房の妹順子(じゅんし)と仁明天皇の間に文徳天皇が生れ,文徳天皇と良房の娘明子(あきらけこ)との間に清和天皇が生れますが文徳天皇は31才で亡くなります。太政大臣藤原良房は清和天皇の外祖父として清和天皇の即位大嘗祭を行ったのが後世へ記載されるのです。しかし平安末期よりの皇室の式微と共に大嘗祭も次第に簡略化され,103代後土御門天皇を最後に応仁の乱以降221年間途絶,徳川綱吉の時代に113代東山天皇で再興,次の中御門天皇は中断,その次の桜町天皇より復活常典。但し忌部所作は代行。大正天皇・昭和天皇の大嘗祭は古典に則り阿波忌部の麁服も調進され実施されました。
 今上天皇の大嘗祭は,新しい時代とはいえ阿波忌部から麁服が調進され,平成2年11月22日夕方から23日暁前にかけて皇居大嘗宮で行われました。

(つづく)

日本最古の前方後円墳は鳴門にあった
(その2)
           天羽 達郎

 ところが徳島にも前方後円墳があった。あるにはあるが規模が極めて小さい。しかし数がべらぼうに多い。良く調べてみるとこれらの古墳は,驚くべきことに,箸墓古墳より数十年古いのである。年代比較は埋葬された土器の形などから推定するが,その中でも鳴門市大麻町の県道鳴池線北側の萩原墳丘墓(はぎわらふんきゅうぼ)がもっとも古く,西暦200年頃のもので,日本最古の前方後円墳になるのだそうだ。大きさはたったの27m。昭和54年(1979年)道路工事のために発掘調査され,工事が終わったときに消えてなくなった。徳島にそんな古いのがあるなら近畿地方にはもっと古いのがあるはずだと,ここ20数年間調査してきたが,出てこなかった。そんなはずはないと考古学者は頑張っているが,今はやむなく徳島の方が古いと認めるようになってきた。当時は吉野川下流域と東香川がひとつの文化圏であったらしく,平成13年(2001年)までに,その地方から小さい前方後円墳が70基見つかっている。王墓であるならこんな狭い地域にそんなにたくさんあるはずはない。この地方では前方後円墳がかなり身近なものであったに違いない。
 さらに驚くべきことが分かった。これらの古墳群には箸墓古墳の祖型を思わせる特徴がいくつかあるという。その第一は前方部が細くて短いと言うことで,これはどうも最初のうちは古墳の上に物を運ぶ通路に使っていたらしく,それがだんだんと進化していくうちに巨大化し,ある種の神聖な意味を持つようになり,今見る鍵穴の形に成ったという(図3)。巨大前方後円墳がなぜあのような不思議な形になったかは,これで説明がつく。
 次には徳島の古墳は表面から深部まで全部石で築き上げた積石塚(つみいしづか)なのに対し,大和のそれは中央部が土でできていて表面だけが石であるということだ。古墳が大型化するにつれて石が足りなくなっていったのだろうか,始めのうちはまだしも外側の半分が石でできていたが次第に石の部分が薄くなり,ついには巨大な盛り土の上に瓦を重ね合わせたような葺(ふ)き石塚になってしまった。大きな土のあんこに石の薄い皮をかぶせた薄皮饅頭のようになったのである。

                 (つづく)

徳島は わくわく楽しいところ    大西 雅子

 部屋でパソコンをして,イツモナビという地図のソフトで地図を見ていると,鷲敷の百合や桃ノ木谷の近くに「ユヤノ坂」がありました。
 今まで知らなかったので,おや?と思いました。その「ユヤノ坂」とは。
 死んだイザナミノ命の変わり果てた姿に驚いてイザナギノ命は必死に黄泉の国から逃げました。黄泉の追っ手が追いついて来るので,葛や櫛の歯を投げながら逃げますが,最後に雷の軍団が追ってきたのでそこの木に生っていた桃を投げると黄泉の軍団は帰っていきました。
 次には,イザナミノ命本人が追って来たので,大きな岩で坂道を塞ぎ二人は離縁の言葉をかわしました。
 その坂道をヨモツヒラサカといい,今はイズモのユウヤ坂と謂うと「古事記」に書いてあるので,桃の木谷や百合という地名が集まっているところにユヤノ坂があるので,おや?と思ったのです。
 そのユヤノ坂には,去年行ってユヤノ坂というバス停の写真を撮っていたことを思い出しました。地図と実際の地形が頭の中で合体しない私です。さらに大きな岩で坂道を塞いだと思われる大きな岩群がある近くにはヨミ坂やヨミトンネルがあります。
 「古事記」の情景がそのままある徳島は,住んでいてワクワクする楽しいところです。
 今日も一日にこにこにっこりありがとう(^^)にこにこです。


屈原をたずねて(3)   山田 善仁

 屈氏の由来はこうである。
 水(いくすい)が漢水(かんすい)に合流する手前の屈曲した所に申国の屈申城が在り,18代目の文王(熊貲(ゆうし))の時代,滅ぼされて楚の県邑となった。申国を抑える為に武王の子,瑕(か)が封ぜられて屈氏を起こし屈瑕(くつか)と言う。以後代々莫敖(ばくごう)(徳川幕府で言えば副将軍もしくは御三家)家で,王を補佐して,自由に国政,外交,軍事に参与できる家柄となる。
 敖(ごう)は(ごう)で猛犬の名であり,(ごう)をトーテムとし,楚国にとって敖(ごう)は熊(ゆう)と同じく王を象徴する語であった。
 楚蛮の風土には依然として殷王朝的な宗教的雰囲気,巫風(ふふう)つまりシャーマンが幅を利かせる社会で,人ごとに享(まつり)をし,家ごとに巫(みこ)や史(かんなぎ)を作り,民と神とが同位に立ち,神は人に狎(な)れ,民は神に則(まね)るが,民は節度の無い祭祀に明け暮れてまずしく,神の福を受けるどころではなかった。
 春秋時代になると,楚国は相つぐ中原の亡命者を受入れ,一緒に三皇の書,五帝の書,八卦の書,洪範九丘の書を大量に取入れ,楚の文化を独得の高度なものにした。
 知識階級は諸国の外交的応対に,古の語句,主として「詩経」の文句を誦(しょう)し,これに己の意を託した詩を賦していた。
 この時代の巫風は,宮廷でも民間でも巫覡(ふげき),つまり男女の巫(みこ)による祭神の神楽舞が行われていた。
 屈原の表した九歌(九つのまつりの歌)の演唱には,祭神に扮する巫(神巫(しんぷ))と祭者としての巫(祭巫)とによって行われた。
 祭巫は,神巫の相手役を勤める特定の祭巫と,合唱合舞を演ずる一般の祭巫に分かれるが,特定祭巫には男性女性の別が有り,男性の神巫には女性の祭巫が,女性の神巫には男性の祭巫が相手を勤め,「九歌」の歌詞は神に対する人の敬愛の情を男女の愛慕の情に託し,民と神とが位を同じくして雑糅(ざつじゅう)していた楚の祭祀の習俗である。ちなみに,古代朝鮮語の神(カム→カミ)は女神を指し,のち神一般を言う。又,男神はスカム(雄神,隧神,神)と言った。
 周の文化は「礼楽」を制定して天下を治め,秦は独裁行政で治めたが,夏殷の精神的風土そのものが底辺に流れる楚の文化は後々まで受け継がれる。