三木家古文書について(その21−2)  三木 信夫

 細川常有感状(1463)にある畠山追討の畠山氏とは,管領として将軍足利義政を補佐していた家柄である。当時河内・紀伊・越中三か国守護職畑山持國は,実弟持富の次子政長を養子としていたが,側室に実子 義就 ( よしなり ) が生まれ,のち家督を義就に譲ったことから,畠山家は養子政長側と義就側に分裂し内部抗争に発展し,政長は宗家細川勝元を頼った。その後義就の家臣が畠山の京屋敷を焼き払ったことから京中の騒動となり,阿波の細川成之が朝廷の警護にあたった事が認められ,阿波細川もこの時点から幕府の指示によって畠山家内紛に関与する事となる。
  ( かん ) ( しょう ) 元年(1460)9月,義就は和泉堺・摂津天王寺等に出兵して放火した事から,幕府は義就追討を命じ,阿波細川軍も追討軍に編入された。政長と義就は大和・紀伊・河内等で激戦を繰り返していたが,寛正3年(1462)1月阿波細川成之は将軍義政から河内に義就追討の出兵を命じられた。この河内の役には,阿波細川の阿波軍のほかに,和泉上守護職細川常有に召集された種野山三木名の三木帯刀丞や大浦名の木屋平新左衛門尉が出兵している。義就の拠城である河内の金胎寺城と獄山城を攻撃,寛正4年(1463)4月落城したが義就は逃げのび,寛正4年12月幕府は義就を許し,翌年9月政長が管領に就任するのである。その後も義就と政長は争い義就は,管領をやめさされた長政とついに文正2年(1467)1月18日京都市内で戦い,ここに畠山家の内紛は「応仁の乱」へと発展するのである。
 元号はこの3月5日文正より応仁に改元される。京都で東西に陣を構え,東軍は細川一族・畠山長政・斯波義敏・赤松正則・京極持清等,西軍は山名一族・畠山義就・斯波 義廉 ( よしかど ) ・一色義直・土岐成頼・六角高頼等で5月末から京都を舞台に大戦争となり,文明9年(1477)の秋迄11年間戦火が続き都は焼け野原となる。これを見た幕府奉行の一人現吉野川市 飯尾 ( いのお ) 出身の飯尾彦六左衛門は,
「なれや知る,都は野辺の夕ひばり,あがるをみてもおつる涙は」
という歌をよんで嘆いている。

伊島(その3)           天羽 達郎

 池を通り過ぎてしばらく行くと灯台があった。もう少し行くと山道の曲がり角に少しスペースがありそこに立て札と花があった。それは笹百合だった。「伊島の笹百合は絶滅の危機に瀕したが新野高校がバイオ技術によってそれを救った。これがその花である」との旨の表示があった。そういえば何年かまえそのことが新聞に載っていたのを思い出した。まだ満開ではなかったが,背の 低い白い可憐な百合を見て「ああこれがあの笹百合か」と思った。この花は茎と葉が笹に似ているのでその名がある。白い花びらに薄いピンクがかかり,その内側の付け根近くはピンクが濃くなる。花言葉は清浄と上品。その時は別に気に留めずにやり過ごした。後年奈良の率川神社に三村さん達と参拝した折,この花の造花をあしらった絵馬を買った。これは良縁に恵まれますよとの説明を受けた。
 今年6月当古事記研究会のメンバーとともに伊島を訪れた。あいにくの雨だったが,津ノ峰町答島の船着場で伊島出身の年配のおばさんに出会った。伊島の笹百合の話しを聞いた。この方の小さい頃は山いっぱいがピンク色に染まるほど沢山咲いていた,その匂いは何とも言えない良いものですよと。カベヘラの岸壁に行く途中雨に濡れた笹百合がいっぱいあった。匂いを嗅いだ。ほっとするような,気が癒やされるような匂いだった。

 笹百合の淡いピンクに顔よせば
   こころ和めり花の香りに

 (以下次号)

待つ          サイトウ シゲジ

待つことが好きだった
何かを待つことが好きだった
夏休みを待つことが好きだった
お正月を待つことが好きだった
台風を待つことが好きだった
彼女を待つことが好きだった
日曜を待つことが好きだった
母親の帰りを待つことが好きだった
映画の封切りを待つことが好きだった
ゲームのはじまりを待つことが好きだった
パブで友人を待つことが好きだった
満月を待ったり
引き潮を待ったり
夕焼けを待つことも好きだった
海開きやプール開きを待つことも好きだった
待っている間は
待っているものはそこにあった
待ってさえいれば
待っているものはやってきた
ほんとうに待つことだけが楽しかった
でも
それから後のことは
きれいさっぱりわすれてしまった

すべての思いを家族に 72
人生は一人旅
        田上 豊

 人は裸で生まれ裸で逝くのです。
 人生は一人旅です。寂しく思いますが現実なのです。
 寂しいから家族を大事に出来るのです。友達を大事に出来るのです。知り合いを大事に出来るのです。
 人生は一人旅だから,今を大事に出来るのです。
 家族といえども何時までも子供と一緒に居ることは出来ないのです。
 どんなに可愛くとも,別れる時も考えておくのです。人生は一人旅です。子供達と関わっているのは,ほんの何十年かです。だから貴重な時間です。
 この短い人生を何十代ご先祖は家族のために生きてきたのです。現在に居る私達もその一代を担うだけです。逝くときは一人旅です。
 後に残る人達の事を少しは考えて贖罪を少なくしておきたいものです。どちらにしても自分の過失罪悪は自分の代には払いきれないのです。贖罪が残ると考えるのが正しいのです。そう考えると多くの感謝が出来るのです。感謝が出来ると家族にも優しく接すれるのです。家族に感謝の念が生まれるのです。
 どう楽しく生きたか,どう感謝されたか,どう感謝したかを,閻魔さまは見ているのです。

たわごと・その二    琴江 由良之介

 賞味期限が過ぎた……との被害妄想に陥っている人間は,蚊帳を吊って寝ている。
 きのうきょうのリバイバルではない,何十年来ずっとし続けている。
 この夏もクーラーなしで過ごした。これだけでも存分に文化財かもしれませんが……。
 夜通し網戸にしておくには欠かせない寝具。おかげで,あの「ぶ〜ん」とも無関係に眠れているし,熱帯夜も平気,おまけに雷サンが鳴っても安全・安心だし……そう,一石二鳥・三鳥の頼もしきパートナー。
 近頃の藪蚊はオールシーズンなので,晩秋になっても,コタツを出すまではしまえない。
 こだわる・しがみつくではなく,恩恵がありすぎて手放せないだけ。でも,そんな自分を信じてはばからないでいるということは,やっぱり,ヤバイことなのかもしれない。

古代史研究とツイッター
      大阪古事記研究会 久米 健児

 古事記も含め,世の中に古代史を研究している方は,アマチュアを加えるとかなりの数になります。また,歴史研究という範囲だとさらに増えます。
 近年,ツイッターが現れ,その環境が進化しています。だんだんと情報ツールは,生活に溶け込んでいくように思えます。
 ツイッターのない世界では,それぞれの方を繋ぐのは,メーリングリスト,掲示板というインターネットの世界が最新と思われていました。
 ツイッターの長所は,同じ趣味などの検索ワードで,調べ,興味のある方に話を申し込めます。相手の方が同意すれば,コミュニケーション成立です。そういう輪の中に飛び込んでいく少しの勇気があれば大丈夫です。世の中,変な方もおられるので,その場合は,一方的にブロックできるのも特徴です。古代史を研究するにおいて,多くの方の御意見を参照する場合,情報ツールとして,ツイッターが,私の場合うまく合っているようです。