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| 青い夢の女 MORTAL TRANSFER |
![]() (c)2000 Cargo Films-Odeon Pictures all rights reserved |
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2000年フランス=ドイツ 監督・脚本ジャン=ジャック・ベネックス 撮影ブノワ・デロム 出演ジャン=ユーグ・アングラード/エレーヌ・ド・フジュロール/ミキ・マノロヴィッチ/ヴァレンティナ・ソーカ ●122分 アミューズピクチャーズ=ザナドゥ配給 2001年12月よりシネスイッチ銀座ほかにて公開予定 ●オフィシャル・サイト●http://www.amuse-soft.com/ ミッシェル・デュラン(アングラード)は、パリに自宅兼オフィスを持つバツイチの精神分析医。彼の患者のひとりオルガ(フジュロール)は、盗みと性的虐待によってしかオーカズムを得られない倒錯的な人妻だった。今日も、診療室のカウチで横になりながら、夫マックスから受ける暴力の快感について話すオルガ。それを聞くうち深い眠りに引きずりこまれたミッシェルは、自分がオルガにまたがり、首を締め上げている夢を見る。やがて目覚めたミッシェルは、驚いた。本当に、オルガが死んでいたのだ。やったのは自分? との疑惑にさいなまれながら、死体をカウチの下に隠すミッシェル。翌日、彼のオフィスにはオルガの夫マックスが現れ、彼女と共に消えた70万フランを払えとミッシェルを脅す。のっぴきならない事態に巻きこまれたミッシェルは、友人のシャピロー警視と先輩の精神分析医に、事件を告白しようとするのだが……。 ★★★☆ (2001/08/10 メディアボックス試写室) と、思わず精神分析医の精神を分析してみたくなるこの映画は、ミッシェルという男が、いろいろあったすえに己の罪悪感を克服し、心の救済を得るまでを描いている。でもって、この「いろいろあった」という部分が、私にはすこぶる楽しめたので、謹んで★★★☆を進呈したいと思う。 患者オルガの告白を聞きながら淫夢の世界に引きずりこまれるミッシェル。ハッと目覚めたら、ホントにオルガが死んじゃってた。さあ、どうすべえ? となるミッシェルのアタフタぶりを見て、私がまず思い出したのは、ヒッチコックの『ハリーの災難』だ。森の中に転がっていた男の死体をめぐり、「殺したのは自分かも」と心当たりのある人間たちがモンモンと悩みながらジタバタ出入りするこの映画は、「死体をめぐるコメディ」の最高峰に位置する作品だと思う。で、『青い夢の女』の場合、モンモン&ジタバタするのはミッシェルひとり。なのだけど、そのジタバタ具合は、『ハリーの災難』に迫るほど、おかしい。 まず、死体を発見したミッシェルは、医者らしく心臓マッサージをするが、その後ろ姿をのぞき見た家政婦に、患者とセックスしてると勘違いされる。次は警察に電話……するものの、「少々お待ちください」のあとに流れる陽気なBGMに、殺人(!?)を告白する気力はすっかり失せてしまう。というところに、いきなり飛びこみの患者が現れ、死体をカウチの下へ隠すハメに。この場面で、診察中のミッシェルが、はみだした死体の手首を慌てて足で押し込めるところは、「いかにも」なヒッチコック・タッチだ。 その後も、ミッシェルが「殺しと記憶喪失」の本を読んでいるときにオルガの夫マックスが現れたり、そのマックスからオルガが70万フラン持ち逃げしたと聞かされたミッシェルがオルガの車を開けようとしてホームレスにとがめられたりと、笑える場面が続出。 最高におかしいのは、いよいよミッシェルが死体をアパートから運びだすくだり。これから見る人のために詳細は伏せるけど、ミッシェルが死体をエレベーターに乗せてから墓地に隠すまでのあいだには、盲人と死姦男を配した爆笑ギャグと、滑った転んだ系のサイト・ギャグがふんだんに散りばめられている。ここは、完全にシチュエーション・コメディのノリなんだけど、ベネックスがこれほどタイミング演出に長けた人だとは思わなかったので、その語り口の饒舌さに私は心底驚いた。 で、そんなこんなの果てにオルガ殺しの真犯人が浮かびあがってくるのだが、それが誰かはさほど重要ではなく、「消えた70万フランを、誰がどのように使うか?」のほうに、結末のポイントが置かれている。つまり、その「誰か」にも救済がもたらされるという趣向で、淫夢→死体という入り口のドロドロさ加減に比べると、後味はきわめてサッパリしてる。 その分、邦題から想像される「ファム・ファタル系のサイコ・サスペンス」を期待していると肩透かしを食うと思うが、『ハリーの災難』や『フレンジー』、はたまたコーエン兄弟のミステリーが好きな人にいは、思いっきり「拾いもの」と思えるはずだ。あくまでもブラック・コメディだと腹をくくって、楽しんでちょうだい。 | |
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アメリ
AMÉLIE
2001年フランス 監督ジャン=ピエール・ジュネ 脚本ジャン=ピエール・ジュネ/ギョーム・ローラン 撮影ブリュノ・デルボネル 出演オドレイ・トトゥ/マチュー・カソヴィッツ/リュフュス/ヨランド・モロー ●121分 アルバトロスフィルム配給 2001年11月17日よりシネマライズにて公開 ●オフィシャル・サイト● http://www.amelie-movie.com |
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22歳のアメリ(トトゥ)は、モンマルトルのカフェ「ドゥ・ムーラン」のウェイトレス。ある日、アパートの壁の割れ目に、以前の住人の宝箱を発見した彼女は、それを粋なやり方で持ち主に返してあげることを思いつく。以来、周囲の人々を今より少し幸福にするゲームに夢中になるアメリ。そんな日々のなかで出会ったのが、破り捨てられたスピード写真をコレクションしている青年ニノ(カソヴィッツ)。恋心を打ち明けることができない内気なアメリは、彼をかくれんぼゲームに誘いこむのだが……。 ★★★ (2001/09/05 映画美学校試写室) アパートの壁の割れ目にみつけた宝箱を元の持ち主に返したことをきっかけに、人を今より少し幸せにする匿名の「おせっかいゲーム」を始めたアメリ。死んだ浮気亭主に未練を残すアパートの管理人のために亭主からの「届かなかったラブレター」を代筆したり、引きこもりの病弱じいさんにビデオを届けたり、カフェの同僚の恋の取り持ちをしたり。アメリが繰り広げる「小さな親切運動」は、『ペイ・フォワード/可能の王国』や『ショコラ』をちょっと連想させるところがある。 が、そこに「押し付けがましさ」が感じられないのは、親切運動の根本に「世直し」の発想がないからだ。アメリの「おせっかいゲーム」は、あくまでも無邪気なイタズラの延長線上にあるもの。誰の目にも「微笑ましい」と映るラインを保っていて、そこに感動や涙は持ちこまれない。「他人を幸せにすれば自分も幸せになれる」という、新興宗教めいた説教臭さもナシ。 じゃあ何が持ち込まれるかというと、最初にあげた「ささやかな共感」。つまり、アメリの「おせっかいゲーム」を通じて人々が味わうワン・グレード・アップの幸福感を、観客も共有していく仕組みだ。その幸福感は、当の本人にとっては「一生の悩みが晴れた」と言えるくらいデカいものなんだけど、仕掛けるアメリ側が「今よりほんの少し幸せ」という節度を保っているため、観客には、クレームブリュレをカリカリする快感程度の日常的な大きさで伝わってくる。こういう「きわめて控え目なニュアンス」が、映画の愛らしいトーンの基盤であり、好感度の決め手にもなっているわけだ。 で、この「きわめて控え目なニュアンス」は、アメリ自身のキャラクターにも投影されている。他人の幸せのためにチョコマカと動きまわるアメリだが、自分のことになると途端に臆病になり、ニノへの恋心も打ち明けられない。幸せ配達業を匿名でやっていたのと同じく、ニノに対しても「かくれんぼゲーム」を仕掛けるだけ。そんなアメリを見ていると、思わずこっちも「ガンバレ、お前も幸せになるんだぁ」と応援したくなってくる。 その思いをいっそう強くさせるのが、アメリ役のオドレイ・トトゥ。クルンとした栗色の瞳が子リスみたいな彼女は、デビューしたてのオードリー・ヘップバーンを思わせるラブリーなルックスの持ち主。そして、『ローマの休日』がオードリーなくしては成立しえなかったのと同じように、『アメリ』も、オドレイ自身の魅力が映画の魅力と直結しているように感じさせる。「チャーミング」という一語に要約されるこの映画の彼女の輝きは、ドラマにフェアリーテイルの趣を与えている感じ。だから、きわめて予定調和的に描かれる「めでたしめでたし」な結末も、すんなりと胸におさまる。見終わったあとに残るのは、他人の幸せを素直に喜べる気持。なんてホンワリ感を味わわせてくれる映画は、考えてみれば少ないわけで、そこんところが大ヒットの要因なのでは? と考えたりもする。つまり、主張や理屈が残らず、幸福な気分だけが残るところが、映画の最大の魅力なんじゃないかな。 途中、「あれ?」と思ったのは、アメリが自分の父親に生きる希望を与えようとして、実家の庭にあった小人の置物を世界旅行させるエピソード。これとそっくりの実話(置物はカエルだったけど)を、以前TVで見た記憶がある。ってところから察すると、配達されなかったラブレターの話なんかも、実話の美談から取られているのかもね。 |
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ムッシュ・カステラの恋
LE GOÛT DES AUTRES
2000年フランス 監督アニエス・ジャウイ 脚本アニエス・ジャウイ/ジャン=ピエール・バクリ 撮影ロラン・ダイヤン 出演アンヌ・アルヴァロ/ジャン=ピエール・バクリ/アラン・ジャバ/アニエス・ジャウイ ●112分 セテラ配給 2001年12月下旬より銀座テアトルシネマにて公開予定 (c)Telema-Les Films A4-Franc 2 Cinema-2000 all rights reserved |
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カステラ氏(バクリ)は、中堅会社の社長。会社の経営はコンサルタントにまかせっぱなし、家のことは妻アンジェリックにまかせっぱなしの彼は、何の趣味も持たず平々凡々な日々を送っている。そんな彼の人生に、ある晩突然異変が起きる。つきあいで見たラシーヌの古典劇に心を動かされ、主演女優に恋をしてしまったのだ。その女優クララ(アルヴァロ)は、偶然にも、コンサルタントのすすめでいやいや始めた英語の教師だった。以来、英語のレッスンに熱心に通うようになったカステラ氏。クララの気を引きたい一心の彼は、彼女の芸術仲間とも近づきになり、クララの友人が描いた抽象画を購入する。だが、そうしたカステラ氏の行動も、クララには、俗物が背伸びをしているようにしか見えなかった。カステラ氏が、画家に壁画を発注したのを知った彼女は、会社を訪ね、「妙な気はつかわないで」とカステラ氏をいさめるのだが……。 ★★★★ (2000/03/16 日本ヘラルド映画試写室) およそ文化&教養とは無縁な俗物オヤジのカステラ氏が、芸術と恋にめざめていく姿を描く映画のテーマは、ひじょうに明確だ。いわく、「人間は変わる。だから、先入観で人を判断してはいけない」。と書くと、えらく説教臭い話のように感じるかもしれないけど、この映画では、「変われない人間」(冒頭に登場するボディガードと、マリファナの売人をサイドビジネスにするカフェの女)の悲哀を物語るエピソードも織り交ぜながら、先にあげたコミュニケーションのテーマが、ひじょうに多層的に語りあげられていく。 原題は、「LE GOUT DES AUTRES」。英語に直すと、「THE TASTE OF THE OTHERS」。日本語では、「他人の味」とか「他人の趣味」って感じになる(フランス映画祭では『他人の味』で公開された)。これに『ムッシュ・カステラの恋』というベツモノの邦題を付けたのは、「味」と訳すと「彼の頭は塩味がしますわ」という人食い方面の映画だと誤解され、「趣味」と訳すと「コスプレです」という答えが返ってくるかもしれない、という配慮があったのではないかと想像する。それはさておき、映画に即して「TASTE」の意味を考えるなら、それは「個性」という言葉に置きかえられるんじゃないかと思う。 この映画で「個性」が取り沙汰されるのは、カステラ氏を含む8人。カステラ氏は、ソファでゴロ寝が趣味みたいな俗物オヤジで、会社の経営にも身の回りのことにもトンと関心がない。その妻アンジェリックは、インテリア・デザイナー(コテコテの花柄趣味が最悪)になりたがっているが、一度も社会に出て働いたことがない人物だ。彼女は、カステラ氏の妹の新居をデザイナー気取りで模様替えしようとするが、「趣味」があわず、関係はギクシャク。いっぽう、カステラ氏は、エリート丸だしのコンサルタントから見下されているように感じていて、ふたりの関係もうまくいっていない。彼が、自分の同類だと感じているのは、外国に行った恋人の帰りを待ち続けるお人よしの運転手と、警備会社から派遣されたボディガード。この3人は「TASTE」が揃っている。 というところへ、異分子として登場するのが、英語教師兼女優のクララ。彼女の舞台を見たカステラ氏は、突如ゲージュツに開眼。プラス、恋の病にもおかされ、クララの気を引こうと英語のレッスンも頑張る。つまり、カステラ氏の中に眠っていた「学びたい」という意欲に火がついた格好。とはいえ、俗物オヤジが一夜にして洗練された紳士に生まれ変われるワケもなく(このへんは、『マイ・フェア・レディ』のパロディがちょっと入ってる感じ)、クララのゲージュツ仲間に混ざったカステラ氏は恥のかき放題(オペラの曲を、「CMの歌」と言う素直すぎる感性が笑える)。それでも、「自分にも趣味がある」ことに気づいた彼は、自分の選んだ絵を「インテリアに合わない」という理由から外したアンジェリックに対して、怒りの自己主張をするまでになる。 こうしたカステラ氏の変化(成長とも言える)と平行して描かれるのが、ボディガードとカフェのウェイトレス(監督のジャウイが演じている)の恋のエピソード。彼らは、男と女としてTASTE(ウマ)があう。が、正義感の強いボディガードには、ウェイトレスのサイドビジネス(マリファナの売人)がどうしても許せない。人間的には好きあえるのに、人生の根本的な価値観が相容れないふたり。 いっぽう、カステラ氏の変化を「迷惑」としか思えないクララは、「余計な気をつかわないで」と抗議に行くが、クララの友達の絵を「気に入ったから買った」と言うカステラ氏の切り返しを浴び、他人を色眼鏡でしか見られない自分の了見の狭さを思い知らされる。 そんなこんなの成り行きから、カステラ氏のことを「俗物オヤジ」のレッテルを取り払って見始めようとするクララ。かたやカステラ氏も、自分がコンサルタントをエリートの色眼鏡で見ていたことに気づき、会社を辞めようとする彼をひきとめる。すなわち、コンサルタントの他人を見下すようなしゃべり方は、彼の「個性」なのだから、それを受け入れようと考えるわけだ。 という具合に進行するドラマは、「他人の個性を否定しないこと」という人間関係における基本的な教訓を与えると同時に、コミュニケーションをとりあうのがどれほど難しく、どれほどの努力を必要とするかってことも、伝えている。そうなんだよね。人生長くやってればやってるほど、他人と知り合ったり、ソリの合わない人間と友になろうとする気力は薄れていく。「ハブ・ア・ナイス・ライフ」と言って、付き合いをやめてしまうほうがはるかに簡単だ。 だけど、それだからこそ、逆に気持が通い合ったときの喜びは大きく、その瞬間が貴重なものに思えてくる。このことを物語るのが、劇中ずっとフルートの練習を続けていたお人好し運転手が、オーケストラ仲間と合奏するエピローグのエピソード。オーケストラは、年齢も職業もバラバラの集まり。みんな別々の人生を歩んできた人たちだ。そんな彼らが、ひとつのハーモニーを生み出すダイナミズム。その至福の瞬間を切り取った映像を見ると、自分も人間関係の不響和音を解消する努力をしなくちゃと、考えさせられたりするわけだ。 監督のジャウイと、脚本&主演のバクリは、もともと演劇畑出身の人たち。考えてみれば、芝居もオーケストラに似たところがある。バラバラの人生を歩んできた役者たちの息が、ピタッとあったときに生まれる喜びとダイナミズム。そこに存在する「コミュニケーションの醍醐味」を、あなたも人生のなかで味わってほしい。そんな思いから、おそらく彼らはこの映画を作ろうとしたんじゃなかろうか(クララが舞台女優に設定されているのも、これと無縁じゃないと思う)。 ってわけで、この映画は、人間関係にストレスを感じている人に、何がしかの啓示を与えてくれるものになるはず。そうじゃない人でも、エンディングのふっと高みに昇りつめる感覚に、十分酔うことができるはずだ。見終わったあとに残った至福感は、『アメリ』よりもこの映画が上だったな。 |
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