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憲法と戦争

 「日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」

 憲法の一節である。どこかで読んだはずだった。だれもが、いつでも、触れることのできる一節のはずだった。いや、だれもが必ず立ち返らなければならない、この国、この社会の基本となる規範であるはずだった。だが、どの国の憲法?だれが守っている憲法?−−そんな問い返しが、皮肉でもなんでもない、まったくの事実に聞こえてしまうほど、棚上げにされ、ないがしろにされてしまっている一節でもある。

 アメリカ合衆国がしゃにむに突き進もうとしている戦争は、まさにこの「国際紛争を解決する手段」としての戦争である。日本は、日本の政府は、憲法に照らしてこのアメリカの軽佻浮薄に釘を刺すどころか、追随し、迎合し、はては加担しようとさえする。「大量破壊兵器」の最大の保有者であるアメリカ、そして自分の都合の悪いときだけ他者の「核」をとがめる利己的なアメリカに、イラクを責めるどんな大義と道理があるのか、考えようとさえしない。

 もう一度、憲法の原点に返りたい。戦争が、破壊と殺戮というもっとも非人間的な行為であることを私たちは決して忘れることはできない。そして、どんなに「大義」をかかげようとも、戦争の影に利己的な思惑や権力欲が隠れているのを、私たちは何度、見てきただろうか。国境の外に生きる人々の生活を思いやる想像力、そして人の痛みを忘れない人間らしい感覚を大切にして、憎悪を共感に、武器を対話に変えよう。地域から世界につながる交流の輪を。足元から平和の声を。戦争をもてあそぶすべての政府に「No}を!

2003.2.20


障害者たちの勝利

 霞ヶ関の厚生労働省前、文字どおり雪が舞い、寒風吹きすさぶ中で、障害者たちが連日の抗議行動を続けてきた。

 障害者のホームヘルプサービスに月120時間の「上限」を設けるという話が飛び出したのは、今年に入ってからだった。120時間といえば14時間である。実際には1日に8時間、16時間、あるいは24時間の介護を受けながら生活している障害者たちにとって、まさに命と生活の根底をゆさぶる話だ。必死の行動が始まった。ときに全国から2000人もの障害者・介助者・支援者が集まり、厚労省前は車いすで埋め尽くされた。

 そして、27日、厚労省はとうとうこの「上限」を事実上、いったん白紙に戻す方針を打ち出した。障害者たちの、勝利である。

 結果は、ある意味で当然のものだった。現に提供してきたサービスを、いのちを支えてきたサービスを、突然減らされてよいはずがない。障害者たちにとっては、このたたかいは振ってわいたようなものであり、あまりに大きな負担だった。

 けれども、何かとても輝かしい。権利はたたかいの中でしかかちとれない。たたかいを通して何度でも確かめなおさなければ、権利は生命力を失う。そして、たたかいの中で、人々はつながりなおし、自らの力を確かめなおし、前進の足場を見つける。いささか無責任なことを言えば、このたたかいとこの勝利は、障害者たちにとって大きな前進の糧になった。それは、どんな苦労にも代えがたい。

 いや、障害者にとってだけではない。私たちは、いったいどれだけ勝利をたたかい取ることから遠ざかっていただろう。思いをからだごとぶつけて行動するということから、どれほど遠ざかっていただろう。障害者たちは、見事な大衆行動をくりひろげた。そして、国を動かした。

 今回の勝利は、きっと、大きな励ましと新鮮な感動を、日本の大衆運動、市民運動にもたらすに違いない。その力はじわじわと広がり、もしかしたら、「改革」の名で進んでいる社会保障全般の後退の流れに、ひとつの転機を刻むかもしれない。人のいのち、人の権利が、根底にある――その実感は、とても重い。

2003.1.28


新しい年、思い起こす時代

 去年買った数少ない音楽CDのひとつが、フォーク・クルセダーズの『戦争と平和』だった。懐かしい名前に惹かれたのでもあるが、同時に、タイトルが決め手となった。そして、懐かしい空気とともに、タイトル通りのなかなかストレートなメッセージのこもったアルバムだった。

 彼らに限らず、懐かしいミュージシャンたちの、しかしとても現在的なメッセージを、最近よく耳にする。そういえば、あの「9.11」以後、精力的に発言を続けてきたのも坂本龍一だった。

 今、60〜70年代にかけての音楽が見直されているとか。いろんな音楽があったし、いろんな音楽について語られているが、人々が平和について、社会について、語り、歌い、行動した時代である。音楽が時代の空気を反映していなかったはずはない。そして、たとえば音楽を通してあの時代を回顧しようという空気の中に、私は、不安と不信が渦巻く時代にもどこかで息づく、人々の人間らしい思いを感ぜずにはすられない。

 今年は、とても大切な年。この国にとって、地球にとって、皆さんにとって、そして私にとって。そんな意気と決意で新年に臨んでいます。よい年でありますように。よい年にしましょう。                   

砲弾はいったい何度、飛び交うのか。人はいつまで悲しみの声に耳を閉ざすのか。―― ボブ・ディラン「風に吹かれて」

2003.1.3


アスベスト

アスベスト問題は終わった、と思っている人が少なくない。

15年程前、学校をはじめとした公共施設のアスベストが大きな社会問題になり、国や各自治体が対策を講じた――はずだった。だが、実際には、たくさんのアスベスト製品が撤去されず、使われつづけ、さまざまな形でアスベストが飛散しつづけている。

アスベスト問題が終わっていない一つの、象徴的な実例が、練馬にもある。総合教育センターの10以上の部屋の天井に吹き付けられたまま、むき出しになっているアスベストだ。アスベスト含有率65%、うちもっとも毒性が強いとされるクロシドライトが15%というアスベストが、囲いもないままに放置され、その下で区民がサークル活動をし、職員が仕事を続けてきた。中には、幼児室のように、アスベスト天井にボールをぶつけたあとが無数に広がる部屋まである。下の写真は、その天井を撮ったものだ。

15年前ならいざ知らず、日本の国も遅ればせながらアスベストの全面禁止に動こうかというときに、一般の市民が利用する公共施設でこうした状況が放置されてきたということは、恐るべきことだ。

アスベスト問題は、区政の重要なテーマである。

2002.11.20

 

 

 

 

 

 

 


子みすゞのこと(続)

もう一度だけ、金子みすゞについて。

いろいろと知るにつれ、金子みすゞは相貌を変え、奥行きを増し、魅力を深める。なによりも彼女が、私が想像していたよりもずっと近く、深く、時代と社会の中にいたにちがいないということは新鮮な驚きだった。10月17日のトークタイムでいっしょにおしゃべりをしてくれたTさんは、たとえば全集の中からこんな詩を見つけ出してくれた。

木屑ひろひ

朝鮮人の子、何つむの、/げんげが咲いたの、よもぎなの。/いやいや、草は枯れてます。
朝鮮人の子、何うたふ、/朝鮮人のお唄なの。/いやいや、日本の童謡です。
朝鮮人の子、楽しげに、/こぼれ木屑をひろひます。/製材裏の原っぱで。
木屑ひろうて、束にして、/頭にのせてかへります。/小さなお小舎で、母さんと、/とろとろ赤い火を燃して、/父さんの帰りを待つために。

大陸への、そして大陸からの“玄関口”であった下関。「日清戦争」を終結させた条約が締結された町、下関。東京に並ぶ二大都市とまで言われた下関。その下関はまた、みすゞの詩の舞台でもある。そして、その町に木屑を拾う「朝鮮の子」に対するみすゞの眼差しは、澄んでいる。

選挙の準備の過程で、いろんな人との出会いが広がる。その楽しさ、素晴らしさが、私を支えてくれている。金子みすゞとの出会いも、そうだ。ほんとにそうだと思う。最後にもうひとつ。

空の鯉

お池の鯉よ、なぜ跳ねる。/あの青空を泳いでる、/大きな鯉になりたいか。
大きな鯉は、今日ばかり、/明日はおろして、しまわれる。
はかない事をのぞむより、/跳ねて、あがって、ふりかえれ。
おまえの池の水底に、/あれはお空のうろこ雲。
おまえも雲の上をゆく、/空の鯉だよ、知らないか。

元気が出る…。金子みすゞがみずから命を絶ったのは1930年、「満州事変」前年のこと。個人的にも、時代的にも、“みすゞ的”なものは窒息させられねばならなかったのか。繰り返すまい。

10月17日の<音楽とお話の集い>は、おかげさまで盛況裡に終えることができました。音楽の西山さん、萱野さん、トークの田中さん、松井さん、そして司会の大島さんや“声の出演”の皆さん、スタッフとして支えてくださった皆さん、ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。

2002.10.29


金子みすゞのこと

 金子みすゞの詩集を開いている。優しさ、繊細さ、感性、想像力、内向性…いろんなものを見つけることができる。しかし、たとえばこんな詩に、私はとてもひかれる。

女の子
女の子ってものは、/木のぼりしないものなのよ。
竹馬乗ったらおてんばで、/打ち独楽するのはお馬鹿なの。
私はこいだけ知ってるの/だって一ぺんずつ叱られたから。
(みすゞ詩画集『茜』 春陽堂より)

 こうした詩を読んでいると、金子みすゞの、むしろ強さや鋭さ、思想、そして生きた時代の空気が感じられる気がしてならない。詩集をほんの少しかじっただけの人間の、思いつきのような好みと感想でしかないが…。
 あの有名な、「みんなちがって、みんないい」という詩にしてもそうだ。“画一主義”が盛んに批判される昨今、「みんなちがう」ことは、誰もが語る。しかし、「みんないい」と言い切ることは――言い切るだけでなく、生き切ることは、なまやさしいことではない。このはっとさせられる強さが、金子みすゞの魅力と、彼女に多くの人がひかれる理由の欠かすことのできない一部をなしていると、あらためて思う。

2002.10.7


住基ネット・コードを返却しました

 私のところ――厳密に言うと、家族分まとめてなので「わが家」にも、住民基本台帳ネットワークのコード番号の通知が届いた。住基ネットは、8月5日の稼動を控えて、一気に感心と疑問が高まり、いくつかの自治体が参加を見合わせるなどの動きにまで発展している。届いた通知を手にしながら、あらためてこの問題の意味を考えてみた。やっぱり不安だ。コンピュータ・ネットワークを介して、巨大な情報の集中と、その分、巨大なリスクの集中が生ずるにもかかわらず、個人情報の保護に対する感覚が――システムとしても、法体系としても、そして運用にあたる人間の姿勢としても――いかにも鈍感なのだ。そして、その鈍感さは何のため、誰のためにネットワークをつくるのかという基本の基本があいまいだということと不可分に思えてならない。

 住基コードは、そのまま開封せず、以下のようなメッセージを添えて送り返すことにした。あわせて、質問書も出してみた。通知を返却しても、すでにネットは稼動を始めており、私の個人情報もネット上に提出されてしまっている。だが、納得ができるまで、問いただしてみたい。自分の情報は大切にしたいから。

練馬区長 岩波三郎様

先日、練馬区区民部管理課より、住民基本台帳コードの通知書と思われる同封の郵便物が送付されてきました。
しかし私たちは、住民基本台帳ネットワークにおいて私たち家族の個人情報が法的にも技術的にもしっかりと保護されると信ずるに足る条件がいまだ整っていないと考えます。よって、基本的人権の尊重をうたった憲法、ならびに
「個人情報に係る区民等の基本的人権の擁護と信頼される区政の実現を図る」
ことを目的とする練馬区個人情報保護条例の趣旨に沿って、私たちの個人情報に関して適切かつ十分な処置が取られるまでは、住基ネットへの情報提供を取りやめてもらいたいという意思を込めて、通知書の受け取りを拒否いたします。

2002年8月19日
池尻成二・池尻祐子

2002/8/23


他人事だろうか…

行き場を失い、“生き場”を奪われる人たちのこと

練馬区で、母親が中学校に通う娘を死なせるという事件が起こった。報道では、家庭内暴力があって、思い余った母親が首を締めたという。亡くなった女の子は、去年まで私の息子が通っている中学校に在籍していた。事情があって(いじめだとかいろいろと言われている)転向したらしい。

母がなぜ娘を殺めたのか、娘が何を思いどういう事情があったのか、母と娘に何があったのか、語る材料も資格も私にはない。けれども、ひとつだけ、どうしても拭い去れない強烈な実感がある。それは、“だれもが、少しずつ、確実に、追い詰められ、行き場も生きる場も失いつつある”という実感だ。誤解を恐れずにいえば、母を責めることも、母に同情することも、そのどちらもが嘘に感じられてならない。

人はひとりで生きているのではない。社会によって生かされ、社会を通して生を確かめなおしている。その社会が、かくも奥行きを失い、かくも切り刻まれてしまうなかで、「人とともに生きる」という実感が自分の中にほんの指の先ほどしか残っていないことにハッとすることはないだろうか。

朝日新聞も書いていたが、最近の無惨な犯罪の加害者が、しばしば「30代、40代、無職」であることに、わたしもずっとひっかかっていた。失業、失職と犯罪を直接に結びつけることは大きな誤りであるに違いない。しかし、たとえば職を失うことによって生活の礎を見失ったときに人が味わうに違いない孤立と絶望がかもしだす空気を抜きに、相次ぐ犯罪を語ることももはやできないと思う。

罪を犯す人があるからだけではなく、罪を生み出す土壌と空気の広がりをどこかで確かに感じるからこそ、人々は不安になるのではないか。罪を責め、罪を犯した人を罰せよという声の背後で、それが罪をなくすためにどれほどの意味を持つのかという深い苛立ちと辛い無力感が繰り返し顔をのぞかせる。

「社会を変えて人を救おう」という愚直なほど明瞭な言葉を、私たちは今、必要としていないか。

2002.7.27


隔離の中、広がった“二重苦”

ハンセン病療養所で肝炎の大量発生

 厚生労働省が、「国立ハンセン病療養所における肝炎ウィルス罹患者の実態調査結果」を公表した。全療養所を対象にした調査で、検査を受けたのは3,607名(全入所者の約84%)。HCV抗体検査が陽性となりC型肝炎ウィルスの感染が確認されたのは、全体の26.6%にのぼったという。

 厚生労働省によれば、国内のC型肝炎感染者は100万〜200万人、陽性率は1〜2%という。26.6%、4人に1人が「陽性」というのは驚くべき数字である。陽性率は、栗生楽泉園(群馬県)では56.9%、松岡保養園(青森県)では53.9%にも達する。現にウィルスに感染していることを意味するHCV−RNA陽性者に限っても、松岡保養園の29.0%を最高に、全体で11.7%にもなる。

 これだけ肝炎が広がったのは、主として注射器の使いまわしが長い間、行われ続けてきたからだという。

 「ハンセン病患者の治療には輸血はほとんど関係なく、同病の治療薬の投与の際に注射針を使い回したり、らい菌の検査で使うメスの消毒不足が原因とみられる。患者を閉鎖的な環境で治療したことがまん延につながったとしか考えられない」(駿河療養所・江川所長――毎日新聞2001/4/7)。

 隔離と、隔離の元で打ち固められた差別ゆえの感染である。すさまじい数字に、慄然とする。

⇒厚生労働省「国立ハンセン病療養所における肝炎ウィルス罹患者の実態調査結果」は、WAM-NETのページからたどることができます。

2002.6.22


辻元さんのこと

 辻元さんという人について、ほとんど知らない。深い思い入れはなく、また強い期待があったわけでもない。それでも、主張に共鳴するところは少なくなかったし、注目もしていた。 

 そんな立場の私は、彼女の辞任と先日の「参考人質疑」についてこう感じた。  辻元さんは、政治資金規正法に反したことをし、何よりこの違反を――意図してか否かは別として――否定し隠そうとした。政策秘書給与として支出された税金を他の目的に"流用"していたことについては、「ワークシェアリング」とか「○○もやっている」といった理屈を持ち出して開き直ろうとさえした。こんな彼女が議員を辞めることは避けられなかったと、私は思う。

  だが、彼女自身は、何のために議員を辞めたのだろう。追い詰められたからか。辛くなったからか。そうではなかったはずだ。辞めることを通してひとつの「筋」を通そうとした、辞めることによって腐った議会と議員のありようをギリギリのところから問い返そうとした――少なくとも、彼女はそうした言葉を語っていた。  ならば、あの「参考人質疑」はなんだったのか。  あの場にいたのは、社民党という組織を守ろうとする忠良な党員ではあったかもしれないが、しかし一切の腐敗と身を賭してたたかおうとする「筋」の通った政治家の姿ではない。 

 辻元さんにとって、社民党とはいったいなんだったのだろう。なぜ彼女は、こうまでして党をかばおうとするのか。自分を辞職に追い込むことによって、彼女は国会と国会議員に反撃する捨て身の足場を取り戻せたかもしれないのに――そしてそうすることによって社民党の“刷新”や“再生”という彼女の目標に近づけたかもれないのに、今度は党の陰に隠れ党と馴れ合うことによって、その反撃の切っ先を自ら折ってしまった。“巨悪”を理由として“小悪”を正当化することが許されないように、“小悪”におもねりながら“巨悪”とたたかうこともできない。

 辻元さんにとって、社民党に対しても潔くあることは、政治家としての彼女の「死」を意味したのだろうか。社民党の庇護を受けなければ、政治家=辻元清美は、生き延びることができなかったのだろうか。 政治家はすなわち議員ではない。人は議員である前に、政治的な信念と行動に裏打ちされたひとりの政治家でなければならないと私は思う。だが、社民党に引かれ、社民党の看板の元でいきなり議員として政治の世界に飛び込んだのであろう彼女にとって、社民党のない、社民党からも自立した、ひとりの政治家としての辻元清美はありえなかったのかもしれない。

  ここまで腐り行き詰った政治の変革をほんとうに志すならば、自分と自分たちの手で、一から歩き出し、力をつけ、組織を育てていかなければならない。彼女の姿も涙も、痛々しかった。だが、それは自立した政治家=辻元清美があの場で息絶えたことを感じさせたがゆえの痛々しさだったと思えてならない。


逆さになったハードディスク

 「IT」と言えばなにかしら革新的に聞こえ、「IT」と付けばなんでも予算がおりてくる。まるで国中が「IT革命」にうなされているような昨今、酔い覚ましをしてみたい。

 実は、私の職場は少人数のわりには比較的早くからパソコンやプリンターはもちろん、デジカメ、LANなどが導入され、たいそう「IT化」が進んでいる。先日、その職場のパソコンが1台、突然うなりをあげて止まってしまった。ほんとうにうなりを上げたのだ。
 止まったのはハードディスク。そのパソコンを使っていたのが、会計や名簿管理を担当している――しかも、パソコンにはもっとも抵抗感を感じていた人だっただけに、それはもう青くなること…。私だって、バックアップもとっていなかったと聞かされると、もう唖然、お手上げという気分になってしまったのだが、そのときである。
 オフィスの「IT化」を設計し、自身でもずっと以前から自作のパソコンを組み立てつづけてきた若き同僚がすっくと立ち上がってこう言ったのだ――「逆さにしてみましょう」。「!」である。なんで「逆さ」に?
彼は、無造作に当のパソコンのケースを開けるとハードディスクの固定ねじを取り外し、文字通りそれを「逆さ」にし、電源を入れなおす。そうしたらどうだ、あのいつもはどこかうっとおしい「Windows」のロゴが現われ、データが読めるではないか。

 要するにこういうことらしい。ハードディスクというのはその名のとおりディスク(円盤)に針でデータを書き込んでいく。ハードディスクが古くなるとその針の動きが悪くなり、機能しなくなることがある。そんなときは、ディスクを傾けたり逆さにして針を動かしてやると、一時的にだがうまくいくことがある…。
 おかげで、ともかくもデータは無事移し変えることができたのだが、この出来事以来、私は「パソコンも、結局はたたけば壊れる一つの箱なのだ!」と妙に納得してしまった。パソコンが描き出す美しい画面や、超スピードでやり取りされるデータや、現実とはまったく無関係に操作できる"電脳空間"の様は、時として人間に無限な能力についての幻想や、リアルなものへの軽蔑を植え付けていく。だが、元をたどれば、パソコンは一つの箱であり、その箱の命を支えているのはきわめて物質的な力や作用であり、パソコンもまた"たたけば壊れる"ほど生々しく脆いものなのだ。

 「IT」と、たとえば木簡や石文字で指示を伝えたはるか遠い人類がどこかでしっかりとつながっているのを確かめられたような気がして、なんだかほっと安心してしまった。

2002.4.14           ミニコミ紙「ざっくばらん」から


たこ部屋で稼ぐ“介護保険”

 65uの部屋が6つ、それぞれにベッドが8つ。「ナーシングホーム」というしゃれた名前のついたこのアパート、いや“たこ部屋”に痴呆のおとしよりが集められ、関連の訪問介護事業所からヘルパーが派遣され、これまた関連の医療機関でデイケアを受ける。部屋代や食費、権利金などをあわせ、自己負担は40万円近い。

 茨城県水戸市の「しまナーシングホーム」のこんなすさまじい姿が、新聞で報じられた(3/11朝日など)。介護の質など端から考えていない。「在宅」などとはどんな意味でもいえないようなところに閉じ込めておいて、しかも特定施設やグループホームの指定も取らず、「在宅」と居直って介護報酬をむしりとり利益をあげていく。まさに、痴呆の高齢者に取りついた吸血鬼のような経営者である。

 しかし、悪徳経営者はいつの時代にもいた。高齢者、とくに痴呆の高齢者は、いつも痛めつけられてきた。問題はこうした経営者、こうした“介護”を、介護保険法も、自治体も、厚生労働省も規制できないし一掃できないということである。

 この“ナーシングホーム”は今でもある。それどころか、さらに広域に展開しようとしている。訪問介護事業所も診療所も、もちろん今でも指定を受けて事業を続けている。行政も、施設としての指定をとるように求めることが精一杯だという。

 どこに「利用者本位」、「高齢者の自立と尊厳」があるのか。介護保険の時代の闇をまざまざと見せつけられる。

2002.4.1


「小児病院」の子どもたち

 先日、東京都立の清瀬小児病院に行く機会があった。子どもたちとお母さんの姿が圧倒的に多い外来を抜け、手やのどの消毒を何度か済ませて、小児白血病のこどもたちが入院している病棟を訪ねた。
 小児白血病は、決して"不治の病"ではない。たくさんの子どもたちがここで治療を受け、家庭へ、地域へと帰っていく。だから、この病棟には、生活のにおい、こどもたちの活気、活き活きとした関心が飛び交っている。小学生前後のこどもたちの声も姿も、抗癌剤治療の副作用が顔つきに表れていることを除けば、街中の児童館や学校の教室と同じである。
 それでも、病は確実に子どもたちにのしかかり、治療の辛さは何大抵ではない。だから、スタッフ、家族、ボランティアのひたむきな支援が続けられる。清瀬小児病院には、学校(久留米養護学校分教室)もある。子どもたちは、入院・療養しながら、この分教室に通う。
ところが、この小児病院が、統廃合の対象になっているのだ。石原都政が進めている「病院改革」の一環である。なんで?
 小児白血病の発症には、電化製品などから出る電磁波も影響しているとも言われる。食事や生活習慣も含めて、家に帰ってからの生活を見つめなおしていくためにも、厚いスタッフと心のこもったケアが必要だろう。これだけたくさんの患者さんがいて、分教室など公立ならではのシステムもあって、なぜなくさなければならないのか。
 帰り際に、ひとつ思い出した。そうだ、都の教育委員会が例の「扶桑社版歴史教科書」を強引に導入したのは、ここの学校だった…。
 ここに入院している子どもたちは、都政から決して大切にはされていない。その実感は膨らむばかりだ。

2002.2.24


「いばる」政治家ほど嫌いなものはない

例の鈴木某代議士がNGOの責任者を呼びつけた時の様子が、当のNGOサイドから暴露された。代議士は否定している――そうだろう、どこから見ても恫喝としか呼びようのないその内容が事実なら、いくら厚顔な人間でも堂々とおもてを歩くのは辛いだろうから。

だが、本人の否定にもかかわらず、おそらくは多くの人々が「ありうる」と感じているはずである。彼の汚らしい野次はつとに有名であり、彼の発言や行動の端々にはその品性を疑わせるものがしきりに顔をのぞかせてきたからである。

何が嫌いといって、権力をかさに着ていばる政治家や役人ほど嫌いなものはない。そして、恥ずかしげもなくいばる人間が、なんと永田町(国会)や霞ヶ関(官庁)に多いことか。こういう人間を、国や自治体から一掃していくために闘うんだ、と、今日は妙に気合が入っている。

2002.2.1


 

 

長者の万灯よりも、貧者の一灯

こんな言葉があります。

心とくらしに寒々とした時代を感じている人たちに、ひとつの灯りをともしたい。万の灯りはなくとも、ひとつの灯りで照らし出せるものがある。

「夢」――2002年、夢ひろがる一年に。

 2002年1月1日 池尻成二  


「狂牛病」――悔しさに満ちた酪農家の怒りを知る

「狂牛病」にまつわる報道を見ていて、思う。どうして酪農家たちは、怒りを――やり場のない悔しさに満ちた怒りを、農林水産省の表玄関にたたきつけないのだろうか。消費者は、なぜこうもお人よしに、役人が振りまく空疎な「安全」宣言でみずからを慰めつづけているのだろうか。そして、国民は、いつになったら政府に不信任を突きつけるのだろうか。

皆、そうしたいと心のどこかで感じているに違いない。テレビに映し出された猿払村の酪農家の、ほんとうに悔しさにゆがんだ表情は確かにそう伝えている。狂牛病の原因とされるプリオンが入った「肉骨粉」などは使ったことは一度だってない…はずだった。でも、汚染された「肉骨粉」は入り込んでいた。肉骨粉以外にも、怪しげなものがあちこちから忍び寄っていた。かかわりのあるほとんどの人は、誠実に牛を飼い、飼料を作り、肉をさばいていたに違いない。それでも「狂牛病」は出た。結局、国民も、酪農家も、何が牛の口に入っているのか、何を避けなければならないのか、どこから危険がやってくるのかを知らされてさえいなかったのだ。

牛の脳髄などが混じった「肉骨粉」の製造や流通に対しては、農林水産省や厚生労働省は、つい最近まで「自粛」を求めていただけだった。誰に遠慮したのか、何に配慮したのか。少なくとも、国民の安心を保障し酪農と酪農家への信頼を守り抜くことが二の次にされたことは間違いない。

危険を察することはできたはずなのに、そしておそらくは察していたはずなのに、肉骨粉の輸入も製造も利用も止めることをしなかった役人たちの不見識と不誠実。目先の利害を追いかけまわす無責任な官僚主義と自分の領分しか考えない小役人根性が、日本での「狂牛病」の発生を許し、今、無数の人々を不安におとしいれ、途方に暮れさせている。

あいついで確認される狂牛病に罹患した牛の発生は、すでに、確実に、少なくない人々が狂牛病への汚染の危険にさらされていたことを物語っている。今ごろ「安全宣言」を出されても、少しも心は休まらない。これまで私たちは何を食べたか、食べさせられてきたのか。水俣の時もそうだった。エイズの時だって、同じだった。この国は、ほんとうにおかしくなっている。心中は、ごめんだ。

2001.12.2