「あらたえ」とは (5)   三木 信夫

7.あらたえの原料

 あらたえは,麻の織物で大麻を使用する。
 良質の大麻の栽培は,高地で大体海抜500〜700m位で朝霧の出るところが適地といわれている。
 茎は,大人の小指くらいの太さの物が良質の繊維で,太すぎると繊維が厚く良い精麻が取れない。

8.平成の麁服作業工程

平成元年
11月21日

麁服貢進の件
宮内庁宮尾次長と打合せ
12月 4日
麻畑地鎮祭
12月18日

木屋平村・山川町分担等すり合わせ
貢進は一本化木屋平村・山川町名で行う
平成2年
3月 5日
宮内庁用度課長他1名山川町で打合せ
3月 6日
県薬務食品課員 麻畑調査
3月14日
大麻栽培者免許証交付(3/14〜12/31)
4月 4日
播種式
4月 7日
本播種〔1号・2号地〕
7月17日
抜麻式(7/17〜19作業)
7月17日
初蒸式(7/17〜湯通し・天日乾燥作業)
7月26日
麻皮はぎ・麻挽き(7/26〜30)
8月 2日
初紡式
9月11日

山川町へ紡糸出発式
山川町紡糸受取式
9月17日
山川忌部神社麁服織り始め式
10月26日
麁服三木家へ搬送保管
10月27日
三木家麁服出発式・木屋平村民へ披露
10月28日
山川忌部神社麁服出発
10月30日
麁服皇居神嘉殿拝所で供納
11月22〜23日
大嘗宮の儀

以上

御輿修復と稚児行列  天羽 達郎

 約百年前に作られたという桑野天神社の御輿の修復をしました。これを記念して50年前にやった稚児行列も行いました。47人の参加がありました。本当に可愛いですね。祭りに活気がでます。

 秋祭りの見物人の顔緩む
    五十年目の稚児行列に

 衰退の一途たどる秋祭り
    生き返るかや稚児行列で


忌部の話 十二 「信仰」その四  尾野益大

 「延喜式」神名帳にあるように,阿波の大社は忌部神社,大麻比古神社,天石門別八倉比売(あめのいわとわけやくらひめ)神社の三座。このうち忌部神社,大麻比古神社は忌部の神を祀り忌部との関係が深いことが知られているが,「阿波国府」を見下ろす気延山の中腹にある天石門別八倉比売神社も忌部との関係は深い,と推測できる。
 どんな神社なのか。
 まず,気延山には約200基以上の古墳があるといわれ,一帯を統治した首長クラスの一族が住んでいたことが理解できる。神社の社殿も前方後円墳の前方部に建ち,後円部には五角形の磐座が築かれている。
 天石門別は櫛石窓神の別称で宮中三十六座の一つとされ,皇居の守護神という。また,天石門別八倉比売神は日本最古の歴史書「古事記」の中で阿波を指す大宜都比売(おおげつひめ)の別称とする説もある。大宜都比売は食物の神であり,「阿波国府」の周辺,つまり徳島市国府町矢野周辺は穀倉地帯としてよく知られ,古代の阿波を象徴する地域だったことも容易に想像がつく。
 「矢野遺跡」という弥生時代を中心として縄文時代から古墳時代を経て中世ごろまで続いた大規模な集落跡がその証といえる。一帯は食物が取れるだけでなく,青石などの鉱物の産地であり,水銀朱などの加工・製作の場でもあったようだ。政治的に重要な役割を果たした国分寺跡,国司庁跡,阿波国分尼寺跡も近くから見つかっている。
 さて,忌部が一帯の統治者だったと推測できる明確な根拠の一つとして,日本最古の仏教説話集「日本霊異記」(下巻二〇)の中の「名方郡埴村の女,忌部首多夜須子(おびとたやすこ)」の記述が挙げられる。天石門別八倉比売神社は当時の名方郡にある点と,忌部の名前が出ていて,ひと目で忌部との関連が分かる。
 1070(延久2)年6月には,中央の最高官庁で朝廷の祭祀をつかさどる神祇官が,阿波国司に対して,忌部神と天石門別八倉比売神の祈念祭・月次祭などの奉幣を怠っているとして,供物を渡し,奉幣することを命じた「太政官符」と呼ぶ公文書も存在している。
 天石門別八倉比売神社は江戸期にも忘れられることはなかった。「杉尾大明神」と称され,現在に至っても「杉尾さん」として地元で親しまれているそうだ。しかし,いつの間にか,忌部との関連については語られなくなってしまった。

屈原をたずねて(24)   山田 善仁

 朝に舜の霊(みたま)と別れて蒼梧(そうご)を出発し,夕に天に登る梯(かけはし)がある崑崙(こんろん)の神山に来ると,折から日が暮れかかる。
 太陽が乗る車の御者の羲和(ぎか)に命じて,その歩みをゆるめさせ,日が(えんじ)の山に沈むのを延ばして,さらに遠く,良き相手を尋ねつつ,やがて天帝の宮殿まで行くと,なんとその門は彼の為には開かれぬ。止むなく下に降って,雷の神に命じて,洛水の女神の妃(ふくひ)を訪ねさせると,この女神は(げい)という弓矢の名人と楽しみに耽(ふけ)って自分を取り合わぬ。
 それから有(ゆうじゅう)国の美女とか,有虞(ゆうぐ)の国の美女とか,みな神話の美女たちを訪ねるが,どこに行っても,妨害者が現れて,自分の心を通ずることができない。
 進退に迷って占者や巫女(みこ)に伺うと,もうこの国においては,お前の望みは叶わぬ。いっそ遠い国に行くがいいと言われる。
 かくて遂に,わが生まれた国を去って,崑崙の山越えて,遠い遠い国に行ってしまおうと決心する。
 そこで玉(ぎょく)と象牙で車を作り,空を飛ぶ竜に曳(ひ)かせ,虹の旗を立てて,玉の鸞(すず)を鳴らし響かせ,朝(あした)に天の河の渡しを出発して,果ても無い砂漠を過ぎ,赤水(せきすい)の岸に出て,蛟(みずち)に橋を架けさせ,不周(ふしゅう)の山を左に取り,西の果ての海を指して進んだ。
 その時従う車千台。玉の車輪を揃えて進み,八つの竜はうねうねと車を挽(ひ)き,雲の旗は空を蔽(おお)う。そしてはやる心を抑え,つとめて調子をゆるめ乍らも,精神は高く飛揚し,天上の音楽を奏でて,終日(ひねもす)遊び暮らすのである。
 かくて太陽の赫々(かくかく)と輝く大空に昇って行ったが,その時ふと我が故郷の方を見降ろすと,さすがに従者は悲しみ,馬も故郷を恋しがって,見返り見返り進もうとせぬ。
 乱(むすび)は,天上高く揚がろうとする心と,故国を捨て切れぬ懐いが現れる。そして殷の大夫(たいふ)(宰相)彭咸(ほうかん)の如く,今人が何と言おうと善く王を補佐しようと,決意を述べてこの詩を結ぶ。
 この「離騒」の詩の文句は,香草や霊鳥や自然の神々や,神話の女性たちが次々と現れ,まことに絢爛(けんらん)たるものである。とともに,どこを尋ねても自分の求めるものの無い,諦め切れぬ深い憂愁憤懣(ゆうしゅうふんまん)の情緒が雄大壮麗な叙事詩となり,「楚辞」の代表作であるばかりか,中国文学史上の一大壮観と成っている。

(竹治貞夫,中国の詩人)(目加田 誠,詩経楚辞)

タイムスリップ          島川 文代

「こんにちは。お絵描きを教えてください。」
近所に住む小学1年生のMちゃんが,絵を描くためにうちへ遊びに来ました。
「今日はおうちの絵を描きたい。」
只今,彼女の家は新築中。
心の中は大きな夢で溢れている事でしょう。
白い壁のお家,花がいっぱいのお庭,飼う予定の黒い子犬,そして家族みんなの笑顔・・・。その他にも,いろんな絵を5枚ほど,あっという間に描きあげました。
ファイルにいれた作品を大事そうに抱えて帰っていくMちゃんを見ていると,ふと,タイムスリップしたような気分になります。

幼い頃,夢中で絵ばかり描いていた私。
もう一度あの頃に戻った様な不思議な感覚。

現在,私には3人の小学生の息子達がいます。親になっておもしろいなと思った事は,幼い頃した遊びや体験を,再び味わえること。

空が青いこと。葉っぱがゆれる事。ありが行列をつくること。泥だんごがつくれること。

まだまだ,毎日はおもしろい。
大人だって知らないことはいっぱいあります。
大人だから見えないことは山ほどあります。

Mちゃんや,3人の息子達のおかげで,時々(気持ちが)子供の頃に戻れる私。
子供の成長と共に,またその気持ちも変わっていくのだろうけど・・・
子育ては大変なこともたくさんありますが,気づかせてもらえることのほうがきっと多いんだなと実感する日々であります。