Cat:HIS
Pub: 1974
#: 2200-07b
Susumu Ishiiu (石井進)
22125u
Résume
Remarks
>Top 0. Preface:
- 鎌倉政権の成立は、平氏政権に代わる源氏を担いでの坂東武者の独立運動; 頼朝のその政権基盤を理解していたが、義経は軍事的天才ぶりを発揮したが、最後までその意味がわからずに散った。
- 北条親権体制は、源氏政権を継承し発展させた。承久の変と御成敗式目で、武士政権を確立させた。
- 伊豆の一流人源頼朝を頭目に仰いて鎌倉幕府が成立
- 東国の開拓農場主=武士たちは、将軍専制から執権政治を確立
- 承久の乱を機に、幕府を確立。東日本の西日本に対する優位回復
- いつ"鎌倉幕府"が成立したか。
- 武家政治組織はむしろ成立時期が不明確
- 最初に仕事が存在し、その政務を行う人が配置、ある程度永続した後に組織・職名が生じる。 (官僚機構とは原理が異なる)
0. 序文:
- 鎌倉幕府の成立
- 1180/8/17: 山木兼隆伊豆守目代を襲撃
- 1180/10/18: 富士川の一戦に勝利; 南関東に軍事政権
- 1182/2/4: 清盛病死
- 1183/2/7: 一の谷の戦いに勝利
- 1183/10: 寿永二年十月宣旨: 東海・東山両道の庄園公領の回復と、実質的な国衙在庁指揮権が頼朝に公認
- 1184/10: 公文書・問註所の設置
- 1185/3/24: 壇ノ浦の戦い、平家滅亡
- 1185/11: 朝廷大改造; .守護・地頭の設置
- 1190/11: 右近衛大将
- 1192/7: 鎌倉幕府成立; 征夷大将軍
>Top 1. The Opening of Japanese Middle Age:
- 1177: 頼朝(31)、北条政子(21)と結婚、大姫誕生
- 1180/6: 福原遷都; 平安の都は荒廃
- "古き都を来てみれば浅茅が原とぞ荒れにける" →平安京400年への晩夏
- 1180/4: 以仁王、源頼政平家打倒の挙兵; 令旨を伝達 (壬申の乱672の古例)
- 頼朝は、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤影廉らを説得"未だ郊外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す"
- 1180/8/17: 源頼朝(34)、北条時政(40)ら、山木兼隆伊豆守目代の館を夜討、武装蜂起
- 8/23 相模国石橋。む山到着; 大場景親3千、伊東祐親3百が追尾し、頼朝軍大敗。時政の嫡男宗時討ち死。
- 大場の一族梶原景時助成、為義以来の箱根権現社別当も支援
- 真鶴半島から海路安房国へ脱出。時政は、甲斐で蜂起した甲斐源氏武田信義と合流し、駿河を侵攻 (鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧。頼朝群も 黄瀬川(きせ)に到着。 (奥州平泉から駆けつけた源義経との兄弟対面)富士川の戦い
1. 日本中世の開幕:
- 清和源氏の嫡流、源義朝の遺児;清盛の継母池の禅尼に助命;蛭ヶ小島に配流
- 伊豆は遠流地;流人生活もかなりの自由度
- 伊東祐親の娘八重との間の千鶴丸は殺害される。
- 頼朝(29)、伊豆山走湯権現へ逃げ込む
- 怪僧文覚上人も配流; 頼朝に謀反を説く
- 後白河法王:
- 知行国: 守・介・掾・目(さかん)
- 伊豆知行国主:源頼政敗死→平時忠(山木兼隆を目代に抜擢)
- 国府政庁
- 税所; 公文書; 調所; 検非違所; 細工所; 御厩別当
>Top 2. Eastern countires in Japan:
- 関東平野; 富士山、那須火山による関東ローム層+利根川など大河
- 縄文文化の先進地域; 西から弥生文化(稲作+金属器)流入
- 利根川(坂東太郎)+荒川; 渡良瀬川(大井川)は東京湾へそそき、広大な湿地帯を形成。17Cの流路変更
- 関東平野の開発: 山寄りから。
- 毛野国(けぬ)→上毛野(上野こうずけ)・下毛野(下野しもつけ)
→武蔵国も東山道の一国
- 下総・上総も京都からの距離の順 (船で東京湾横断)
- 北端は常陸国。その先は道の奥(みちのく」)
- 開拓事業こそが武士団 (=開拓農民→館・堀・耕地造成・堤防・用水確保) を成長; 国府政庁の権威
- 別符の名→別名 (符=徴税令書)→大名・小名→別府
- 関東平野は馬の産地; 別当=現地管理人(庄司・下司)
- 律令制度原則: 国ー群ー郷;
- →東西南北に細分→北条・中条・南条
- 郷戸 (50戸)→郡司・郷司 (徴税単位; 免税+足し前)
- 庄園; 大貴族・社寺所有; 中央では知行国
- 保; 役所保有→公領・国衙領
- 庄園の寄進:
- 名義上の所有者 (本所) に寄進すると庄司・下司・地頭という現地管理人になる。代々相続可。上納する年貢高も減少。
- 但し、本所の権力変遷リスクがある→中央政局動向
- 特に、中央政府の了解なしの寄進の場合
- 国衙領と庄園とは半々位→変遷や取消もある
- 武家の棟梁: 源家の義朝は南関東武士団を結集し、保元の乱(1156)で勝利するも、平治の乱(1159)で敗北→平氏全盛時代
- 東国の武士: ”国には目代に従い、荘には預所に仕へて、公事雑役にかり立てられ夜も昼も安き事なし”(源平盛衰記)
- 関東武士団
- 武士の館 (堀の内)
- 母屋は板敷き; 夜は大幕を張る
- 遠侍の家; 家人・郎党
- 門田: 館主人の田; 厩の猿
- 武芸: 当時は騎馬戦が主体; 流鏑馬、笠懸、犬追物; 狩猟 (鹿・猪・狐・猿)
- 館・屋敷周辺; 扇ガ谷、亀ガ谷 (細い谷)
- 出挙; 種籾の貸し出し(利息付きで返済); 夫役
2. 東の国々:
- 東国を征服; 屯倉、部民、防人へ徴用; 蝦夷征服の兵站基地
- 蝦夷住民(東夷)も移民団; 東国では武器回収なし
-
- 土肥実平 (湯河原);
- 三浦一族 (三浦半島〜安房・上総) : 三浦介義明89; 衣笠城;岡崎 (伊勢原)
- 上総介広常; 兄弟の金田・天羽
- 手賀沼北; 千葉介常胤; 伊勢神宮の相馬御厨の下司
- 常陸大掾; 霞ヶ浦
- 常陸北; 佐竹 常陸北端; 八田
- 日光; .宇都宮
- 下野国府近辺; .小山 (藤原秀郷直系・押領使・御厩別当)
- 下野西端; 足利
- 下総; 下河辺
- 武蔵; 大河戸
- 上野; 新田
- 敵将: .大場景親 (相模川)
- 中小武士団 (武蔵七党); 横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹、私市、綴
- 秩父; 畠山、河越、江戸、小山田、稲毛、葛西
>Top 3. Birth of Load Kamakura Load:
- 1180: 石橋山の合戦に破れたのち、箱根山から土肥実平に支援で真鶴から海路の安房国に現れ、三浦氏と合流。
- (祖父頼義以来の所領も多い) 下総の千葉介常胤、その後上総介広常も合流。頼朝軍は27千騎に拡大。
- 千葉介広常に対し、頼朝は"以後そなたを父と思うぞ"
- 大庭景親側だった畠山重忠以下川越・江戸などの豪族も参加
- 1180/10には、大軍が鎌倉入り。石橋山敗戦から40日余後
- 関東武士団の潜在的な不満あり、武家の棟梁・貴種再興への期待大
- 頼朝は、先代義朝の遺児・年長・正妻出+以仁王の令旨を活用
- 1180/5 以仁王・源頼政挙兵、6月福原遷都、日照り・台風・洪水・大飢饉(方丈記の記述)、8月熊野山権別当湛増の謀反、さらに8月頼朝挙兵の一連の騒擾下にあった。
- 9/22: 福原出陣: 総大将平維盛、参謀長忠清の意見対立などで東征軍の行動が遅れ士気も低い。
- 平家方は、頼朝挙兵は、かつての平将門謀反と同一視
- 維盛東征軍は、信濃で木曽義仲、甲斐富士山麓では武田信義・安田義定の抵抗に合う。
- 10/17: 維盛軍は、甲斐源氏の使者を殺害 "追討軍としてわざわざご下向くださり... ひとつ富士山麓、浮島ヶ原で双方お目にかかりたい。
- 10/18: 東征軍は約4千 (実質2千以下)。甲斐源氏一党は4万。参謀長忠清は富士川の陣からの撤退を覚悟。頼朝はまだ反乱軍の一将軍。
- 浮島辺りの沼沢から数万羽の水鳥が飛び立ち、夜襲を勘違いし潰走
- 頼朝軍としては、この東征軍が伊豆の伊東祐親、相模の大庭景親を連携すれば別の展開はあり得た。
- 1180/10/18: 富士川の一戦以降:
- 10/27 頼朝は直ちに追撃しようとしたが、千葉輔常胤、三浦介義澄らは東国の地固めを進言。降参してきた大場景親も処分を含め論功行賞。
- 常陸国佐竹氏を決然と討伐し、論功行賞。
3. 鎌倉殿の誕生:
- 12/12: 鎌倉の館が完成し、移転の儀式
- 侍所別当の設置: 三浦介義澄の甥和田義盛: 記録の開始 (吾妻鏡の始まり)
- 鎌倉殿の体制確立:
- 関東武士団の湯力豪族層が頼朝を支えた。
- 義澄は三浦介、下河辺行平は庄司を任命
(東国政権の誕生); 本領安堵、新恩給与
- 調停では1181治承5を養和元年、翌年には寿永元年に改元するが、頼朝は治承5年6年を継続。
- 見参の礼→家人 (御家人=将軍の直参)の成立
- 大名、旗本の区別はなし
- 御家人となると、国衙領、庄園を問わず所有権安堵。その代償として忠節と奉公 (侍所への出仕)
- 侍所は、豪族の地位保証、国内の治安維持、御家人の指揮権→のちの守護の原型
- 各国の国府政庁の役割は大きい。道路交通網、倉庫群、番匠 (大工)、鍛冶屋、紙漉き、織手職人は国府に直属。土地台帳等も国府が保管。実務担当の役人も数十人。食料・種籾の貸付。
- 後年の奥州藤原氏征伐後も陸奥・出羽の土地台帳の復活、国府を掌握。
- 一方、頼朝も富士川の一戦以降、一時、すぐにも西上する勢いだったが、鎌倉に戻り堅実な東国地固をしたことの見通しは正しかった。
- 頼朝の慎重戦略:
- 上総介広常、義仲、甲斐源氏、信濃源氏を粛清する一方で、平氏一門に対しては慎重。
- 国の追討使、押領使、総追捕使を通じ、地方当時機関を支配下に取り込む。→国内の国衙領・庄園からの兵糧米を徴収。一方で武士たちの所領安堵して御家人を組織化。 (東国経営の全国版)
- 鎌倉殿「勧農使」: 倉庫に備蓄していた食糧・種籾の貸与、耕作の割当、年貢率の決定。→各庄園や郷の「地頭」として配置
- さらに武蔵・駿河・三河三国の知行主に就任。
>Top 4. Growth of Politician Yoritomo:
- 1181(治承5) 新たな年:
- 1180暮: 平氏は福原に見切りをつけ、旧平安京への遷都を決定。さらに清盛は南都焼討を決行
- 源行家 (頼朝の叔父) 、東海道各地で内乱を起こす。
- 1181/1 高倉上皇 (安徳天皇の父)病死
- 1181/2/4: 清盛病死: 平家一門の衰退始まる。後白河法皇存在感増す。
- 1181/3: 平氏、尾張の墨俣川の一戦で、源行家軍を撃破
- 1181/6: 木曽義仲・甲斐源氏連合軍が勝利→北陸諸国は義仲の勢力下
- 頼朝新政権の確立:
- 東国新政権の基盤拡充に専念
- 上野の新田氏臣従させ、下野足利氏は滅亡。
- 1180年黄瀬川の再開以降、異母弟義経22、敵将梶原景時出仕
- 1182 (治承6) 頼家誕生: 鶴岡八幡宮から由比ヶ浜への段葛は、政子への安産祈祷
- 1183 志田義広 (頼朝の叔父) ;常陸・下野・上野を支配し、頼朝と対峙; 下野の小山氏の奇策で頼朝が打ち破る。→関東一帯の支配権確立。
- 1180以降、木曽義仲は、信濃中心に、越後・越前を勢力範囲。義広が敗走して合流 →頼朝、義仲、甲斐源氏の三者間緊張
- 義仲・頼朝和議: 木曽義仲の長短清水冠者義高11を、頼朝の長女大姫6と結婚
- 1183 木曽義仲奮戦:
- 平維盛 北陸道へ10万の大軍で義仲を追討し、越中まで進軍。
- 5/11 越中と加賀の境倶利伽羅峠の夜戦で、義仲・行家軍が勝利。
- 木曽義仲は北から、行家は南から、甲斐源氏安田義定、摂津源氏も加え京都へ殺到。
- 平家一門は、安徳天皇6と三種の神器を奉じて六波羅の館から退却 (平家の都落ち)
- 後白河方法: 逐電して同行せず。平家一門の官位剥奪、所領500余箇所没収し義仲・行家へ分与。平氏追討の宣旨。頼朝の上京を促す。"頼朝第一、義仲第二、行家第三" を宣言。
- 義仲軍、京都での略奪・暴行等で統制力を欠く。
- 法皇は、北陸宮を避け、安徳天皇の後、その弟の四宮4を三種の神器なしで皇位につけた (後鳥羽天皇)
- 一方の行家40は、畿内に育ち弁舌も立ち、貴族に取り入る。
- 一方、義仲は法王の命令で、やむなく平氏追討に立つも、瀬戸内海水軍を握る西海の戦いに苦戦。
- 1183/10: 頼朝は、上京延期と同時に、東海・東山・北陸三道の国衙領・庄園は元の国司に返還すべしとの意見→京都での頼朝の評判UP (十月宣旨)
4. 政治家頼朝の成長:
- 頼朝の文官育成:
- 頼朝は、京都下りの知識人、下級完了を幕僚に採用。 (関東節は無筆文盲に近かった。)
- 義経とともに京都攻撃軍の指揮官の中原親能も頼朝の外交代表取締役の役割。
- 大江広元、三善康信も下級公家出身。大江広元は頼朝の知恵袋を言われた。・
- 1184/10: 公文書設立: 大江広元長官; <貴族の家政事務を司る役所
- 問註所設立: 三善康信が長官。訴訟事件の審理、調査
- 源氏系図
- 1183 (寿永2) 十月宣旨:
- -上京を促す法王に対し、頼朝は陸奥の脅威と畿内の飢饉を理由に上京延期を願い、同時に「東海・東山・北陸三道の国衙領・庄園を元の国司・本所に返還せよ」との勅令発布を要請した。
- 法王は、頼朝提案に対し、義仲をはばかり北陸道を除外した十月宣旨を公布した。同時に、頼朝の勅勘を解除し、従五位下の位に復帰。
- これは頼朝の譲歩というより、宣旨の後半「もしこれに従わぬものがあれば、頼朝に連絡して命令を実行させよ」という東海・東山両道の頼朝一任にある。
- 頼朝は、早速、義経、中原親能(ちかよし)を京都に派遣。
- 1183/11: 義仲は、法王以下の立て籠もる法住寺殿を焼き討ち、自ら征夷大将軍を名乗ったが、行家を含め反義仲の兵をあげた。北陸に落ち延びる途中、近江粟津野で殺害される。31歳
>Top 5. Eastern & Western Samurai Groups:
- 1184 (寿永3=元暦1)
- 1183/1: 頼朝に、正式に平氏追討、平氏一族の500余ヶ所支配の勅命。
- この間、平氏は瀬戸内海一帯など抑え、大輪田泊に上陸し福原も回復。頼朝軍も楽観できない状況となった。
- 1183/2/6: 福原での清盛三年忌の法要に、法王からの文書到着。武力行動を伴わない和平を勧める。
- 1183/2/7: 一の谷の合戦:
- 翌早朝より源氏軍曹奇襲攻撃開始。東かあ範頼、西から安田義定、北山から鵯越の逆落としで義経軍が殺到。平家側は、大将通盛、忠度、経俊、少年敦盛戦死、重衡捕虜。平家軍死者千余人と一門の1/4以上が戦死。沖合の安徳天皇、宗盛らは屋島へ落ち延びた。
- 宗盛は、法王に対して、「休戦命令守られなかったこと、法王の奇謀への不審」を書き送った。頼朝も法王の権謀の片鱗を再認識した。
- 1183/12: 頼朝は、梶原景時に命じて、上総介広常を双六の最中に殺害。後年、法王に対し、「天皇への謀反心」を理由に殺害したことを報告。天皇への不服従=頼朝への不服従と同一視。甲斐源氏の一条忠頼も信濃源氏の井上光盛も暗殺。一方で、頼朝は平氏一族への追撃を急がなかった。
- 義経の行動
- 源範頼以下鎌倉武士は帰東。
- 1184/6: 頼朝の推挙によって範頼ら国司に推挙 (義経にはなし)
- 1184/8/6: 三日平氏の乱。伊賀・伊勢に潜伏中の平信兼ら残党の蜂起事件。頼朝、義経に平信兼の捜索を命じる。
- 1184/8/6: 後白河法王、義経を左衛門少尉・検非違使に任じる。
- 1184/9: 範頼、総指揮官として山陽道を西進。3万騎。
- 1185/1に長門到着。侍所別当の和田義盛以下は帰東を要請。頼朝は、義経を平氏追討指揮官に再起用。
- 義経、熊野別当湛増(熊野水軍)、伊予河野通信(河野水軍)など水軍840艘を味方にして制海権を掌握。
- 軍議では、軍監梶原景時が先陣を望んだが、義経は自ら先陣に立つと主張。景時は「大将が先陣など聞いたことがない。将の器ではない。」と反論。後日の梶原景時の讒言。
- 1185/2/19早朝、義経軍陸上側から屋島を奇襲。平家軍は海上からの防御をしており、不意をつかれ海上に敗走。
- 1185/3/24: 壇ノ浦の戦い
- 範頼軍 3万騎は、山陽道を進軍し九州に渡り、平氏軍の背後を遮断に成功 (筑前の葦屋浦の戦い)
- 関門海峡壇ノ浦で両軍が衝突。当初は平氏郵政。
- 安徳天皇、建礼門院ら平氏一門女たちも宝剣・神璽と共に入水。
- 平氏一の猛将教経は義経を道連れにと攻撃。
- 入水した建礼門院は救助され、八咫鏡と神璽は回収されたが宝剣は水没。
- 義経は、建礼門院と守貞親王などを連れて京に凱旋。後白河法王は義経とその御家人を任官。義経は平時忠 (後白河法皇側近)の娘を娶る。頼朝は激怒。
- 時忠は"一門にあらざらん者はみな人非人なるべし" <人非人=宮中で栄達できない人
- 義経は、渡部津 (淀川)出帆から壇ノ浦の戦いの勝利まで40日足らず。
- 頼朝の胸中
- 頼朝の母は由良御前(熱田神宮大宮司藤原季範の娘
- 平家滅亡の吉報は予想外
- 範頼から食糧・士気の苦戦の報告
- その2ヶ月以内に義経の手腕への疑心
- 鎌倉幕府機構図: 京都出身の下級武士(*)
-
- 評定衆
- 政所 (公文所): 大江広元*
- 問注所:三善康信原景時
*
- 侍所:小侍所
- 公事奉行人:中原親能*
- 守護人(各国)ー地頭 (郡郷庄保)
- 京都守護 (六波羅探題)
- 九州探題
- 奥州総奉行
5. 東西武士団の群像:
- 東西武士団の群像:
- 弓馬の家=武家の家。東国武士の弓は三人張・五人張(弓張りの人数)、矢は十四束・十五束 (束=手にひらの長さ)
- 当時は、騎馬戦による一騎打ち。馬上での弓術が主。
- 合戦は、まず軍使を交換し、合戦の日時場所を確定する。富士川合戦の時は甲斐源氏川使者を斬殺した。
- 鏑矢を射出し戦闘を開始する (矢合わせ)
- 当時の弓矢の飛行距離は50〜100m。追い風が有利。
- 強弓の精兵、矢つぎ早のてきき。矢数は20-30本。
- 矢数が減れば、太刀打ちの戦となる。直刀で突き中心。
- 最後は馬をぶつけて組み討ち、小刀で突き通し (鎧通し)て、断首。あはぬ敵 (釣り合わぬ相手)とは組みせず。
- 源平合戦の頃から個人戦から集団戦へ移行。
- 源氏の奇襲作戦: 山木の夜襲、一の谷の大勝、屋島の合戦もすべて奇襲。平氏側も富士川の合戦で軍使斬殺のルール違反。
- 宣旨を受けた追討戦には適用外
- 関東武士団:
- 論功行賞
- ぶんどり
- 手負い
- 先駆け
- 義経の作戦: 奇襲攻撃、瀬戸内水軍の引き入れ、非戦闘員の水腫・舵取攻撃、敵の馬の腹射撃
- 坂東武士の気概"親も撃たれよ、子も撃たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越えたたかふ候"; 狩猟時代の伝統
- 熊谷直実の出家: 平敦盛16を討ち取ってから出生; 蓮生房
- 一所懸命: 久下直光との所領争い
- 西国武士: 命優先
- 平氏追討軍: 公家に割当て徴用したかちだちの武士
- 一族以上に団結できなかった東国御家人を組織化した頼朝の役割は大きい。
- 1185/4: 頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人を処罰する命令書
- 個々の御家人の特徴・容貌まで把握
- 京下りの下級官僚の登用
- 質素倹約の気風、適材適所
- 1195/3 東大寺再建供養、大風雨の中参列
- 一方で朝廷の動きに敏感
- 地方武士の人心収攬
- 忠誠を尽くさない武士は粛清 (上総介広常など)
- 一族粛清; 義仲、行家、義経
- さらに範頼、甲斐源氏 (安田義定)も排除
- 頼朝は敗軍の将の子として流人の身から培われた冷静・忍耐・周到・交渉能力の長けた日本史上有数の政治家
- 言語的な東西日本の境界は、鎌倉時代の東国・西国とほぼ一致
>Top 6. Creation of the New Age:
- 1185/4: 兄弟対立
- 1185/2: 頼朝としては、戦時状態から平時状態への切り替えが重要。"鎌倉殿御使: 武士の狼藉呈し、一般の訴訟も裁断。
- 1185/4/15: 東国の武士で頼朝の許可なく朝廷の官職についた25名は、尾張墨俣川以東への下向を禁止。
- 1185/5 義経、宗盛らを護送して東国へ下った。義経は、失望が恨みに変わった。
- 1185/8: 頼朝は3カ国知行に加え、伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予の6カ国追加。(一時の平氏30余国には及ばない)
- 行家とも妥協: 当時は河内・和泉付近で勢力拡大。
- 奥州秀衡ともある程度同意。
- 但し、法王とその側近は敵対。
- 刺客土佐房昌俊を送って義経暗殺を企て。83騎で京の六条室町亭を襲撃 (堀川夜盗)。義経・佐藤忠信が応戦、源行家も家政。
- 腰越状:
- 1185/10/18: 頼朝追討宣旨: わずか200騎で西国を目指す。船は難破し出帆できず、軍勢も離散。
- 1185/11/1: 頼朝自身出陣。駿河黄瀬川宿が義経攻撃の本陣。(1180の黄瀬川での再開以来)
- 1185/11上旬: 義経・行家と入れ替わりに東国軍先鋒隊が入京。方法の知行国播磨国の代官追放。
- 頼朝の知行地: 1184/6 - 1186/3
6. 天下の草創:
- 源範頼: 義朝の六男、頼朝の異母弟、母は遠江池田宿の娘、甲斐源氏安田義定と協力関係。
- 1183: 志田義弘 (為義三男、頼朝の叔父) が北関東での勢力拡大と鎌倉を攻めた野木宮合戦に参加。頼朝の関東制圧完成。
- 1184/1: 木曽義仲追討3万の大将軍。義経は京都強襲。甲斐源氏の一条忠頼が義仲を破る。
- 1184/2: 一の谷の戦いでは、3万を率いて東側から生田の森正面攻撃。義経は1万を費生きて搦手西側から攻撃。範頼は配下の義経以下の武功を上げさせる役割。
- 1184/6: 三河守任じられ、1193まで支配。
- 1184/8: 九州進軍は、平氏討伐ではなく平氏を支援する西国家人の鎮圧。参加した武将は、北条義時・足利義兼・千葉常胤・三浦義澄・八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員・和田義盛・工藤祐経・天野遠景など主力武士団。頼朝は、地元節に憎まれないこと、安徳天皇・二位尼・神器の安全確保最優先。平家殲滅よりも持久戦による幸福を想定し、安徳天皇の帰還と三種の神器の返納を取引に使う構想だった。
- 1185/1: 範頼軍、豊後国への渡海に成功。平氏の後背戦力は壊滅し、彦島のみの拠点となった。
- 1184/3: 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。頼朝は、義経の専横・越権行為に激怒し、義経と対立。
- 1184/10/18: 法王より頼朝追討宣旨; 11/3 義経は九州諸国の地頭; 義経、摂津から西国への渡海船難破、頼朝追討の挙兵に失敗し、都落ち。
- 1184/11/1 頼朝、自身出陣; 駿河国黄瀬川宿が義経攻撃の本営 (かつての義経との涙の再会の場所)
- 1194/11/上旬: 法王知行地の播磨国では、法王の代官追放。倉庫群を封印。兼実の日記"大略、天下大いに乱れるべし、法王御辺の事、極めて以て不吉"
頼朝の返書 "...行家といい、義経といい、召し捕られぬ所から国々も疲弊し人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ"→守護地頭の要求につながる。
- 1189/7: 頼朝が出陣した奥州合戦に、範頼も参戦。
- 1193/8: 謀反の疑いで、伊豆国へ配流。義経のように挙兵はせず。
- 鎌倉殿御使: 武士の狼藉停止、一般人の訴訟
- 1185/8: 伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予の六カ国追加
>Top 7. The New Politics of Kamakura:
- 源九郎義経: 前半生は謎(22-31までの9年間)。頼朝は異母兄。
- 母は、皇后藤原呈子につかえた常盤御前。今若・乙若・牛若の三兄弟を生む。平治の乱の際は牛若丸は2歳。義朝にとっては9番目の子。
- 1174: 鞍馬寺を出奔し、陸奥国藤原秀衡の平泉に下る。
- 1180: 富士川の一戦の直後、駿河黄瀬川で頼朝と対面。
- 佐藤継信・忠信兄弟; 伊勢三郎能盛、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、堀弥太郎景光
- 1183/10; 京都攻撃軍の主将として西進。
- 1984/1: 範頼・義経軍は、義仲・志田義広を宇治川の戦いで撃破。3/4:敗走した義仲は粟津の戦いで戦死。
- 1184/2/7 一の谷の戦い。範頼は大軍で東から、義経は精鋭70騎と共に鵯越の逆落としの夜襲で平資盛らを撃破し、鎌倉軍の大勝。義経は、義仲追討と一の谷の戦いで歴史の表舞台に立つ。
- 1184/2〜1185/1 京都駐在軍最高指揮官 (鎌倉の京都代表);
後白河法皇の権謀術策。
- 1184/6: 朝廷の小除目; 頼朝の推挙で範頼は三河守。義経を無視。後日、義経に伊予守を与えたが、義経が検非違使を兼任に鎌倉召喚を拒んだ。
- 1184/8/6: 三日平氏の乱(伊賀・伊勢の平氏残党)を鎮圧; 検非違使・左衛門少尉。9月従五位下・大夫判官。10月昇殿
- 1184/9: 頼朝の斡旋で、河越重頼の娘(比企尼の孫娘)を正室 (郷御前)に。頼朝と対立後も、義経と逃避行。
- 1185/11/6: 静御前は、吉野山から鎌倉へ(3月)。
- 1185/4/8: 鶴岡八幡宮にて静御前の舞。
- 吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき
- しづやしづ賎のおだまきくり返し昔を今になすよしもがな
- 1185/11: 朝廷大改造:
- 高階泰経ら法王近臣、頼朝追討宣旨発布責任者12名追放
- 摂政藤原(近衛)基通に代わる九条兼実 (基通の叔父、有職故実に詳しい)"内覧"職へ。実質的に基通の辞任要求。 (平氏派の近衛家、義仲派の松殿家の排除);
- 九条兼実・藤原 (吉田)経房ら、法王批判派公家10名を議奏公卿とし、法王の行動を牽制。頼朝自身も豊後国主に。
- その他免職者の指名
- 1186/3 兼実摂政に。但し、摂関家所領は依然基通の支配下。
- 義経の行方:
- 1185/11: 静御前は捕らえられた。
- 1186/5: 行家は、和泉国の隠れ家を奇襲され殺害
- 義経は、延暦寺・興福寺・鞍馬寺・仁和寺・法王御所・藤原基通邸宅など治外法権の場所に逃亡
- 但し、佐藤忠信・伊勢能盛など義経腹心の部下何人かを逮捕殺害
- 義経の奥州下り。加賀安宅の関での富樫介の勧進帳も裏付けはないがあり得る。
- 1187秋: 義経が陸奥の秀衡を頼ったことが鎌倉・京都にも伝わる。法王からの詰問にも秀衡は黙殺。義経を庇護して頼朝への対応を準備。
- 奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡と4代100年に亘って繁栄した独立国。
- 1187/10: 秀衡病床。泰衡らに義経を主君として頼朝に対抗するよう起請文を作り遺言
- 泰衡は、頼朝の圧力に負けて、義経を自害に追い込む。
- 泰衡自身も、頼朝に責められて奥羽藤原氏4代の滅亡
- 頼朝の組織力:
- 義経の反乱当初、鎌倉方は2千余人が、奥州征伐の際は28万4千騎と吾妻鏡は記している。
- 軍事奉仕: 関東15カ国御家人対象
- 京都大番役 (朝廷警護): 3〜6ヶ月間
- 鎌倉番役 (鎌倉警護): 1ヶ月単位
- 1185/11: 諸国の在庁官人・下司など武士層に対し、御家人となることを要求; 御家人名簿作成
- 内乱終結と共に兵粮米停止。総追捕使系列に一本化 (守護人・守護奉行人; 大犯3ヶ条)
- 1197: 九州: 太宰府政庁の支配者"鎮西守護"に地頭以下武士の名簿 (図田帳)作成させる。
- "満つれば欠くる世のならい”
- 大姫: 1183 義仲との和解として子の清水義高11を人質に大姫5と婚儀 (実質は遊び友達)
- 1184/1に義仲は敗死。頼朝は義高を武蔵国入間川で殺害。大姫16は悲哀の情。
- 1194夏: 京から一条高能18が下って来たので縁談を勧めたが、大姫が固辞。
- 次に後鳥羽天皇15への入内の妙案。
- 冷静な頼朝の判断を狂わせる原因となる。
- 1195/2 上京を予定。政子・頼家・大姫も同行
- 一方で、九条兼実を冷遇化
- 1183: 平氏西走の直後、後鳥羽天皇即位の経緯
- 後白河法王の寵姫丹後局高階栄子"院の執権"として、親幕派の兼実らに対抗
- 法王との間の宣揚門院覲子内親王も寵愛深い
- 法王から譲られた長講堂領は120ヶ所の庄園の集合体。
- 源 (土御門)通親: 当初平氏に追従、その後法王派、今は丹後局と組んで兼実に対抗。
- 頼朝が接近したので、この丹後局ー通親ラインx;後鳥羽の後宮に大姫を送り込む事前運動
- すでに兼実の娘は後鳥羽の中宮なのでむしろ競争相手
- 頼朝は、兼実による国衙領へ戻した決定を覆して、丹後局の長講堂領に追加することを発表
- 数年前、大江広元を明法博士・左衛門大尉に任官 (兼実は先例がないとして反対)
- この間、兼実の娘中宮任子が皇女、通親の養女は皇子 (土御門天皇)を生んだ。
- 九条兼実の失脚:
- 頼朝の征夷大将軍辞任と、大姫入内問題を契機に、九条兼実との関係分裂。
- 後鳥羽上皇退位、通親の養女の生んだ土御門天皇即位について、頼朝は不賛成だったが、朝廷内部に代弁者がいない状況ではそれを阻止できなかった。政治家頼朝の最大の失策。
- 結果的には、1197大姫病死、1199頼朝死亡 (武士の棟梁らしからぬ落馬による死)につながる。
- 1196/11 兼実は関白を罷免、中宮任子は宮中から退出、弟慈円も天台座主の去り、九条家一門は逆境に。
- さらに通親は、兼実を流罪にしようと画策 (クーデター計画)
7. 鎌倉幕府の新政治:
- 頼朝の基本方針は、御家人武士の賞罰権限の独占
- 平家追討軍指揮官は範頼。義経は三日平氏の乱対応
- 9月武蔵国河越重頼の娘、義経の妻として京都へ派遣 (比企尼の孫娘)
- 1985/2 半年後、再度平家追討軍指揮官に任命; 屋島・壇ノ浦に勝利。少数精鋭の奇襲作戦。
- 頼朝は、義経が性急な壇ノ浦の戦いで、安徳天皇・二位尼を自害に追い込み、宝剣紛失したことで、頼朝の戦後構想を破壊する結果となった。
- 義経は、院御厩司に補任され、平時忠の娘を娶った。
- 義経は、頼朝追討の院宣を得たが、呼応する武士団はなかった。入京以来義経に協力してきた京武者たちも恩賞を与えられない義経には与しなかった。
- 義経に代わって頼朝の代官として入京したのは北条時政であり、義時が戦功を義経に奪われたことで強い敵意があった。
- 法王弁明と引退声明。同時に、義経・行家を反逆者の院宣を出す。
- 1185/11/末: 北条時政、千騎を率いて上京。守護・地頭の設置を要求。 (政治家大江広元、これを機会に諸国に守護・地頭を設置する案を献策: 義経・行家を捜索する目的で守護・地頭を任命し、兵粮米として5升/反を徴収; 大犯三か条。)
- 頼朝は、"日本国総追捕使・総地頭"なり、全国の政治支配機構を一手に握る実力者となる。
→"なく子と地頭には勝てぬ"
- 吾妻鏡: 1180/4〜1266の86年間の幕府の公式記録; 北条執権時代の成立 (各種資料、貴族の日記、軍記物語を参考に編纂。
- 右大臣九条兼実の日記"玉葉"; 法王との交渉、、世情の風聞など筆まめに書かれた日記
- 守護・地頭のイメージ
- 日本国総追捕使・総地頭としての頼朝の地位: 国府の在庁官人、郡・郷・庄・保の地頭・下司・押領使を指揮命令した政治支配機構
- 但し、奥州藤原氏の勢力圏は別。
- 西日本は、平家の旧領 (500余ヶ所)と反頼朝派の所領。
- 奥州藤原氏系図
- 臨終に臨んだ秀衡は、泰衡・国衡、また義経からも起請文を取り、義経を主君として団結して頼朝を討つように遺言
- すでに彼の死後北方王国の瓦解を予期していた。
- 頼朝は、義経が反幕府派お貴族と結んでの蜂起の可能性もなく、また秀衡後の不和反目は好機と見た。
- 義経の身柄を差し出せば恩賞を与えると泰衡を誘惑した。
- 1189/4 泰衡は、義経の館を急襲して自害させ、その首を鎌倉い送った。
- 1189/7/19 総勢28万4千騎で、奥州征伐を決行。
- 1189/8/22 平泉到着。
- 泰衡滅亡後、泰衡の平泉の館で消失した基本帳簿の発見・復元
- 朝廷は、7/19に訴求して泰衡追討の宣旨を届ける
- 陸奥・出羽両国の郡・郷・庄園を御家人に恩賞として分与し、国府以下地方機関は全て元通りとせよとの命令。陸奥出羽は幕府の直轄地
- 頼朝の上洛:
- 1190/10 頼朝、精兵千騎を引き連れ鎌倉出発。11月に都入り。先頭は畠山重忠
- 頼朝は、後白河法王、後鳥羽天皇に謁見。法王とは長時間会談しえ征夷大将軍を希望したが、右近衛大将・権大納言に任命
- 12/1に拝賀の儀式を行ったが12/4には両方とも辞職。
- 摂政九条兼実と面会し、"法王御万歳 (=法王の死)の後に天下の政を正す"と伝えた。
- "待つことを知る"政治家頼朝は、急がず、兼実との連携を蜜に、専ら"法王御万歳の後"を期する策に出た。
- 後白河天皇・法王: 1127-1192/4/26
- 鳥羽天皇第四皇子、異母弟近衛天皇の休止により第77代天皇(1155-58)、譲位後34年間院政を行い、保元・平治の乱、治承・寿永の乱 (以仁王の許定)、二条天皇・清盛・義仲の対立の中で復権を果たし、鎌倉とは軋轢と協調する。南都北嶺では厳しい対応だが、東大寺大仏再建に取り組む。今様を愛好。
- 征夷大将軍になる
- 1191/1/15 政所文書には"崎右大将家政所下文"の形式。(公文書→政所に改称)
- 1192/3 後白河法王66死す。大動乱の半世紀に亘って朝廷の頂点。奇略縦横の大立者。
- 九条兼実は、関白になり名実ともに朝廷の指導者。弟の慈円は、延暦寺天台座主。
- 1192/7: 頼朝、征夷大将軍。1194に辞任
(兼実が贈った征夷大将軍の返却は、兼実との関係に影響)
- 1197/7/14 大姫20で病死。
- 兼実以下の親幕派の凋落、通親派の後鳥羽天皇の隆盛
- さらに後鳥羽上皇、土御門天皇即位。通親は天皇の外祖父、上皇の院司"源博陸" (源氏の関白)の勢威
- 頼朝は中央貴族の末裔としての限界。地方武士による彼らのための政権が頓挫。
- 1199/1/13 頼朝53死去。前年の相模川橋供養の際の落馬が原因との説。
- 頼朝暗殺説: 平氏一門・義経・行家らの亡霊のたたりによる変死
- 頼朝から兼実への死の直前の手紙 "今年、必ず静かに上りて、世の事沙汰せんと思ひたり。万の事存じの外に候。"
- その後、徳川氏は清和源氏の嫡流を主張し、薩摩の島津忠久は頼朝の落胤と称す。
>Top 8. Reform of the Aristcratic Culture:
- 東大寺再建:
- 1180: 東大寺を含む南都の諸寺は、平重衡の焼き討ちで一塵の灰と帰した。
- 重衡は、南都焼討ちから三年後に一の谷の合戦で捕虜となり、法然の教導を得た。東に下り頼朝との対面後、南都の手に渡され、極悪非道の仏敵として斬首。
- 九条兼実は、藤原氏の氏寺である興福寺焼失について"悲しみは父母を失うより大きい"と玉葉日記に綴った。
- 俊乗房重源、東大寺勧進職に任じられる。重源は、渡宋三度、その間、仏教遺跡、名刹の他実際的な技術を学ぶ。宋から来た仏工陳和卿が大仏を鋳造。源平兵乱の最中、着工5年目の1185/8/28に大仏開眼供養を後白河法王が実施。 (戦国時代に再び大仏頭部を喪失)
- 勧進聖重源は、奈良時代の行基に似た民衆済度の聖
- 東大寺伽藍の建設には、重源が部品を規格化するなどの方法で活躍。周防国から巨木を運搬。
- 1195/3/12 東大寺落慶供養。後鳥羽天皇、頼朝・政子も参列。
- 東大寺南大門仁王像: 東方像を運慶と備中法橋、西方像を快慶と越後法橋が担当し、わずか2ヶ月で完成。 (木寄法)
- 頼朝は、天平彫刻を範とし、宋の美術を理解する写実的な奈良仏師を重用。 (京都物資は、貴族の嗜好に合わせた絵画的な美意識)
- 運慶は力強く武士的、快慶は流麗な庶民風。
8. 貴族文化の革新:
- 1186/8/15: 頼朝、西行 (生得の歌人)と出会う。
- 鶴岡八幡宮の鳥居のあたり。西行の歌
- 年長けて又超ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
- さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里
- 死出の山こゆる絶え間はあらじかし亡くなる人の数続きつ
- 法然の教え:
- 比叡山での貴族的な仏教から (8万4千もある仏教の教えからただ一つ)称名念仏 (南無阿弥陀仏)のみを選択して民衆に解放。 (選択本願念仏集=選択集)
- だれでも行えるものは正行、仏像作りや戒律などだれにでもできないことは雑行として、正行を選択する。
- 法然の教えには、九条兼実のような貴族、熊谷直実のような武士にも広がっていった。
- 栄西の教え:
- 1191: 栄西は、宋に学ぶこと5年、臨在禅を受け帰国。旧仏教との対立を避け、鎌倉にて寿福寺住持、その後京都の建仁寺を叡山の末寺とし、天台・真言・禅の三宗の道場を建てた。
>Top 9. Tragedy of Generals:
- 二代将軍源頼家18。頼朝の鎌倉入り三年目に誕生した嫡男御曹司。武芸の達人。
- 頼家の専横:
- 近習5明以外は目通りせず
- 源氏・北条一族を呼び捨て
- 頼朝以来の恩賞地500町以上は没収; 大江広元大反対
- 土地の境界争いでの独断線引で決済 (墨引の絵図);
- 所領支配権の保護と、公正な裁決が頼朝以来の基盤
- 何のための幕府・鎌倉殿かとの大きな不満
- 梶原景時侍所長官の粛清事件
- 景時は、東国武士たちは政策決定の場から疎外された一の郎党 (石橋山の合戦以降)
- 三浦義澄と和田義盛が中心になって66名の景時糾弾の署名を大江広元に届けた。糾弾趣意書すら公事奉行人の中原仲業に依頼しなければならないほど御家人武士の文化レベルがわかる。
- 景時は何の弁明もせず所領の相模国一宮へ立て籠る。
1200/1 京へ西上の途中、駿河国清見関近くで殺害。
- 景時糾弾の糸口を作ったのは政子の妹阿波局 (千幡=実朝の乳母)→実態は、時政が、実朝擁立をかぎつけた景時に対し先手を打って追い落としを図った。
- 頼家にとって、最も有能な部下景時を見殺しにした大失策
- 御家人グループは、横の連携を図って頼家独裁に対抗。その中心に時政がいた。
- 1196: 策士源通親におクーデターにより九条家一門の追放。親幕派武士の捕縛追放。荒法師文覚も佐渡へ流罪。
- 幕府側の対応:頼家の手腕に不安を感じた老臣と政子は、13人の御家人合議制を決めた。
- 頼家に迫る陰謀:
- 1203: 頼朝の弟阿野全成が謀反の咎で殺される。全成の妻は時政の娘で実朝の乳母阿波局。
- 頼家が阿波局を逮捕しようとしたが政子は身柄引き渡しに応ぜす
- 1203/8 頼家危篤状態。頼家の後は長男一幡6が関東28ヶ国、弟実朝12が関西38ヶ国の総地頭に譲ることになった。頼家派の比企能員はこれに抗議。
- 1203/9/2 比企能因一族は、一幡を含め、時政に攻撃され殺害
- 1203/9: 頼家は鎌倉殿の地位を追われ、実朝がこれに変わった。頼家は伊豆に護送され、修善寺に幽閉。翌1204/7 修善寺で没23
- かつての頼家の独裁政治が、幕府成立の機動力となった東国武士の期待を踏みにじった結果と言える。
- 時政66は、幕府中枢として一人署名の"下知状"で、御家人の所領安堵など政務を行った。
- 時政は、牧の方の娘婿で頼朝の養子となっていた平賀朝雅を鎌倉殿に立てようとした。
- 政子・義時は、この時政・牧の方の陰謀を、三浦義村とともにクーデターを起こし、時政を追放・出家、京都守護平賀朝雅を殺害した。
- 1215時政78で死亡。
- 三浦氏系図:
- 北条義時の手腕:
- 和田合戦: 三浦一族の和田義盛は実力者 (侍所別当); 直情怪行・愚直
- 1213 頼家の遺児を担いでの陰謀容疑で、義盛の甥の胤義逮捕し、陸奥国に配流。屋敷地も没収。
- 1213/5/2 義時は、三浦義村と図って胤義を排除。
- 義時は、義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼任して、頼朝の死後十数年で、重要な政務機関を独占。北条氏の幕府指導者としての地位がほぼ固まった。
- 北条執権政治が成立時期:
- 1203: 比企氏滅亡。時政が頼家を幽閉し、政所別当。下知状似一人署名。
- 1205: 義時が、時政を追放し、政所別当就任。
- 1213: 義時、和田合戦に勝利し、侍所別当を兼務。
- 1219: 実朝の死後、藤原摂関家より将軍を迎える。
9. 悲劇の将軍たち:
-
比企氏と源氏
- 北条時政人物像:
- 北条氏は、桓武平氏平貞盛の曾孫直系直方の子孫とされるが、時政以前の世系が疑点が多い。
- 時政以前の分家がない。東国有力武士団は、三浦・千葉・小山・秩父など有力な一族を各地に分派
- 40過ぎの時政は北条四郎と名乗るだけで介・官位なし。
- 伊豆において中流クラスの存在
- 但し、後際牧の方は、平頼盛に仕えた下級官吏の娘。頼盛は、清盛の継母池禅尼の実子で、池禅尼は頼朝の助命を進言。その関係から平氏一族と別れ頼朝派を全う。
- 時政は、流人頼朝に賭け、時勢の変転を察知した人物
- 一方で、意のままになる実朝を立てようと画策。その前にご家人の恨みの的だった梶原景時排除に動く。
- 景時追い落とし後、時政は遠江守に任命。
- 1193/5: 曽我兄弟の仇討ち事件: 日本三大仇討ちの一つ
- 工藤祐経は、元義父の伊東祐親に所領相続で不満を懐き、祐経に嫁いだ祐親の娘万劫御前と離縁させられた。祐経は郎党の放った矢で、祐親の嫡男河津祐泰が死ぬ。助安の兄弟曽我十郎祐成と五郎時致は工藤祐経を仇討ちにする。
- 時政追放後:
- 義時 は、冷徹果断、慎重な政治指導者; "心も猛く、魂優れる者"
- 政子と将軍実朝を表面に立て、大江広元ら官僚グループと密接に、御家人たちの信頼回復に努めた。一人での下知状を廃し、”頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず”の大原則を明示。
- 義時は、相模守、弟の時房は武蔵守に就任。他方、諸国守護人たちの終身在職を廃し、定期交代制を提案したが、猛反対を受け断念。
- 将軍実朝:
- 1203: 時政、少年実朝を鎌倉殿に。自らは政所別当。
- 政子は、実朝に足利義兼の娘を勧めたが、実朝が承知せず。後年の悲劇の種となった。
- 実朝は、都にあこがれ、和歌・蹴鞠に打ち込んだ。金槐集を編纂 (槐=大臣の意)
"山はさけ海はあせなむ世なりうといも君にふた心わがあらめやも"と後鳥羽上皇に忠誠
"当代は歌・鞠を以って業となし、武芸は廃するに似たり。..." (長沼宗政)
- 1216: 実朝、権中納言・左近中将
- 1218: 27歳で権大納言・左大将、ついて内大臣、12月には右大臣
- 実朝暗殺:
- 1219/1/27: 実朝28、右大臣就任の式典。雪中のあ悲劇。八幡宮別当公暁 (頼家の遺児)が実朝を暗殺。
- 公暁は、三浦義村の追手に殺害される。
- 義時が黒幕とされ、公暁をそそのかして実朝暗殺、さらに三浦義村に命じて公暁を葬った。
- 一方で、三浦義村は、実朝と義時(直前に見た源仲章に交代)を暗殺させ、公暁を将軍に立て、自ら幕府の実権を握るという陰謀説もあり得る。 (義村の妻は、公暁の乳母)
- 殺し屋はその口を封じるために殺された。
>Top 10. Achievement of the Tale of Heike:
- 1207: 法然 (俗人源文彦とされて)の四国配流。また無名の弟子だった親鸞も越後に配流 (建永の法難)
- 1206暮: 法然門弟の安楽・住蓮が念仏の会を開き、後鳥羽院の女房数人が密かに参加。後鳥羽上皇は、不義密通を理由に、安楽・住蓮を死罪に、法然の流罪を含め念仏宗一派を処断した。
- 背後に、叡山の天台座主ら旧仏教勢力は、専修念仏を禁止し、法然教団を圧迫する意図があった。
- 法然教団を "無知不善の輩"として、専修念仏は、念仏以外の宗教を否定し悪人でも成仏することで戒律や道徳を軽視するとした。
- 旧仏教界は、常に国家と結びつき、王法即仏法、鎮護国家を押し立て、そこから離脱した民衆仏教を圧迫した。
- 1211/1/25 法然は都へ帰ることが許された翌年に東山で80歳にて没。
- 蓮如は歎異抄において、"興福寺が敵意をもって後鳥羽上皇に讒言し、法然の弟子を無実の噂に処断した"と記した。
- 1205: 新古今和歌集の編纂。源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経の五人が選者。
- 後鳥羽上皇は、承久の乱後も、隠岐でなお改訂を続けた。
- 貴族社会全体の没落の中で、現世で満たされない欲求を和歌の道を天職として絶対視し、仏教教理によって歌論を展開する。 (中流の專門歌人登場)
10. 平家物語の達成:
- 藤原定家: 25-35歳まで、九条家の家司 (けいし) 80歳の長寿で1241没
- ’定家は、專門の歌作り; 女の身になって歌; 名詞止めの技法で余韻を残す歌が多い。
"帰るさのものとや人の眺むらむ待つ夜ながらの有明の月"
"春の夜の夢の浮橋とだけして嶺にわかるる横雲の空"
- 小倉百人一首の選者。もう一人は宇都宮頼綱 (出家後蓮生)。宇都宮家は関東でも和歌・仏教に理解が深い。
- 鎌倉幕府が確立し、安定した反面で、そこから脱落した武士の中から多くの世捨て人が出る。
- 鴨長明: 賀茂神社の禰宜の家に生まれる。46歳の時、後鳥羽上皇に見出され和歌所の寄人となった。
- 1212/3/晦日: 方丈記執筆。和語の用法を確立。
- 平家物語:
- 作者は、学問・芸能の才もあった下級貴族の信濃前司行長。
- 同時に、盲目の琵琶法師生仏 (東国生まれ)も、行長に伝えて書かせた。作者と聞き手が、語り手を通じて結びつき、無常観によっって平家の滅びを語らせた。
- 平家物語は、年代記の形式を基本とした主要人物の伝記や合戦記である共に、平家の公達の恋や風流を配している。
- 中世の俗語; "どうど落つ"、"ざぶと入る"、"よっぴいてひゃうど放つ"、"すすどし"、"さもそうず"、"じゃつ"
- 慈円 (九条兼実の弟)、和歌では多作 (数万)の人。"愚管抄"の作者。世の道理が時代に応じて変化して、歴史を動かす。摂関家、院、幕府の三政治勢力三つ巴状況。
- 末法史観や、単一の規範で組み立てるのと違い、ダイナミックな動きとして捉えられるようになった。
>Top 11. The Rebellion of Jokyu:
- 実朝暗殺の波紋:
- 1219/2/2 鎌倉の急使が、実朝暗殺の報を伝えた。
- 後鳥羽上皇の"官打ち" の企みの成功 (身分不相応な高官になると不幸になる)
- 1202: 源通親 (源の関白)の急死によって、上皇23が主流となり九条一門が復活し、通親派は一掃された。(後鳥羽院政の始まり)
- 後鳥羽上皇:
- 後鳥羽上皇は、多能多芸で稀有な天皇・有職故実にも詳しく、武芸にも秀でていた。御所焼の太刀も作り武士たちに与えた。菊の紋章もここから始まった。新古今集もほぼ自撰。熊野参詣は31回
- 一方、関東の将軍実朝は、和歌∙蹴鞠に夢中で、武芸には無関心
- 乳母の藤原兼子50は、従二位の絶大な影響力で院政の影の実力者
- 実朝暗殺後、反幕府の姿勢明確
- 実朝弔事の際に、上皇の寵姫伊賀局の摂津の所領長江・倉橋の地頭免職・廃止を要求
- 義時の弟時房は千騎を率いて (かつての時政の守護地頭要求の時のように)鳥羽上皇に対し、地頭廃止の拒絶と皇族将軍東下を要求。上皇は地頭の廃止と将軍東下を拒絶。時房は、地頭職保障を貫徹。将軍は、九条道家の子三寅2 (頼経)を将軍に迎える案で、上皇もついに許可。
- 上皇の幕府憎悪がさらに沸騰。
- 1219: 源頼政 (平氏政権下での源氏の長老)の孫源頼茂が、後鳥羽上皇配下の西面の武士に襲撃され殺害
- 上皇の反幕府秘密計画を探知したことへの先制攻撃
- 1220 慈円 (後鳥羽上皇の摂政格)は、愚管抄に"上皇がわろき男女の近臣に惑わされて倒幕計画を立てている"と諌止。
- 義時追討の宣旨:
- 1221/5/14: 畿内の武士1700騎を招集。
- 親幕派の西園寺公経・実氏父子は、直ちに逮捕・拘禁。
- 京都守護伊賀光季 (義時の義兄弟)は討ち死に
- 上皇宣旨; 義時追討と諸国の守護地頭の上皇方へ馳せ参じること
- 上皇の楽観視; "一度宣旨が出れば、開いていた花も落ち、枯れ木に花が咲く"という絶対的な宣旨の前に鎌倉幕府は瓦解する。
- 特に三浦義村への期待大。その弟胤義はすでに倒幕計画に参加。
- 尼将軍政子65:
- "皆、心を一にして承るべし。これ最期の言葉なり。故大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位といい俸禄といい、その恩既に山岳よりも高く溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。しかるに今、逆臣の讒により非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義らを討ち取りて三代将軍の遺跡を全うすべし。但し、院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし。" (吾妻鏡)
- "...今各々の申し切るべし、宣旨に随はんと思はれば、まず尼を殺して鎌倉中を焼き払ひてのち京へは参り給ふべし。" (承久記)
- 幕府の作戦:
- 当初は、箱根・足柄の関の防衛戦意見も出たが、大江広元70kらは、"防禦に専心したのでは東国武士の間にも動揺が起こる心配がある。運を天に任せ早速京都を攻撃すべき”とした。
- まず北条泰時 (義時の長子)が東海道軍大将として主従18騎で鎌倉を出発した。
- 泰時の弟朝時は北陸道の大将として進軍。鎌倉軍の総勢19万騎と吾妻鏡は記す。
- 上皇方は、宣旨の効果に期待したが、幕府軍大挙西上の報に接し混乱。美濃・尾張の境尾張川(木曽川)で幕府軍を防衛しようとした。
- 東側の大井戸(可児町)が突破されると、分散配置した京方は総崩れとなり退却。劣勢の兵力を分散配置して守勢をとった作戦の失敗。
- 上皇自ら武装して叡山の増兵の協力を求めた。しかし平生の大社寺抑制策がたたり延暦寺主流は動かず。宇治川での最後の防禦戦となった。
- 1221/6/13-14: 東軍は、宇治から強引な渡河作戦を展開。西軍は潰走。"... 坂東の兵に追い詰められる有様は、唯鷹の前の小鳥の如し。射殺し、切殺し、首をとる者若干なり。"
- 敗軍の将藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは、上皇の御所にも入れず。
- 後鳥羽上皇; たちまち義時追討の宣旨を取消し、今度の倒幕計画は謀臣たちの仕業とした。
- 乱後の処置:
- 後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ配流。土御門上皇も自ら進んで土佐へ配流。
- 九条廃帝 (仲恭天皇)在位70日で廃位。後鳥羽上皇の兄行助法親王 (後高倉院)の子 (堀河天皇)が即位。朝廷は、拘禁されていた西園寺公経中心に再編成された。
- 後鳥羽上皇下の膨大な庄園は幕府に没収、後後高倉院へ寄進 (但し、必要な時は幕府に返還する)
- 後鳥羽上皇派の公家は、坊門忠信 (実朝の妻の兄)は流罪、他は死罪。京方武士への処分はさらに厳しく多くは斬罪。
- 六波羅探題:
- 北条泰時と叔父の時房は、京都にとどまり、朝廷の監視、乱後の処理、畿内御家人の統括に当たった。 (六波羅探題)
- 京方の貴族・武士たちの所領3,000ヶ所は没収、東国武士は恩賞として地頭に任命。幕府の勢力は畿内近国に深く浸透。かつての平氏一族の旧領500余ヶ所に比べても今回の乱の成果が大きい。
- 1242:
- 四条天皇12の後任として、順徳上皇の皇子忠成王と土御門上皇の皇子邦仁王の候補に対し、朝廷の期待に反して、泰時は邦仁王を選んだ(土御門上皇は倒幕計画に不参加)
11. 承久の乱:
- 皇室領庄園の相続:
- 最高権力者の周囲には膨大な庄園が寄進された。
- "長講堂領": 庄園115、米5384石ほか
- 長講堂領は、宣陽門院 (後白河の皇女)
- 後鳥羽上皇も、皇子の六条宮を宣陽門院の養子として相続させようとした。
- "八条女院領"; 庄園221ヶ所
- 以仁王の娘が八条女院の養女となりこの所領を譲受。
- 姫宮の若死以降、一旦戻った後、後鳥羽上皇の皇女春華門院、その後は養子の順徳天皇へ譲渡。
- "七条院領"; 庄園37ヶ所は、後鳥羽院の生母の七条院に譲渡
- これらの庄園郡が後鳥羽上皇の華やかな遊楽の経済的基盤
- 地頭の存在:朝廷の不満の種。
- 東国では全部の地域、畿内・西国では若干の部分に、幕府が地頭を任命
- 実時も、御家人武士の既得権益保護については譲歩せず。
- 後鳥羽上皇の反幕府的胸中: 1208
- "奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん"
- おどろ=茨
- 二位法印尊長 (一条能保の子) の役割
- 上皇は、土御門16に代えて弟を順徳天皇に (後鳥羽院政)
- 実朝暗殺の飛報は、幕府自壊の好機
- 実朝の死後、鎌倉殿は政子が代行 (尼将軍)、義時が執権
- 阿野全成 (頼朝の弟)子が、東国支配の宣旨を理由に、駿河国で挙兵。
- 藤原将軍:
- 承久の乱後;四条天皇後
- かつては朝廷の権威の前にたじろいでいた泰時は、承久の乱後は、堂々と幕府の優位を主張している。(増鏡)
- "天皇御謀反"; 天皇はもはや絶対の支配者でなくなった。幕府こそが真の支配者・実力者となり、三上皇の配流、鎌倉の意向での天皇の廃立が起こった。
- 承久の乱首謀者:
- 土御門家 (土御門上皇)は消極派;摂関家も消極的
- 後鳥羽院政の主流派:坊門家 (七条院)と高倉家 (修明門院)
- 財政基盤は、七条院領・八条女院領
- 院近臣の二位法印尊長 (+伊賀局)
- 北面・西面の武士藤原秀康
- 畿内守護のほとんどが京方武士; 関東御家人でありながら院にも従属する二重の奉仕関係
- 源氏将軍の関係者:頼朝の妹婿一条能保の子孫が二位法印尊長・一条信能
- 頼朝の生母の実家熱田大宮司家、畿内近国守護大内惟信
- 三浦胤義 (頼朝の義理の子); 北条執権政治への不満者
- 承久の乱は、東西対立だけでなく、幕府内部の将軍独裁政治と執権政治との対立でもあった。→執権政治の確立
>Top 11b <承久の乱 - 続> (本郷和人)
- 1221/5/15 後鳥羽上皇による鎌倉幕府追討の院宣:
- "勅命に応じて右京兆 (北条義時)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請通りとする。"
- 後鳥羽上皇の敗因: 律令的発想
- 西国の守護たちをほとんど従わせることに成功
- 在京御家人の組織化
- 大内惟義: 伊賀守護・のち相模守護; 鎌倉幕府序列1の平賀義信(武蔵守護)の長男; 弟は平賀朝雅殺害後、伊勢・伊賀・駿河守護
- さらに近畿6ヶ国守護 (越前・美濃・伊勢・伊賀・丹波・摂津・尾張守護を兼ねる)
- 北陸道愛発関、東山堂不破関、東海道鈴鹿関を制する
- 大内惟信 (惟義の嫡男); 惟義は実朝暗殺後病没
- 藤原秀康: 祖父は和田義盛の弟; 叔母は大内惟義の妻;
- 下野・上総・能登・伊賀・河内・備前・淡路・若狭に国司
- 惟信と秀康が朝廷軍の中核
- 佐々木広綱 (近江・長門・石見守護)
- 佐々木経高 (阿波・淡路守護)
- 佐々木高重 (阿波守護代)
- 後藤基清 (播磨守護)
- 三浦胤義 (検非違使判官): 三浦義村の弟
- 大江親広:。大江広元の息子・義時の娘が妻
- →幕府側: 伊賀光季→殺害 : 姉妹が義時の後妻
- →西園寺公経: 4代将軍頼経の外祖父; 頼朝の妹の子が妻→幽閉される
- 朝廷軍の動員状況:
- 実際の動員数では明確な差があった。
- 幕府軍 1万数千 vs. 1,700 (主戦場は美濃以西にもかかわらず)
- 守護は、将軍から任命された役人で、任国の武士は守護の家来ではないので、動員できない。
- たまたま在京の武士だけが朝廷軍として組織された。
- 任地から京都までの移動・滞在費は自前
- 京都周辺の僧兵も、源平合戦を経た先頭集団とは太刀打ちできない。
- 朝廷軍の防衛ライン
- 木曽川沿い・大井戸渡: 大内惟信
- 木曽川沿い・摩免戸渡: 藤原秀康
- 幕府軍の膨大さに驚き慌てて防衛ラインを放棄
- 後鳥羽上皇による比叡山増兵要請
- 衆徒の乏しい戦力では、東国武士を防げない。
- 朝廷軍の最後の防衛ライン
- 近江の瀬田: 源有雅(権中納言)
- 山城の宇治: 藤原範茂(参議)
- 宇治の戦いでの動員: 約850
- その内: 死者98、負傷132
- 宇治戦線崩壊: 源有雅・藤原範茂は逃亡
- 後鳥羽上皇の義時誅殺院宣より1ヶ月で幕府軍の圧勝
- "…凡そ天下の事、今に於いてはご口入に及ばずと雖も、ご存知の趣、いかでか仰せ知らざるか。凶徒の浮言に就きて、すでにこの御沙汰に及ぶ。後悔左右に能わず。…自今伊賀は武勇を携えるの輩は召し使うべからず、また家をうけずに武芸を好む者、永く停止されるべきない…先非を悔いて仰せられるなり。"
- 武力放棄を宣言、政務にも口出しせず。
- 荘園整理:
- 後鳥羽上皇系の荘園3000箇所(平家の荘園は500箇所)の没収→新たな地頭配置
- その後650年間、武家支配が継続
- 朝廷の新サービス:
- 雑訴の興行: 土地問題の解決サービス
- 人材の抜擢: 儀式、税金計算、財産管理の実務能力
- 泰時死後(1224)、北条泰時執権
- 1226: 九条頼経第4代将軍
- 幕府による法の支配・撫民政策志向
- 1232 : 御成敗式目'
幕府側の対応
- 日本史の大転換点
- 幕府軍の対応
- 鎌倉の東国政権は、まだ西国まで力が及んでいない。
- あくまで地頭の延長での本領安堵
- 政子の演説: 実際には足立景盛が指示
- あくまで頼朝以来の土地の安堵
- 義時の選択肢
- A案: 鎌倉拠点の籠城作戦 (足柄・箱根関の防衛ライン)
- B案: 一気に京都へ進撃
- 文官・大江広元は、籠城戦では離反を招く恐れがある
- 泰時一人でも京都に向かって進撃すべき
- 三善康信・政子も積極策を支持
- 勢いのある方に乗じるのは武士の習い
- 幕府軍の進軍: 全体で約1万強
- 東海道軍: 北条時房 (義時の弟)・泰時(泰時長男)・三浦義村
- 東山道軍: 武田信光・結城朝光
- 北陸道軍: 北条朝時 (義時次男)
- 承久の乱後の戦後処理:
- 六波羅探題の設置: (北方)北条泰時と(南方)時
- 1221/7/2 後藤基清、佐々木弘綱、大江能範斬罪
- 三浦胤義は、自害
- 大江親広は行方不明
- 大内惟新は逃亡後、十年後流罪
- 貴族に対しても武士のルールを適用
- 一条信能 (参議) 斬罪
- 葉室光親 (前中納言) 斬罪
- 葉室宗行 (前権中納言) 斬罪
- 源有雅 (前権中納言) 斬罪
- 高倉範茂 (参議): 入水自殺
- 皇室処分:
- 1221/7 後鳥羽上皇: 隠岐配流
- 1221/7 順徳上皇: 佐渡配流
- 1221/10 土御門上皇(後鳥羽上皇長男): 土佐→阿波に配流(自主的)
- 1221/7 仲恭天皇 (順徳上皇長男4歳): 在位78日で廃位
- 1221/7 後堀河天皇: 即位 (後鳥羽上皇の兄守貞親王の息子)
天皇の位を幕府が決定 (日本史の転換点)
- →四条天皇12の後は、土御門上皇の息子邦仁王が後嵯峨天皇に即位
- 樹徳天皇の子である忠成王を断固拒否
- 守護配置図 (頼朝時代 1185-1199)
-
>Top 12. Establishment of Hojo Authority:
- 1224: 承久の乱から3年目: 北条泰時62急死。頼朝挙兵から45年。承久の大乱を勝ち抜いた義時は、頼朝と並ぶ鎌倉幕府最大の政治家。
- 1225夏: 宿老大江広元、政子69没;頼朝を幕府の父とすれば、政子は幕府の母。
- 北条泰時の集団政治:
- 叔父の時房を京都から呼びもどし、"両執権"となる。
- 13人の評定会議; 三浦義村、中原師員ら11人+両執権
- 三寅8を元服させ頼経として征夷大将軍
- 義時の遺領分配でも、弟妹に多く与えた。"自分は執権の身ゆえ"; →集団指導体制 (むしろ優れたリーダと指導理念・実行力が必要)
- 1232: 式目51条→貞永式目・御成敗式目
- 武士社会の習慣や慣習を"道理"として作成; "まことにさせる本文にすがりたること候はねども、ただ道理のおす所を記され候ものなり"
- "名月の出づるや五十一ヵ条" (芭蕉)
- 執権北条氏:
- 政所下文への署名は、時房没後は、泰時以下中原師員など評定衆長老七人の連署。
- 1242/6: 名執権の泰時没。叔父の時房は1240没、後任者未定泰時の弟名超朝時は、泰時の死の直前に出家。泰時の後継者争い
- 若い経時が執権に。1945から重病。
- 1244: 将軍頼経 (大殿)の辞任、子の頼嗣6の相続。
- 1246/3: 執権は弟の時頼20。その1ヶ月後に経時23病死
- 大殿頼経を押し立てて実権を握ろうとした名越、後藤・千葉の評定衆、問注所執事三善らの陰謀打破。名超光時流罪、弟時幸は自害、関係者を処分。→頼経はついに京へ送還。
- 宝治合戦: 最大の豪族三浦氏に戦いを挑み、三浦泰村以下自害に追い込む。ついで千葉秀胤も攻撃し、幕府創業以来の最大の豪族は共に滅亡。→北条氏の独占的地位確立
- 泰時は、弟重時を六波羅探題から迎えて時房死後の空席の両執権の一人とした。
- 時頼は、曽祖父義時と並ぶ優れた政治家。
- 裁判制度の改革:評定会議の下に引付といる御家人の訴訟專門機関を設置。一〜三局に別れその長官は頭人で評定衆の一人が兼任。その下に評定衆、引付衆、数人の奉行人を配した。引付衆には、将来の評定衆候補を任命。
- 1256 在職十年で30歳で出家し、執権を一族の長時に譲ったが、北鎌倉の別邸で引き続き幕政最高指導者
- 隠居政治: 得宗専制政治; (得宗=義時の別名)
- 謡曲'鉢の木"; 時頼の隠居後の諸国遍歴
- 1263 時頼37没;
- 建長寺など建立し、モンゴルの侵入を受け大陸から日本へやってきた蘭渓道隆・兀庵普寧 (ごったんふねい)など禅宗に帰依。座禅を組み端然として臨終を迎えた。
12. 北条執権政治:
- 貞永式目の内容
- 1,2条: 適用範囲: 幕府支配下の国々、少園内神社仏閣
- 3-6条: 守護・地頭の職務、幕府・朝廷・庄園本所との関係; 守護は大犯三ヶ条、地頭の年貢滞納戒め、国司・庄園本所の裁判には不干渉
- 7-8条: 幕府の裁判上の大原則; 頼朝以来政子までの御家人所領保護。但し、20年経過すればその権利は無効 (年紀法; 農場経営の実績者を正当な支配者とみなす)
- 武士社会の道理優先: 女が養子に所領を譲ることを承認 (公家は認めない); 別々の奴婢間の子は、男子は男親、女子は女親 (公家は全て女親)
- その後の基本法典:
- 多くの法令が"式目の追加"とした。
- 室町時代の基本法典、戦国時代の各地の分国法に影響
- 江戸時代以降は、教科書扱い
- 裁判の実態
- 起請文: 厳正な態度、私的感情に溺れず、権力者を恐れない
- 少数意見も共同責任を分担する。
- 一族近親の事件には、関係者は評定から退席する
- 御家人の民事訴訟は、問注所
- 鎌倉市内の民事訴訟は、政所
- 刑事事件は、侍所
- 六波羅探題は、事実調査だけで、裁決は鎌倉
- 奉行人に対し、訴状・陳状を三問三答の口頭弁論を行う
- 悪口の罪は、所領没収、春秋の農繁期には口頭弁論なし
- 奉行人が一応の結論を出し、評定会議に報告
- 事実調べでは、証文、証文の審議鑑定が重要
- 殺人ですら訴人なければ裁判なしの原則 (当事者主義)
- "悔い返し"; 一旦親が子に譲った所領も親が取り返せる; 幕府の権利より親の権利を優先; 家の内部問題には幕府は干渉しない。
- 御家人と従者との主従総論は取り上げない; 一方で、幕府と御家人間は、御家人の家の内部問題には立ち入らない。
- この時代の法体系:
- 幕府法 (その下の御家人武士の在地領主法); 公家法; 庄園本所の本所法
- 北条氏系図:
- 北条氏は、時政以来、義時(+政子)、泰時、時頼、時宗と優れた実務的政治家を輩出できたことが集団指導体制 (執権体制)を維持できた要因であろう。武力だけに頼らず、所領安堵、係争処理、旧勢力との粘り強い交渉、更には禅宗など質素倹約を旨とする文化の重視など。
>Top 13. Religeous leaders Shinran and Dogen:
- 1173: 親鸞、藤原氏末流の日野有範の子として京に生まれる。
- 9歳の時、慈円のもとで出家。その年は以仁王挙兵で、世情は騒然。戦乱と飢饉で京都は荒廃 (地獄のさまもかくやと思はるる, 方丈記)
- 29歳まで叡山で修行。親鸞は熱心な勉学で法然69に認められ、選択集の書写、法然の肖像図写を許された。
- 親鸞は妻帯し、善鸞と一女を得た。
- 法然の下での修行はわずか6年。
- 1207: 念仏は禁断され、法然は土佐に、親鸞は越後 (国府=直江津)に流された。
- 60歳を超えて東国から京へ戻ってきた。東国教団は、道場主による門徒獲得競争が激しくなり、教義的対立になった。一念と多念、無念と有念など教義的な論議。 (有念とは、乱れた心のままでおこなら散善口称の念仏。心を静めて行う定善に対する)
- 1256/5/29: 親鸞84は、教団崩壊に導く長子善鸞に義絶状を送る。
- 1262/11/28 親鸞90没。
- 道元:
- 禅宗は6Cの達磨を初祖とし、座禅によって禅定の境地を体得する。禅寺は、座禅とする僧堂、長老が起居する方丈、説法をする法堂から成る。
- 道元は、承久の乱直後に宋に渡り、帰国して見ると乱後の新シ勢力地図が固定しつつあった。叡山を始め旧仏教の新仏教に対する圧迫も激化していた。
- 帰国直後に、"普勧坐禅儀"をまとめ正しい仏法の実践を説いた。
- 道元は、正しい仏法を求めて遍歴したのに対し、親鸞は、自己の内面に目を向けて信心を極めるやりかた。
- 親鸞は、法然の"選択集"の注釈書としての "教行信証"を記す。
- 道元は54歳で没するまでの23年間を講述した"正法眼蔵"は全95間あり、日本仏教史上最も大部の書である
- 1244/9: 波多野義重の支援もあり、越前に永平寺 (当初は大仏寺)を建立。
- 1247: 鎌倉に赴き、半年滞在し、北条時頼以下に授戒。
13. 親鸞と道元:
- 歎異抄の一節:
- 親鸞は、弟子たちを同朋として扱い、教団組織、寺建立など考えなかった。弟子たちに信仰を語り、疑問を提出してともに考えることに心の充実を感じた。
- 念仏者の道場は、南無阿弥陀仏の書をかけるだけで、美しい仏像などは必要なかった。
- "本願誇り": 悪をなしても往生はさまたげられないという傾向。本願誇りは、念仏弾圧の口実となった。
- 1235: 鎌倉幕府は、専修念仏の停止を明らかにした。
- "親鸞は、弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。"
- 正法眼蔵:
- 1231/8: 道元は、"正法眼蔵弁道話"を記す。座禅をすることがそのまま悟りである。"人々はみな仏法の器なり。かならず非器なりと思ふことなかれ。依行せば必ず証を得べきなり。すでに心あれば善悪を分別しつべし。手あり足あり、合掌、歩行にかけたることあるべからず。しかあれば、仏法を行ずるには、器をえらぶべきにあらず。人界の生は、みなこれ器量なり。余の畜生等の生にてはかなふべからず。"
- "弁道話": "ただ舌を動かし、声をあぐる仏事功徳とおもへる、いとはかなし。... 口声をひまなくせる春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。"
- 孤雲懐奘 (永平寺二代目住持); "正法眼蔵随聞記"
>Top 14. The Road to East and to West:
- 東海道の発達:
- 律令国家の主要道路は山陽道。東へ下る場合は、東山道が重要視。
- 東海道下りの紀行文: "海道記"、"東関紀行", "十六夜日記 (阿仏尼)"
- 東海道: 飛脚は7日間、至急でも5日間。早馬3日間。
- "海道記": "険阻な岩のかさなりあるはざまを伝って行けば、岩に当たって砕ける浪の穂が花のように散りかかる"
- 鎌倉は三方を山に囲まれた地
- 7つの切通し: 極楽寺坂・大仏坂・化粧坂 (けわい)・小袋坂 (古福呂)・亀ケ谷境・朝比奈坂・名越坂; 防禦陣地でもある。
14. 東への旅・西への旅:
- 鎌倉七切通し:
-
Comment
- 鎌倉政権の総合評価
- 日本史上の革命期であり、日本史の骨組みを創出した非常にバイタリティのある時代:
- ♠ 構想力:
- 以仁王宣旨、源氏嫡流のブランド力活用; 個別の信頼醸成重視
- 彼我の年齢等による盛衰状況を判断して行動
- 権威(象徴)と実務(経営)のバランス;
- ♣ 生産力:
- 馬・弓の整備、流鏑馬・犬追物など平時の軍事訓練
- 食糧確保;地頭拡大による加徴米徴収
- 個人戦→集団戦への戦略展開 。公平な評価と恩賞
- 勧農・勧商業:道路港整備・座・市育成
- ♦ 政治力:
- 朝廷対策; 活用するも取り込まれず; 右大臣→辞任、征夷大将軍→辞任
- 九条兼実 (実直派)など親幕派との連携強化
- 京都下級役人 (文官)採用: 大江広元、三善康信ら重用
- 承久の乱への決断行動; 敵の中の敵、敵の中の味方区別
- 鎌倉殿13人→評定衆→貞永式目 (ルール重視);
- ♥ 組織力:
- 為義・義朝以来の東国有力御家人の組織化 (所領安堵、恩賞); 但し、先駆け・功名・恩賞狙いは行き過ぎの面あり。
- 北条氏の組織人材 (時政、義時、泰時、政子ほか)、姻戚による連携強化
- 義仲、義経、範頼の活用とその見極め。あくまで相対評価。情に流されない。
- 後白河法王、清盛、秀衡らライバルとの力関係見極め
- 東国武士、守護・地頭の逐次拡大路線 (兵糧持久戦)
- 執権政治: 政所(公文所)、問注所、侍所
- 鎌倉殿13人による合議制 [ほほひかわや あみあみなにお]
- 北条氏; 執権独占【2+1】政時義
- (尼将軍政子)
- 北条時政; 1182 平頼盛(清盛の継母池禅尼の実子。池禅尼は頼朝の助命を進言)に仕えた牧の方と再婚; 伊豆・駿河・遠江守護; ✕1205実朝殺害で孤立出家
- 北条義時; 寝所警護衆
- 有力御家人【6】比梶和八安三
- 比企能員; 信濃・上野の守護; 叔母は比企尼 (藤原秀郷妻); 娘若狭局は頼家の側室 ✕比企能員の変
- 梶原景時; 侍所所司→別当; 文筆にも優秀; 上総介広常を暗殺; 木曽義仲打ち取り報告も詳細; 播磨・美作守護 ✕1200梶原景時の変(実朝擁立を画策した時政と対立し鎌倉追放される。頼家の大失策)
- 和田義盛; 侍所別当 ✕和田合戦
- 八田知家; 常陸守護; 宇都宮宗綱四男; ✕頼家派 1203没
- 安達盛長; 三河守護; 藤原遠兼の弟; 比企尼の長女を妻; 政子を紹介、千葉常胤を説得 □梶原景時の変後病死
- 三浦義澄; 相模守護; 父三浦義明は戦死。安房国へ頼朝と脱出 □梶原景時の変後病死
- 公家出身文官【5】足三中二大
- 足立遠元; 公文所寄人; 父は藤原遠兼; 安達盛長は叔父; 坂東武士の中では文官的素養; ◻1207没
- 三善康信; 公家出身; 問注所執事; 承久の変後没
- 中原親能; 公文所寄人→政所公事奉行人・京都守護; 公家出身, 中原広季の養子, 論語・明経道; 1199頼朝の次女三幡(親能の妻の乳母)の没後出家
- 二階堂行政; 公文所寄人→政所令別当→政所執事; 公家出身; 大江広元を補佐諸事奉行人。没年不詳
- 大江広元: 公家出身; 政所別当、冷静沈着; 広島+元就; 正四位でNo.2; 1225没
Cat:HIS |
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Susumu Ishiiu (石井進) |
22125u |
Résume |
Remarks |
>Top 0. Preface:
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0. 序文:
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>Top 1. The Opening of Japanese Middle Age:
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1. 日本中世の開幕:
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>Top 2. Eastern countires in Japan:
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2. 東の国々:
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>Top 3. Birth of Load Kamakura Load:
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3. 鎌倉殿の誕生:
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>Top 4. Growth of Politician Yoritomo:
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4. 政治家頼朝の成長:
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>Top 5. Eastern & Western Samurai Groups:
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5. 東西武士団の群像:
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>Top 6. Creation of the New Age:
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6. 天下の草創:
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>Top 7. The New Politics of Kamakura:
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7. 鎌倉幕府の新政治:
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>Top 8. Reform of the Aristcratic Culture:
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8. 貴族文化の革新:
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>Top 9. Tragedy of Generals:
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9. 悲劇の将軍たち:
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>Top 10. Achievement of the Tale of Heike:
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10. 平家物語の達成:
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>Top 11. The Rebellion of Jokyu:
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11. 承久の乱:
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>Top 11b <承久の乱 - 続> (本郷和人)
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幕府側の対応
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>Top 12. Establishment of Hojo Authority:
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12. 北条執権政治:
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>Top 13. Religeous leaders Shinran and Dogen:
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13. 親鸞と道元:
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>Top 14. The Road to East and to West:
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14. 東への旅・西への旅:
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Comment |
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