三木家古文書について(その19)      三木 信夫

 前掲の三木盛村に対する細川義興の譲り状から3年後,盛村の孫三木親村宛に,應安6年(1373)細川頼有から,三木名(みょう)の領主たる事を認めた預ケ状で,これは阿波国種野山国衙領三木名を守護細川頼有が渡し置いたもの,すなわち北朝側から与えられたもので,三木氏が南朝側から北朝側に転向した時期を示す文書で,おおよそ38年間南朝に尽し,以後北朝側となっている。

(訳)
阿波国種野山国衙方内,
三木名事,預け置く所也,
先例を守り,沙汰致す可き之状件の如し,
應安六年七月廿五日 右馬頭(花押)
三木太郎左衛門殿

 文中の「預け置く」とは,守護がその管内を領国とする意識が強く出ている。

馬鹿な大将 敵より怖い(2)  天羽 達郎

 鳩山首相が突然辞任してしまった。今さらこんなことを言うのは死人に鞭打つようなものだが,前回のままだと尻切れトンボになってしまうので敢えて書きます。
 米海兵隊は名護市より北の国頭村の原野に広い演習場を持っている。普天間基地から毎日ヘリで隊員を運んで行き,昼間そこで訓練をし,終わると元の普天間に帰ってくる。駐機場にヘリを置き整備をし乗員も休息する。占領期のいきさつからあそこになっただけで,学校や町が近くにあり危ない場所だ。早く脱出したい。
 名護市辺野古のキャンプ・シュワブなら市街地からかなり離れていてほとんどなにも無い。しかも演習地にも近いし便利だし安全だ。そこが航空部隊のただの常駐基地になるというだけで,演習するわけではない,実弾も打たない強行着陸もない。鳥のねぐらのようなもので,住民が困るようなことはなにもない。米軍も地元も歓迎している。だから日米が合意した。それを鳩山さんの無知から来る思い込みで辺野古への移設反対を叫んだ。在日米軍というが,その核心は即戦力で熱い戦争を抑止する沖縄の海兵隊なのだ。佐世保にいる第7艦隊の揚陸艦と連携していつでも即座に紛争地域に出動する態勢でいる。南は台湾海峡から北は北朝鮮まで東北アジアの全体を担当している。沖縄は丁度その真ん中にある。この地政学的重要性はだれがなんと言おうと変わらない。中国と北朝鮮が共産党一党独裁軍事国家であるかぎり変わりようがない。鳩山さんはようやくそれを「学んだ」といい辺野古を明記した現行案容認の日米共同声明に署名した。そして辞任した。知事は 海岸線埋め立ての認可の権限を持っており、仲井真沖縄県知事はすでに現行案を容認し許可を出していた。現行案のままなら知事はなにもすることはない。あとは工事を始めるだけ。地元の名護市長にはその権限はない。どういう訳かその肝心のところがマスコミでは報道されていない。だから国民にはよく分からない。
 孫子の兵法によると将たるものの条件は智・信・仁・勇・厳を兼ね備えることだそうだ。金持ちのぼんぼん育ちの鳩山さんは将たるものの第一条件「智」さえなかったのだよ。
(長谷川慶太郎ニューズレターNo.1161より)

覗覘 ( してん ) 魏志倭人伝(10) 山田 善仁

 女王卑弥呼とその周辺
 ○巫女或いは鬼道師なる者は,この時代,高句麗及び朝鮮半島にも存在していた(魏志の馬韓の条にも記されている)。
 ○倭国(邪馬壹国)の女王となってからは,宮殿に居り,見かける人は少なく,婢千人を自ら ( はべ ) らせる。独身の女王には,弟が居り, ( たす ) けて国を治む。男子一人が飲食を給し,帯方郡からの文書賜遺の物を 差錯 ( さしゃく ) する事なく,女王に伝え届ける為に宮殿に出入りすると有るのは,弟かも知れない。
 それは,古事記に有る天照大神と弟須佐之男のセットは,ここからヒントを得たのかも知れない。
 ○倭国は,相攻伐する事 歴年 ( れきねん ) (毎年), ( とど ) まること7.80年(漢の桓帝(在位146〜167)霊帝(在位167〜189)頃より)一女子を立て女王と為す。と有るは,中国魏及び宣帝(司馬懿)の圧力が有った事は想定できる。
 ○卑弥呼(光明姫,或いは蛇姫)が住む宮殿(宮室,楼観,城柵を厳かに設け,常に人有り,兵器を持って守衛する)は,奴国の高祖山ならば,伊都国の港で停泊しても,博多湾を航行しても郡の役人の目にもはっきりと一望できる。
 ○倭国(邪馬壹国)は,素より不和の狗奴国と交戦時,魏の 張政 ( ちょうせい ) 等の支援を受ける。この時期に女王卑弥呼が死亡する。大きな冢を作り,直径百余歩,徇死する者は奴婢百余人と有る。
 因みに,吉野ヶ里遺跡の発掘遺物,特に遺骸を見る時,女王国の南の狗奴国がオーバーラップされる。
 福岡県糸島郡前原町(伊都国)平原遺跡の方形周溝墓の割竹形木棺の内外から,白銅鏡42面,素環頭太刀1,刀子1,ガラス勾玉3,コハク丸玉約1000,めのう管玉12,他にガラス管玉,小玉などの副葬品が出土し,隣の周囲の溝から寝た状態で16人の徇葬者と推察される人体が発掘されている。
 又,近くの三雲南小路(1号,2号),井原遺跡からも多数の銅鏡等が発掘されている。
 文献と発掘資料を総合して鑑みる時,女王の墓は伊都国辺りが濃厚である。

  参考文献
 魏志倭人伝,石原道博。邪馬台国の全解決,孫栄健。日本書紀,宇治谷孟。記紀萬葉の朝鮮語,金思。中国の歴史,陳舜臣。三国志,陳舜臣。発掘された謎の邪馬台国,高橋徹。卑弥呼の墓,原田大六。吉野ヶ里遺跡,佐賀県教育委員会。

横 笛           藤田 美代

 最近,夕食作りの合間に横笛の練習をし始めた。
 師匠は主人。師匠といっても“昔,阿波踊りの連で笛を吹いていた”というぐらいの腕前。
 “たいしたことは無い。私も阿波踊りの曲ぐらいすぐ吹ける”と,思っていたが,これが非常に“たいしたこと”だった。
 この横笛。
 音を出すのにも苦労する。出たっ!と思っても安定して音が出続けない。
 それに行方不明になってしまった腹筋や肺活量も必要になってくる。
 主人が吹いている時,口の形やあけ具合を,下から横から覗きながら吹いてみるが,穴を指で押さえていくほどに音が出なくなる。おまけに高い音の甲音が時々しか出ない。
 横笛の魅力は何といってもあの甲高い「甲音」なのに。
 さてさてこんな調子で吹けるのでしょうか?
 あの憧れの阿波踊り,よしこのリズムを。
 継続は力なり。塵も積もれば山となる。
 この言葉を励みに,近所迷惑も顧みず,ピープー吹いている最近の私です。

苗字の由来     久米 健児

 私の苗字は,古事記の中に久米命(くめのみこと)で出てきます。たいへん名誉なことです。ただ,苗字の由来については,さほど気にしたことはなかったのです。
 そんなとき,モラネットで知り合った三村さんから,由来は,ぜひ知っておいた方がいいです。との指摘をいただき,親,お寺,に聞いてみましたが,はっきりしません。というのも,江戸時代は,商売を生業(なりわい)とする家でしたので,苗字というものがありません。明治になり久米姓としたわけです。決めたであろう方は,既に亡くなられています。ここまでかな?と思いましたが,母方も調べてみようと調べ始めてびっくり,京都,冷泉家の子孫の藤原惺窩(ふじわらのせいか)と関連ありそうです。
 いろいろと調べてみて分かったのは,苗字の由来には,その時代を生きた人の思い出が詰まっていると感じられたことです。
 いま生きている,命を繋いでいく。これが重要です。