| Home | Current | Archives | Links | @Theatre |
![]() |
ダイナソー
DINOSAUR
2000年アメリカ 監督ラルフ・ゾンダッグ/エリック・レイトン 脚本ジョン・ハリソン/ロバート・ネルソン・ジェイコブズ 声の出演D・B・スウィニー/アルフレ・ウッダード/ジョーン・プローライト ●82分 ブエナビスタ配給 2000年12月上旬より日劇プラザほか東宝洋画系にて公開予定 ●オフィシャル・サイト● http://www.disney.co.jp (c)Disney Enterprises,Inc. all rights reserved |
|
キツネザルが群れをなす森のなかに、あるとき、卵が落ちてきた。生まれたのは、一匹の恐竜。彼アラダーは、長老ザルの娘プリオの手で育てられ、リッパな若者に成長した。だが、彼らの平和な日々は、巨大隕石の落下と共に終わりを告げる。炎上する森を必死で脱出し、放浪の旅に出るアラダーたち。やがて恐竜の群れと合流した彼らは、「強い者だけが生き残る」をモットーにするリーダーのクローンと対立しながらユートピアをめざす。 ★★ (2000/09/11 ブエナビスタ試写室) 卵の殻越しに、まだ生まれていないアラダーが見る世界(=恐竜のシルエット)が描写されるオープニングのショットは、ひじょうに凝った作り。その卵が、羽のある恐竜(コイツの名前は何でしょう?)にさらわれたのち、山を越え、河に落ち、滝に飲み込まれそうになるところを鳥に拾われて、キツネザルのいる森にだとりつくまでのシークエンスは、実写の風景とCG合成の見事さに、「ホーッ」とため息を誘われます。とくに素晴らしいのが、鳥の見た目から描かれる俯瞰ショット。空飛ぶ視点の浮遊感を保ちつつ、大平原で草を食む恐竜たちを見下ろす映像の雄大さは、アニメにうとい私めも心奪われるものを感じました。 が、孵化した恐竜の卵をめぐって、キツネザルのプリオと父親が意見を戦わせるドラマの導入部にいたり、ガックリと拍子抜け。あらま、これは、同じディズニー・アニメの『ターザン』で、赤ん坊のターザンをめぐってゴリラ夫婦がかわした会話とそっくりじゃありませんの。その後、草食の心優しい恐竜として育てられたアラダーが、サルたちとじゃれあう絵柄なんかもデジャブ現象を誘うノリ。自分で自分をパクってどうする>ディズニー? と、ちょっくらスタジオ責任者の肩をゆすってみたくなったです。 なんて思っているうち、平和に暮らすアラダーたちの目の前に隕石が落下(なぜか原爆みたいなキノコ雲があがる)。『ディープ・インパクト』ふうの津波と、『アルマゲドン』状の火の玉が襲いかかるなか、サル一家を背に乗せて逃げるアラダーは、ゴジラのように海を渡り、放浪の旅に出ていきます。そんな彼らを付け狙うハゲタカもどきの恐竜は、『ライオン・キング』のハイエナがヒントか!? と、考えていると、ボスのクローンに率いられて大移動する恐竜たちの群れと遭遇。彼らに合流したアラダーは、「強い者だけが生き残る」と主張するクローンと対立しつつ、「お年寄りを大切に」をモットーにしつつ、知恵と勇気と優しさで、群れをピンチから救っていく。その姿は、奴隷の民を率いて紅海を渡る『十戒』のモーゼさながら。と言われて思い出すのは、ディズニーの宿敵ドリームワークスのアニメ『プリンス・オブ・エジプト』。 なんてふうに、いつかどっかで見たこと聞いたことのある素材を組み合わせて作られたようなドラマは、エキサイト感に乏しく、すっかり道徳教育映画を見せられている気分になったです。それにつけても、目ばりバッチリのキツネザルのドアップは、肉食恐竜よりよっぽどコワかったぞ。 | |
| Home | Current | Archives | Links | @Theatre |
![]() |
ダンサー・イン・ザ・ダーク
DANCER IN THE DARK
2000年デンマーク 監督・脚本ラース・フォン・トリアー 撮影ロビー・ミュラー 出演ビョーク/カトリーヌ・ドヌーブ/デヴィッド・モース/ピーター・ストーメア ●140分 松竹=アスミック・エース配給 2000年12月23日より丸の内プラゼールほか松竹系にて公開予定 ●オフィシャル・サイト● http://www.dancerinthedark.com (c)Zentropa Entertainments/Trust Films Svenska/Liberator Productions/Pain Unlimited/France 3 Cinema/Arte France Cinema all rights reserved |
|
1960年代、アメリカの片田舎。セルマ(ビョーク)は、工場で働きながらひとり息子ジーン(ブラディカ・コスティク)を育てているチェコの移民。遺伝性の病気で次第に視力を失いつつある彼女は、同じ運命をたどることになる息子の手術代を稼ごうと、内職をして金を蓄えていた。それを知った家主の警官ビル(モース)は、破産しかかっているので金を貸してくれともちかけるが、セルマは申し出を断る。困ったビルは、セルマのトレーラー・ハウスに忍び込んで金を盗んだ。その金を取り返しにビルの家に行ったセルマは、拳銃を手にしたビルともみあううち、彼を撃ってしまう。そのまま医者のもとに向かったセルマは、息子の手術費を払い、それを秘密にしたまま逮捕された。死刑を宣告されたセルマを救おうとする工場仲間のキャシー(ドヌーブ)とジェフ(ピーター・ストーメア)。だが、何があっても息子に手術を受けさせようとするセルマは、真実を語らないまま死刑台におもむく。 ★★☆ (2000/09/27 松竹試写室) ドラマ部分は手持ちカメラでドキュメンタリーふうに、ミュージカル・シーンは100台のデジタル・カメラで撮影した映像をつなぎあわせてスタイリッシュに、という混合スタイルが、斬新な趣の一作。たとえるなら、自然主義文学と幻想文学が交錯しながら一編の私小説が編み上げられていくといった感じ。 その手法は、さすがフォン・トリアーとうならずにはいられない強烈な個性を感じさせるけど、私には、『奇跡の海』と似たテイストを持つこの物語がどうしても好きになれなかった。逆にいえば、『奇跡の海』に感動した人は、文句なしに慟哭しちゃう映画だってことだが。 未見の人のために、いちおう『奇跡の海』がどんな映画か説明しておくと。ヒロインは、信仰と因習が結びついたスコットランドの寒村に住むベス。油田労働者のヤンを「神が与えてくれた男」と信じて結婚した彼女は、事故で全身麻痺の憂き目にあったヤンに「他の男と寝てそのときの模様を話せ」と言われ、苦しみながらも彼と神の言葉に従う。彼女は、自分がそうすることでヤンが回復すると信じ、教会から破門され、精神病院に入れられそうになっても、男たちと寝つづける。自分がより危険な目にあえば、それだけヤンが助かる確率が高くなる。そんな妄執にも似た思いを胸に、ベスは暴力船の男たちに身を捧げて絶命。すると危篤状態にあったヤンが奇跡的に回復、ついでに、あるはずのない教会の鐘が鳴り出すというお話。 以上の物語のうち、ヒロインが心の拠り所にする「神」を「ミュージカル」に、無償の愛を捧げる「ヤン」を「息子のジーン」に置き返ると、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の世界になるという寸法。ただし、宗教や因習が絡まず、ヒロインがキツネつき状態になって神と対話するシーンもない『ダンサー〜』のほうが、とっつきやすいことは確か。三部構成で展開する物語は、ほぼメロドラマと言ってもいいわかりやすさだ。 まず、劇の第一部では、ケナゲに生きるヒロインのセルマと、彼女を取り巻くコミュニティの温かさが描かれる。ここは、下町人情モノっぽい風情。ところが、そのコミュティの一員としてセルマを見守ってきた警官ビルが、「貧すれば貪する」の法則に従って泥棒に走ったことから、セルマによるビル殺害→逮捕という悲劇が起こる。これが、劇の第二部。第三部は、セルマの裁判から死刑にいたる展開。自分の命を犠牲にしてでも息子に目の手術を受けさせようとするセルマは、事件の真相もビルに非があったことも隠しとおしたまま、絞首刑になる運命を受け入れる。 という泣かせてみしょうホトトギスなドラマのなかで、私が顔からスーッと血の気が引くほどシラけた思いにかられたのは、第三部のなかで、刑務所へ面会に来たジェフにセルマが言うセリフを聞いたとき。「目の病気が遺伝するとわかっていたのに、なぜ息子を産んだのか?」というジェフの問いに、セルマはこう答えるのだ。「(赤ん坊を)抱きたかったから」。「おいおい、お前はそんな愚か者だったのか?」と、思わずスクリーンのビョークに問いかけちまったYAZAKI。私はてっきり、ジーンのことを、レイプかなんかされて仕方なく出来た子だと思っとったのだがね(だってこの映画のビョークって、まともにセックスする女には見えないんだもの)。つまり、セルマは、自分自身の身勝手な本能で子どもを作り、その後始末として死刑になる運命を選んだということ。でもって、そういう彼女の母性愛&自己犠牲を、「尊い、美しい」とみなす視線は、妄想愛に浸りながら男と寝まくるベスに捧げられた視線と同様、私にとっては「気色悪い」としか感じられず。バカ女や狂女を聖母と崇めちゃあかんぜよ、と、フォン・トリアーにケンカを売りたくなってしもうた。 ひょっとして、彼ってゲイなのかしらん? 「自分のために生きない女は美しい」とする視点の定め方は、『オール・アバウト・マイ・マザー』のペドロ・アルモドバルに通じる感じ。そういうマザコンのはいったオカマな女性観が、あたしゃ死ぬほど嫌いなのさ。 ただ、最初にも書いたとおり、『奇跡の海』のベスに崇高なものを感じ取った人には、この映画のセルマも同じ崇高さを持つヒロインとして映るはず。そういう人は、ハナから感動させてもらいますモードで劇場へ行って間違いないことと思う。 ずいぶんと長くなっちまいましたが、この映画をミュージカルとして見た場合の感想もひとこと付け加えさせてもらいます。映画のなかで「ファンタジー」の機能を発揮するミュージカル・シーンは、工場の機械や列車などの音から触発されるセルマの想像の世界が映像化されていく仕掛け。そこで展開するイメージは、「現実がこうなったら素敵だろう」というもので、ビルを含めたミュージカル・シーンの登場人物たちは、セルマと赦しあい癒しあう関係を構築する。そこは、過酷さに満ちた現実と違い、「ミュージカルのなかでは決して悲しいことは起こらない」というセルマの法則が通用する世界。暗闇で生きるセルマにとっては、唯一光を感じられる場所でもある。そんな現実逃避の白日夢的なノリをミュージカル・シーンに持たせたところは、ジェームズ・サーバーの原作をミュージカル化した『虹を掴む男』を連想させ、そこが私には面白く思えた。 ただ、こうしたミュージカル・シーンと、セルマがアマチュア劇団で演じる『サウンド・オブ・ミュージック』との関連性が、私にはつかめずじまい。「音楽の始まりは音」というタイトルのイメージ以外に、『サウンド・オブ・ミュージック』をモチーフに使った理由はどこにあるんだろう? と、しばしお悩みモードになりました。 ミュージカル・シーンに関して特筆すべき点がもうひとつ。裁判の場面に、なんと『キャバレー』のジョエル・グレイが登場。裁判長席のテーブルでタップを踏むお遊びが盛り込まれておるのだ(ただし、グレイの全身をフレームにおさめてくれないカメラワークには少々いらだちを感じる)。また、セルマに姉のような愛を注ぐ同僚役で出演しているカトリーヌ・ドヌーブが、工場を舞台にしたミュージカル・シーンで、『ロシュフォールの恋人たち』以来歌って踊ってを見せてくれるのも、フレンチ・ミュージカル好きを喜ばせるポイントでありましょう。 最後に、これから映画を見る人に忠告。私は、この映画を試写室の前から2列目の端っこで見たのだが、家に帰ってから強力な「めまい」に襲われてしまった。『奇跡の海』もそうだったけど、今回の揺れ動く手持ちカメラ+デジタル・カメラ攻撃は、三半規管を強烈にアタックします。ゆえに、酔いやすい人は、マジで乗り物酔いの薬を飲み、なるべくスクリーンから離れた中央の席で鑑賞するのがよろしかろうと思います。 上記のレビューに関して、2名の方から批判的なご指摘をいただきました。そのなかでちょっと誤解して受け取られている点があることを感じ、以下言い訳めいたものを記しておきます。 私がセルマを「愚か者」だと感じたのは、彼女が「目の病気が遺伝する子を産んだ」からではなく、「赤ん坊を抱きたかったら産んだ」という点に対してです。それが私には、彼女がハナから赤ん坊を自分の所有物とみなしていると感じられ、モーレツに腹がたってしまったわけであります。 大体、子供ってのは、誰かを愛し、その人と子供と自分とで人生を築き上げようという思いがあって作るものだと思いませんか? 一歩譲って、自分がほしいから子供を作るというのであっても、その子は独立した個人であり、決して「母親の命の延長線」にはなりえないと思います。 もし、「どうして子供を産んだ?」という問いに対するセルマの答えが「人生のパートナーがほしかったから」というものであったら、この映画に対する私の印象はまったく違っていたでしょう。 なんてふうに思ったのは、私がジーンの立場でこの映画を見ていたからかもしれません。もしもジーンが、母親の命と引き換えに自分の目が治ったと知ったら? 彼は一生苦しみまくるでしょう。その十字架の重さは、失明するよりもはるかに重いものです。もしかしたら目は治ることがあるかもしれないけど、母親はもうぜったいに帰ってこないのですから。 しかしながら、ここでのセルマは、そうしたジーンの気持をまったく無視してかかります。それが母の猛愛なんだと言われればそうなのかもしれませんが、私には、自分の思い込みの世界だけで思いっきり完結してしまっている(=心が盲目になっている)彼女のことが、やっぱりどうしても愚かな女にしか見えませんでした。 という、ひじょうに現実的な感想を読んだあと、この映画を非リアルな聖書の写し絵ととらえた「わにさん」のレビューをぜひお読みください。彼女の視点は、今回いろいろ読んだレビューのなかでもいちばん監督の意図をついていると思われるので、この映画にポジティブな感想を持った方もネガティブな感想を持った方も、「なるほど」と感じる部分が多々あると思います。 | |
| Home | Current | Archives | Links | @Theatre |
![]() |
リトル・ダンサー
BILLY ELLIOT
2000年イギリス 監督スティーヴン・ダルドリー 脚本リー・ホール 撮影ブライアン・トゥファーノ 出演ジェイミー・ベル/ジュリー・ウォルターズ/ゲアリー・ルイス/ジェイミー・ドラヴェン ●115分 日本ヘラルド映画配給 2001年1月下旬よりシネスイッチ銀座にて公開予定 ●オフィシャル・サイト● http://www.herald.co.jp (c)2000 Universal Studios all rights reserved |
|
1984年、炭坑労働者のストライキで揺れるダラム州の炭坑町。ビリー・エリオット(ベル)は、坑夫の父(ルイス)と兄トニー(ドラヴェン)と暮らす11歳の少年。ある日、公民館にボクシングの練習に行った彼は、成り行きでウィルキンソン夫人(ウォルターズ)のバレエ教室に参加。以来、ボクシングの代わりにバレエを習うことになる。それを父に知られ、「バレエなんか女のやること!」と猛反対をくらったビリーだが、彼の才能に気づいたウィルキンソン夫人に「ロイヤル・バレエのオーディションを受けてみないか?」と誘われ、家族に内緒で秘密の特訓を重ねる。だが、ニューカッスルで行われるオーディション当日、炭坑組合と警官隊の激しい衝突があり、トニーが逮捕されたことからビリーはオーディションに行けなくなってしまう。あきらめとくやしさが交錯するなか、親友マイケル(スチュアート・ウェルズ)と公民館で踊るビリー。その姿を見て、ビリーがバレエで将来を切り開けることに気づいた父は、ロンドンで行われる次のオーディション費用を稼ごうと、スト破りを決行する。 ★★★★ (2000/09/12 日本ヘラルド映画試写室) 最も気に入った点は、「白鳥の湖」のモチーフの使い方。マッチョな炭坑町のなかで、女々しいと人が感じるバレエ・ダンサーを志す主人公のビリーは、いわば「みにくいアヒルの子」。そんな彼が、成長した姿で登場するラスト・シーンでは、文字通り『スワン・レイク』(男性ダンサーたちが新解釈で「白鳥の湖」を踊る実在の舞台)の白鳥役となって大ジャンプを決める。という劇の構図は、『サウンド・オブ・ミュージック』を使った意味がイマイチわからない『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と違って、万人にわかりやすい仕立て。しかも、ウィルキンソン夫人の娘デビーの部屋で彼女とビリーが枕のたたきっこをする場面に、白鳥の壁紙を背景にふたりが羽まみれになる暗示的なイメージが盛り込まれていたり、ウィルキンソン夫人とビリーの乗ったケーブルカー状のフェリーが「無骨な白鳥」の風情で静静と河を渡る映像に「白鳥の湖」の曲がかぶる印象的な場面があったりと、ディテールはどこまでも芸コマ。こんなふうに神経の行き届いた映画は、あらゆる場面が心に残るんだよね。 キャラ描写もバツグンにしっかりしている。母を亡くした寂しさを「男の子だから泣かないもん」という感じで胸に秘めながら、ケナゲにバアちゃん(ちょっとボケてる)の面倒を見ているビリー。炭坑の未来を絶望視しながらも、成す術のない生き方を強いられている父親。組合活動にいれこみ、自分たちの正しさを証明しようと警官に立ち向かっていく熱血兄貴のトニー。ときにぶつかりあうことはあっても、根っこのところで強く固く結ばれている家族たちの肖像が、ここではいきいきと描写されている。 そんな生活のなかで、突如バレエの才能を開花させたビリーは、人生のなかで初めて夢中になるものを手に入れる。彼自身はまだ気がついていないけど、ビリーにとってバレエは、この炭坑町を脱出するパスポートであり、未来を切り開く鍵であり、階級の壁を越えていく強力な武器でもあるのだ。が、貧しい生活をやりくりして捻出したボクシングの練習費をビリーがバレエのレッスンに費やしているのを知った父親は、「親の苦労も知らんと、女みたいに踊りおって!」と激怒。ビリーの夢を、頭から否定してしまう。このあたりは、同じようにすたれゆく炭坑町を舞台にした『遠い空の向こうへ』とよく似ている。あの映画で、ロケット学者を目指すホーマーと炭坑一筋に生きてきた父親が、新旧の世代と産業を代表する形でぶつかりあったように、ビリーと父親も、未知のマテリアルを使って未来に飛び出そうとする者と滅び行く産業に身を置く者であるがゆえに、おたがいにわかりあえず、対立してしまうのだ。 そうした父親との葛藤から生じる怒り、自分の人生を思い通りにできないビリーのフラストレーションを、Tレックスの音楽にのせたダンス・シーンに託して描いた演出が秀逸。ロイヤル・バレエの地方オーディションに行けなくなったあと、家を訪ねてきたウィルキンソン夫人と父&兄が言い争うのに耐えられず表に飛び出したビリーは、屋外トイレの壁(=人生の壁)に怒りをぶつけ、屋根づたいにストリートへ飛び出て踊りまくる。この場面は、パワフルの極み。その後、トタンの壁に行く手を阻まれたビリーの上に、ヒラヒラと雪(これも白鳥の羽のイメージ)が舞い降りてくる……なんて描写も、これまたグッときちゃうのだ。 以上のごとく、家族に夢を認めてもらえないビリーの悔しさが大きければ大きいほど、家族が彼を応援する側にまわってからの感動は深くなる。クリスマスの日、チュチュを着たいという親友マイケル(炭坑町の隠れゲイである彼も、みにくいアヒルの子のひとり)の願いをかなえてやろうと、一緒に公民館へ行ってバレエを踊るビリー。その姿を見た父親は、ビリーの才能に気づき、彼をロンドンのオーディションに行かせる資金を稼ごうとスト破りを決行する。それを止めに来たトニーの腕のなかに倒れ込んだ父が、「あの子には未来があるんだ」と泣き崩れる場面は、劇中いちばんの泣きのツボ。これに続いて、夜中にビリーの隣のベッドで眠るトニーが、「オヤジは正しい」とポツリとつぶやくシーンなんぞも、ホロリとさせる情感に満ちている。 そんな家族と、事情を知ったコミュニティの応援を受けて、夢に一歩近づくチャンスをゲットするビリー。やがてオーディションの結果発表の手紙が届き、それが神聖なものであるかのように食卓に飾ってビリーの帰宅を待ちうけていた家族たちは、ビリーが別室で手紙を開封するのを固唾を飲んで見守る。その家族たちの表情、滲み出る掛け値なしの愛。 結果は、合格! 喜びいさんだ父親は、小躍りしながら公民館へ。が、そこに集まっていた組合の幹部たちは、ストが無駄骨になる形で終結に持ち込まれたことを、彼に伝える。ここんとこは、ブラバンの準決勝に勝って町へ凱旋した『ブラス!』のメンバーたちが、ストに負けたことを知る場面と同じ感慨が漂っている。かくして父とトニーは、炭坑の仕事へ逆戻り。かたやビリーは、ロイヤル・バレエ入学のためにロンドンへ。そんな彼と、炭坑のエレベーターに乗って地下へ潜っていく父&トニーの姿を対比的に捉えたシークエンスは、ワーキング・クラス映画ならではの切なさでいっぱいだ。 と、ほとんど映画を見る必要を感じさせないほど書き込んでしまったが、この映画の良さは、ぜひとも自分の目で確かめてほしいもの。「白鳥」にシンボライズされる夢、希望、純粋さ――それらが一丸となって作り上げられた感動は、清々しさの極みだから! | |
| Home | Current | Archives | Links | @Theatre |