この国について

沿革

  • 正式名称:マノア市国 Manoa City State
  • 政体:立憲君主制
  • 元首:アン・アマギ終身提督
    現在の提督は1957に英国により任命された、初の市国民提督です。 提督職は司法立法行政権は持っていませんが、市議会の承認と 助言に基づき、市長や議員、市の上級職員を任命します。 なお、英国との契約に基づき、同提督が最後の提督となります。
  • 面積:151km2 小豆島とほぼ同じ
  • 人口:約6万人 人口密度:397人/km2
  • 首都:マノア市 City of Manoa
  • 独立:1955年12月24日
  • 国家:帆を高く揚げよ
  • 住民:ミクロネシア系40%。華僑40%。アングロサクソン系10%。その他10%。
  • 言語:英語(公用語)、日本語
  • 宗教:英国国教会(90%)
  • 通貨単位:マノア・ポンド
  • 為替レート:200円(1998年6月)
  • 時差:GMT+9(日本と同時刻)
  • 査証:30日以内の滞在は商用観光とも不要。

自然

自然が豊富です

沖ノ鳥島の南500km、グアムの西方約1000kmに位置し、火山島の 本島を中心とした島嶼国家です。

高温多湿な熱帯海洋性気候で、年較差は殆どありません。 七月〜十一月には、沢山の台風が襲来します。
中央区での年間平均気温は27.2c。 五月が最も高く27.4cで、最低は一月の26.8cとなります。 又、年間降水量は3746mmです。

年間を通じて雨が多く、島の中央にあるパリマ湖は、透明度の高い 飲料に適した水を常に充分に湛えています。
(かつては鉱毒も発生しましたが、現在鉱山は閉山されており、日本政府の 医療・技術支援のお陰で、河川の砒素含有率は、ほぼ開発前の状態と なりました。)

国名の由来

古来より、地域や島を表わす名称として、周囲からも 「マノア」と呼ばれていました。自分達でも同様にそう呼んでいましたが、 あくまでも場所の名前であって、自分達の部族名と考えてはいません。 また、どんな意味があったのか、語源は不明です。

略史

中国の永楽帝の時代の貨幣が大量に出土し、私たちの先祖がその頃から 交易を行っていた事が分かっています。

1602年にはオランダの東印度会社の支配下に入り、胡椒の輸出を 行ってきましたが、1819年に支配権は英国の東印度会社に移り、 当時見つかった銅鉱の開発がハニービー・ティント社によって始まりました。 英国国教会が国教になったのも、この頃です。 (独立後は国教は廃止されましたが、今でも国民の大半は英国国教会の 信徒です。)

1867年には英国の直轄植民地になりましたが、太平戦争中1943年には 英国の守備隊が日本軍に降伏し、1945年8月15日まで、日本の軍政下に 置かれます

大戦終結後、10年間の反英「非暴力」闘争後、1955年12月24日には、 流血無しに独立を達成しています。

翌1956年には国際連合に加入、1985年には地域の非核化を目指した ラロトンガ条約にも加盟、国際機構の中で、平和を維持しています。

現況

銅山の閉鎖後、日本の高知水産と市の合弁企業であるマノア・ツナ社に より、市国の経済は維持されています。 同社によって1975年に設立されたパリマ海技学校は、日本を始め、 世界中の商船会社に船員を供給しています。 また、1985年には海技の単科大学を併設し、1990年には付属病院を設立、 1995年には、海技は元より、考古学、経済、情報処理の科目を持つ総合大学に 成長しました。

財政の柱は、上記水産業、日本への自然塩の輸出、出稼ぎ労働者からの 送金などとなっており、現在新しい産業として、コンピュータの プログラミング技術の修得に力を入れています。

戦前から日本との親交は深く、オランダ植民地時代には、日本人の 傭兵が大量に生活していました。太平洋戦争で日本の軍政下に置かれた事、 日本の水産業と深い関係にある事から、公用語は英語ながら、日本語も かなりの範囲で通用します。

度重なる台風や、温暖化による水位上昇の被害などを受け、 日本政府からはかなりの援助を受けていますが、その大半は借款で、 上記の収入を元に、償還も始めています。 「食べるための(消費される)援助」では無く、「産業を興し、 成長させるための援助」の成功例として、注目されています。

王制について

特別寄稿論文

半農耕半漁業時代から部族連合体が存在していた事が、古代の集落跡の 遺跡から確認できています。 また、当時の王は部族の族長が輪番で選出されていた事、 母系社会であり女性が族長を勤めた事が、口伝により伝えられていました。 これは、オランダの植民者により記録されています。

オランダの植民地時代には、当時ほぼ確立していた王制は 廃止されましたが、 英国の海賊ウィリアム(William)とその部下(日本人の傭兵も参加していた ようですが詳細は記録に残っていません)によりオランダ人が駆逐されると、 ウィリアムを王とする王制が誕生しました。 この海賊王は多くのマノア青年を徴兵し、当地を基地として海賊行為を 行った為に英国の東印度会社の怒りを買い、同社の派遣軍によって占領され、 正式にマノアは英国の植民地となりました。

英国の植民地時代では英国国王が元首となりますが、大半の人々にとっては 特に関係はありませんでした。(それよりも市民生活にはイギリス国教会の 方が、影響を大きく与えました。) 一方で、考古学者が偶然銅器を見つけた事が発端となり、パリマ鉱山の開発が 始まりました。 鉱山会社の最大株主であるヘンリー(Henry)は、マノアに宮殿を構え、 鉱山が生み出す富で銅山王と渾名されるようになりますが、後に彼は 英国王より総督として任命され、名実共にマノアの王となりました。

ヘンリー家は代々マノアに住み、領主として君臨しました。 一般的な他の領主と同様、名君も愚者もそれぞれ輩出しましたが、彼の子孫は 英国本土で教育を受け、次第に不在地主として支配を続けていました。 採掘技術の向上により鉱毒の被害が大きく発生した後、日本軍の 占領により鉱山は閉鎖され、「ヘンリー朝」は終焉を迎えました。

その後(英国女王を元首とする)英国連邦の一員としての短い時代の後、 英国との独立協定に際し、マノア出身の終身総督が最後の総督と して任命されました。 終身総督の死後は、マノアは完全な共和国となり、王制の歴史は終結する事に なっています。

  • パリマ大学一般教養学部
  • 学部長 マイケル・スミス(Michael Smith)

地図

地図

上記の図は、縦横50%に縮小しています。