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試写状 アリ

ALI

2001年 監督マイケル・マン 脚本スティーブン・J・ライベル/クリストファー・ウィルキンソン/エリック・ロス/マイケル・マン 撮影エマニュエル・ルベツキー 出演ウィル・スミス/ジェイミー・フォックス/ジョン・ボイト/マリオ・ヴァン・ピープルズ ●157分 松竹=日本ヘラルド映画配給
2002年5月25日より丸の内ピカデリー1ほか松竹・東急洋画系にて公開予定

●オフィシャル・サイト●http://www.ali-movie.jp

1964年、22歳でヘビー級チャンピオンになったモハメド・アリが、キンシャサで行われたジョージ・フォアマンとのタイトルマッチで王座に返り咲くまでを描いた人生ドキュメント。主演のウィル・スミスと、スポーツ・ジャーナリスト役のジョン・ボイトがオスカー候補になった。

1964年2月26日、ボクシングのヘビー級チャンピオンシップを賭けた戦いで王者ソニー・リストンを倒したカシアス・クレイ(スミス)は、22歳の若さで新チャンピオンの座についた。翌日、黒人イスラム教団体ネイション・オブ・イスラムへの入信を発表した彼は、名前をモハメド・アリと改名。同団体の指導者マルコムX(ピープルズ)と交流を深めていく。が、過激な言動で教団から聖職停止命令を受けたマルコムXは、まもなく凶弾に倒れる。1966年、ソンジー(ジェイダ・ピンケット・スミス)との結婚生活に1年で破れたアリのもとに、ベトナム戦争の徴兵状が舞い込んだ。「オレはベトコンに恨みはない。彼らはオレをニガーとは呼ばない」と言って徴兵を拒否するアリ。そんな彼に、スポーツ・ジャーナリストのハワード・コーセル(ボイト)は、政治的な発言を控えるように忠告を与えるが、「自由、平等、平和」の信念を曲げないアリは発言をエスカレートさせるばかり。結局、有罪判決を受けた彼は、アメリカ国内はもとより海外の試合からも閉め出されてしまう。

ドラマが平板に感じられるのは時代が見えないから
★★
(2002/03/12 松竹試写室)

自分のキャリアを投げ捨てても信念(=ベトナム戦争徴兵拒否)のために戦った男。そんなスタンスから、稀代の天才ボクサー、モハメド・アリの半生をみつめた作品だ。アリといえば、言うことがおもしろすぎな大風呂敷野郎として有名だけど、この映画では、「おかしさ」よりも「まじめさ」を強調したキャラ作りがなされている。あまたのホラ吹き発言も、アリのエンターテイナー的なサービス精神から出たものという描き方。まして演じる役者がウィル・スミスなので、イメージは優等生っぽく、線が細い。アクのない「等身大のアリ」をお目にかけましょうというのが、マイケル・マン監督の意図のようだ。

それはそれで良いとして。問題は、ドラマが時代の流れと無縁に進んでい行くことだ。アリがベトナム徴兵を拒否して有罪判決を受けたのは、1967年。最高裁がその判決を覆し、無罪判定を下したのは、1971年。その間の4年、ベトナム戦争に対するアメリカ国内の世論は大きく変わり、それがアリの無罪判決にも少なからず影響を及ぼしたというのは、想像に難くない。が、この映画では、そうした時代の流れが見事に無視されており、67年から71年までが、まるで1週間の出来事のように描かれている。すなわち、主人公の人生と、時代のうねりとが、まったく呼応していないのよ。

もちろん、すべての伝記映画をそんなふうに描く必要はないのだけど、アリは、「新公民権法が成立した年にチャンピオンの座についたアフリカ系アメリカ人のヒーロー」という特殊なポジションを占める存在。さらに、マルコムXやベトナム戦争とも直接的な関わりを持っていた人物なのだから、時代を無視してかかるのは、彼の伝記映画としては的がはずれてやしませんかい? 2時間37分という長尺にもかかわらず、この映画にダイナミズムが感じられないのは、ひとえに、時代背景をすっ飛ばしたことに原因があると思う。おそらく、オリバー・ストーンやスパイク・リーが監督していたら、もっとドラマ的なうねりを持つ作品になってたんじゃないかな(その分、ウソも多くなったと思うけど)。

ってな調子の映画なので、後半、ザイールのキンシャサでヘビー級タイトルマッチに挑むことになったアリが、なぜ、民衆の熱狂的な歓迎を受けるのかも、よくわからない。街を埋め尽くす「アリ、ボマイエ」コールは、それ自体感動的ではあるものの、見てる方は「なんでアリはこんなに人気があるのじゃ?」と、とまどうことしばし。という部分は、『モハメド・アリ/かけがえのない日々』というキンシャサの試合を追ったドキュメンタリーを見ると解明されるのだけどね。ともかく、先の時代背景も含め、観客に置いてけぼりをくわせないだけの最低限の説明は、必要だと思うのだがな>マイケル・マン監督。

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試写状 スパイダーマン

SPIDER-MAN

2002年アメリカ 監督サム・ライミ 脚本デビッド・コープ 撮影ドン・バージェス 出演トビー・マグワイア/キルスティン・ダンスト/ウィレム・デフォー/ジェームズ・フランコ ●130分 ソニー・ピクチャーズ配給
2002年5月11日より日劇ほか東宝洋画系にて公開予定

●オフィシャル・サイト● http://www.spider-man.jp
(c)Sony Pictures Entertainment(Japan)Inc. all rights reserved

1962年に誕生したマーヴル・コミックスの代表作を、サム・ライミ監督が映画化したSFエンターテインメント。全米では、『ハリー・ポッターと賢者の石』の記録を破り、オープニング3日間で1億1400万ドルの興収をあげる記録を達成した。

幼くして両親を亡くしたピーター・パーカー(マグワイア)は、伯父夫妻に引き取られ、NYのクイーンズで暮らしていた。高校3年の彼は科学で優秀な成績をおさめていたが、内気な性格が災いし、クラスではいじめられっぱなし。そのため、隣に住む同級生のメリー・ジェーン(ダンスト)にも片思いを打ち明けられないでいた。そんな彼に人生最大の転機が訪れたのは、課外授業で大学の研究室へ出かけたときのこと。遺伝子組み換え操作を行ったクモに噛まれたピーターは、超人的な視力&跳躍力を持つスーパーマンに変身を遂げたのだ。そのパワーを使って賭けレスリングに参加し、車を買ってメリー・ジェーンの気を引こうとするピーター。しかし、同夜、彼を迎えに来た伯父が暴漢に殺される事件が勃発。これをきっかけに、ピーターは、自分のパワーを正義のために使おうと決意する。まもなく高校を卒業したピーターは、カレッジに進学。親友のハリー(フランコ)とマンハッタンで暮らしながら、スパイダーマンとして悪と戦う日々を送る。そんな彼の前に、世界征服をたくらむグリーン・ゴブリンが出現。実はグリーン・ゴブリンの正体は、軍事目的で開発した新薬の副作用で二重人格者になった、ハリーの父ノーマン(デフォー)だった。

お金のかかった着ぐるみショー
★☆
(2002/04/12 ソニー・ピクチャーズ試写室)

こりゃたまげた。週末3日間で1億ドル突破の大記録とは! しかも劇場数は『ハリー・ポッター』より少ないとか。それって、アイオワのド田舎に住むじっちゃん&ばっちゃんをはじめ、アメリカ全国津々浦々の人間が劇場に駆けつけたってことかいな? 原作が、イギリス人の小説(『ハリー・ポッター』『ロード・オブ・ザ・リング』)じゃなく自国のマンガってところも、アメリカでウケる要因なのだろうが、それにしてもこの数字はアンビリーバブル。試写のあと、即「ラズベリー賞筆頭候補」と思ったYAZAKIは、己の感性が狂ってるんじゃないかと、少なからず自信をなくしているところであります。

『スーパーマン』や『バットマン』など、他のアメコミ・ヒーローものと違う『スパイダーマン』の最大の特色は、主人公がサエないティーンエイジャーであること。クモに噛まれてスーパーパワーを身につけるまでのピーターは、「ドン臭い」の一語で片づけられる科学おたく。クラスのみんなからバカにされ、憧れのメリー・ジェーンに言葉をかけることもできない。つまり、「その他大勢」として生きることを運命づけられた人類の90%を代表するようなキャラクターだ。そんな彼が、クモのひと噛みの洗礼を浴びて突如ヒーローに変身する。となったときは、彼と自分を同一視している「その他大勢」の読者(および観客)も、自分がヒーローになった気分をすんなりと味わえる。すなわち、スパイダーマンは、数あるアメコミ・ヒーローのなかでも「最もその気にさせてくれる」キャラクターなわけだ。

この映画版でも、そうしたピーター=スパイダーマンの「身近さ」はうまく捉えられている。ピーター役に、とっちゃん坊や系のルックスで、どこか浮世離れした雰囲気を持つトビー・マグワイアを抜擢したキャスティングは、まさしくパーフェクト。スーパーパワーを身につけたピーターが、それをメリー・ジェーンの気を引くために使おうとする(=レスリングの試合に勝って車を手に入れる)という、動機の普通っぽさも微笑ましく、蜘蛛の巣模様のトレーナーにトレパンという超ダサい格好でアマレスのリングにあがるピーターには、思わず「ガンバレ!」と声をかけてやりたくなったです。

と、最初は他愛なくスーパーパワーを発揮しているピーターだが、それを正義のために活用するようになってから、彼にとってそのパワーは両刃の剣になる。スパイダーマンとしてしばしばメリー・ジェーンの前に現れて、彼女の危機を救うピーター。しかし、正体を明かせば彼女をより危険な目に巻き込んでしまうため、彼には影からそっと見守ることしかできない。「どんなに必死に戦ってもいつも愛する人が傷つく」「僕に与えられた力は僕を呪い続ける」。せっかく愛する人を救えるだけのパワーを身につけたのに、そのせいで愛を逃がしてしまうもどかしさ&やるせなさ。ティーンエイジャーらしく等身大の葛藤を見せるピーターは、これまた観客の共感を誘いまくる存在だ。

と、以上のような青春映画的観点から見ると、この映画はたいへんによく出来ていると思うのだ。マグワイアの芝居は申し分ないし、キルスティン・ダンストのヒロインぶりも好感が持てる。だが、肝心の正義のスパイダーマンと悪のグリーン・ゴブリンの戦いのパートが、やたらチープに見えるんですわ、この映画。スタントマン同士が生身で戦ってる場面は向丘遊園地のぬいぐるみショーみたいだし、CGアニメで処理されてる部分はゲームの画面を見てるみたい。この映画のプロモーションで来日したプロデューサーのローラ・ジスキンは、「実写とアニメの境目がぜったいにわからないはず」と胸を張っておったが、どうしてどうして、いまどきの観客の目はもうちっと肥えてると思うがな。

で、この善悪対決シーンの「安さ」は、SFXの技術的な面だけによるものじゃない。いちばんの原因は、グリーン・ゴブリン(=ノーマン・オズボーン)という悪役キャラの深みのなさだ。彼は、新兵器開発にやっきになってる軍需産業の創業経営者。ペンタゴンの契約を取らなきゃ会社がアブないという状況のもと、自分で新薬の実験台となり、その副作用でジキル&ハイドばりの二重人格者に変貌する(その邪悪サイドのキャラがグリーン・ゴブリン)。のだが、このグリーン・ゴブリンには、どんな肉体的特徴があり、どんな得意ワザを持っているのかが、わからない。さらに、ゴブリンとオズボーンは、どういうタイミングで人格が入れ替わり、どの程度記憶を共有しているのかも、わからない。いろいろとわからないことだらけなのだが、反対に、ゴブリンの着用しているスーツはオズボーンの会社が開発したものなので、関係者ならゴブリンの正体が一発でわかるはずなのだが……という疑問も沸いてくる。

以上のモロモロの不満は、「だってマンガじゃん」の一言で片づけられてしまうものなんだろうけど、プロレスばりに殴りあうことしか能のない悪玉と善玉の対決はちーっともワクワクしないし、クイーンズボロ橋を舞台にしたクライマックスのアクションも、とってもゆるーく見えてしまう。はたまた、オズボーンがピーターに、ゴブリンがスパイダーマンに寄せる感情がきっちりと描かれていないので、「私(オズボーン)は君(ピーター)の父親のつもりだった」なんてダースベイダーもどきのセリフも、とってつけたようにチンプに聞こえるだけ。

このゴブリンのパートから判断するかぎり、映画は<B級のお笑い路線>をめざしたと思えるのだが、それにしては「コロンビア映画史上最高の製作費!」とかけた金は莫大。でもって、これが予想以上のショーバイになってしまうのだから、ホント、映画ってのはわからんもんです。

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試写状 ワンス&フォーエバー

WE WERE SOLDIERS

2002年アメリカ 監督・脚本ランダル・ウォレス 撮影ディーン・セムラー 出演メル・ギブソン/マデリーン・ストウ/グレッグ・キニア/サム・エリオット ●138分 ギャガ=ヒューマックス配給
2002年6月より日劇ほか東宝洋画系にて公開予定

●オフィシャル・サイト● http://www.gaga.ne.jp
Icon Production and Paramount Pictures all rights reserved

実在の陸軍中佐ハル・ムーアとジャーナリストのジョー・ギャロウェイの共著を、『ブレイブハート』のランダル・ウォレス&メル・ギブソンのコンビが映画化した戦争ドラマ。ベトナム戦争初期、5倍の兵を相手に戦ったムーアの部隊と、残された家族の物語をメロドラマ・タッチで描く。

1964年、陸軍中佐ハル・ムーア(ギブソン)は、ベトナムに派遣する部隊を訓練するべく、フォート・ベニングの基地に赴任した。プラムリー上級曹長(エリオット)を右腕に訓練を開始した彼は、部下たちに互いに守りあうことの大切さを教え、「自分は戦場に踏み出す最初の者となり、戦場を退く最後の者となる」と誓う。やがて第七航空騎兵連隊の指揮官に任命されたムーアは、ヘリ・パイロットのクランドール少佐(キニア)、若き少尉ジャック・ゲイガン(クリス・クライン)らと共にベトナムへ。1965年11月14日、米軍基地に奇襲攻撃をかけた北ベトナム軍を追ってイア・ドランの谷に降り立つ。それから3日間、5倍の兵を相手に死闘を繰り広げるムーアたち。いっぽう、留守を守るムーアの妻ジュリー(ストウ)は、夫の部下の戦死を伝える電報がタクシーで配達されるのを見て、自分が配達の役目を引き受けようと心に決める。

これがホントの国威発揚映画

(2002/03/28 ギャガ試写室)

この映画に★をつけるのは、ひじょうに心苦しい。なぜなら、「家を建てる→金がない→当分NYに行けない」と思っていたYAZAKIを、ジャンケットでNYへ行かせてくれたのが、この映画だったから。おかげで、『NOISES OFF』の芝居をタンノーさせてもらった身としては、できるなら、「コイツはすごいケッサクだ!」とホメちぎりたいのだ。と思って、日本に帰ってから再度字幕付きで見たのだけど、残念ながら「好かん」な第一印象は変わらなかった。めちゃウマいベトナム料理をおごってくれたギャガ宣伝部のH嬢、ほんとうに申し訳ない。今回の借りは、別の作品で返すからな。

退役陸軍中佐父とジャーナリストが自分たちの体験を記した共著を、ランダル・ウォレスが自腹で権利を買い取って映画化したこの作品の骨格は、「父が子に寄せる愛のドラマ」である。父は、メル・ギブソン演じる第七航空騎兵連隊の指揮官ハル・ムーア。子は、彼の部下たちだ。出兵前、「生死に関わらず、部下を全員故郷へ連れ帰る」と誓ったムーアは、5倍の兵を相手に戦うハメに陥った息子たちを死なせまいとして、知力&体力を振り絞る。いっぽうの部下たちは、前線で共に戦う兄弟を思い、故郷で自分を待つ家族を思いつつ、生き残りに全力を尽くす。彼らの戦いの目的が、「敵をやっつけること」ではなく、「自分たちが生き残ること」「愛する者を守ること」である点は、近頃のハリウッド製戦争映画の定石パターンだが、この映画は、そうした「守る」「愛する」の心情を、夫の帰りを待つ妻たちのエピソードなんぞも引き合いに出し、思いっきりベタな調子で描きあげている。そのベタベタさ加減が、私にはものすごーくウソ臭く、胡散臭く思えてしまったのだ。

たとえば、ベトナム出征前夜のパーティの場面。屋外のホールに集まった兵士たちは、それぞれ妻とベタベタに抱き合ってダンスを踊る。ほんの数分のシーンなんだけど、こういうディテールさえもがクサ〜いメロドラマに見えて仕方ない。妻のなかには、夫を戦地へ行かせるのがいやで不機嫌になるヤツ(私なら絶対そうなるね)だっていただろうに、なぜ「画一的な夫婦愛の絵」しか見せないんだろう? もっとスゴイのが、偵察隊の隊長が死んで行く場面。「オレは国のために死ねるのが嬉しいんだ」、笑顔、カクッ(事切れる音)。こういうイノセンスの直球を、正面切って投げられたあかつきには、こっちはもう、ただただ苦笑するっきゃない。まるで、第一次世界大戦の話を、その当時に映画化したような。ひとことで言っちゃうと、センスがアナクロで泥臭いんだよね。

と言う私に対して、ランダル・ウォレスはこう反論するだろう。これは実話の映画化であり、実際、戦場で死んでいく者のほとんどは「妻に愛していると伝えてくれ」と言って死んでいったのだ、と。しかし、たとえ事実がそうした月並みなものであっても、それを今の感性に照らし、何らかのオリジナリティを持って表現するのが、作家の作家たるゆえんじゃなかろうかしらん? という不満に加え、ウォレス&作品に対しては、あと2つほど大きな不満がある。

ひとつは、ベトナム戦争に対する認識だ。NYでジャンケットに参加したおり、「ベトナム戦争という政治的に問題がある題材を、政治的な視点抜きに映画化することができると思うか?」という記者の質問に対し、ウォレスは「I hope so」と答えていた。彼(および原作者たち)がこの映画で実現したかったことのひとつは、これまでのベトナム戦争映画に見られたシニカルな視点を正すこと、すなわち、「たとえ戦争に罪はあっても兵士たちに罪はなく、彼らはリッパに国を守ろうとして死んでいった」と訴えることだった。まとめちゃうと「兵隊さんエライ!」。しかしだな。1956年11月、ムーアたちがイア・ドランの谷に降り立つ前に、すでにアメリカ国内で大規模な反戦デモが起こっていたことを考えると、事をそんなに単純化しちまっていいのかと、疑問に思えてくる。

もうひとつの不満は、「相手もまた、リッパに戦った兵士だった」ことを語るべく、北ベトナム軍の描写を挿入していること。これが、『眼下の敵』の米独艦長の智恵比べみたいに、両軍の描写が均等であれば文句のつけようがないのだが、あくまでも米軍寄りに仕立てられたドラマに細切れ状態でぶちこまれた北ベトナム軍の描写は、「中途半端な目くばせ」に見えてしまう。しかも、ムーアが最前線の先頭に立って戦っているのに対し、北ベトナム軍の指揮官(『季節の中で』の車引きだよ)は山にたてこもり、「ああせい、こうせい」と部下に指示を出すだけ。ちょっとうがった見方をすると、この北ベトナム軍指揮官は、メル・ギブソンをよりヒーローらしく見せるダシに使われているように感じられちゃうのだ。ここは、『ブラックホーク・ダウン』のソマリ民兵みたいに、「敵=その他大勢」扱いするほうがよっぽどスマートだったと思うぞ。

小さな不満では、戦場の位置関係がわからないことがある。イア・ドランでは、ムーアたちがいるヘリの着陸地点(X−レイ)と北ベトナム軍の陣地がある山のあいだで、偵察の2小隊が立ち往生してしまう状況になるのだが、この小隊がどの位置にいるのか、見てるほうはさっぱりわからない。「地図出せ、地図」と言いたくなるようでは、ムーアが智恵を絞る作戦の妙味も半減だ。

と、文句ばかり並べてしまったけど、この映画に学ばせてもらったことも多々ある。ひとつは、「アメリカがアメリカである限り、戦争はぜったいになくならない」ことがはっきりわかったこと。出兵式の場面で、ムーアは、「ここには人種や宗教の違いで差別を経験した者がいるだろうが、諸君と私の間にそんなものはない。死の影の谷に赴く者にとって、皮膚の色や神の呼び名は無意味になる」ってな演説をするのだが、そこでYAZAKIはハタと膝を打った。つまり、多民族国家のアメリカにおいて、共通の敵に立ち向かっていく戦争は、国民がひとつにまとまる強力な手段であることが見えたのね。裏を返すと、多民族で構成された彼らがアメリカ人のアイデンティティを持ち、一体感を持つために、「敵」はなくてはならないものだってことだ。その敵は、いまはオサマ・ビン・ラディン、ちょっと前はサダム・フセイン、その前は冷戦時代のロシアだったりしたわけで。早い話、政府は、「そろそろ国民の一体感が失われてきた」と感じたら、戦争をおっぱじめればいいという図式。かくなる必要悪の側面があるかぎり、アメリカが戦争をやめる日は永遠にめぐってこないでしょう。

もうひとつのお勉強ポイントは、「愛するものを守るためなら何をやっても許される」とするアメリカ的な価値観が学べる点。「愛」とか「守る」というキーワードは、戦争を正当化するための都合のいい言い訳にすぎないのだが、彼らはそれを頭から「美しいもの」と信じているフシがある。なんて具合に、アメリカ人の戦争に対する認識が読みとれるという意味では、この映画も捨てたもんじゃないかも。

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