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キッチン・ストーリー

Kitchen Story

2003年ノルウェー=スウェーデン 監督・脚本ベント・ハーメル 撮影フィリップ・オーガルド 出演ヨアキム・カルメイヤー/トーマス・ノールストローム/レイネ・ブリノルフソン/ビョルン・フロベリー ●95分 エスピーオー配給 2004年5月よりル・シネマにて公開 
●オフィシャル・サイト●http://www.cinemart.co.jp

『卵の番人』のベント・ハーメル監督によるヒューマン・コメディ。舞台は、1950年代初頭のノルウェーとスウェーデンの国境の町。スウェーデンの家庭研究所が、独身男性の台所の動線を研究しようと、ノルウェーに調査員を派遣。そのひとりフォルケ(ノールストローム)は、被験者のイザック老人(カルメイヤー)のガンコぶりにさんざん手を焼かされるが、フォルケがイザックにタバコをやったことをきっかけに、ふたりのあいだには奇妙な友情が芽生えていく。

人間を幸せにするものは?
★★★★
(2004/03/30 映画美学校試写室)

昔から、ナレーション付きの映画が苦手な私。最近は、とみにその傾向が強くなり、たとえ人がどんなに良い映画だと褒めようと、『シービスケット』のように登場人物の思いを全部ナレーションで説明しちゃう映画には、「おだまり!」とケンカを売りたくなる。反対に、どんどん評価が高くなるのが、字幕翻訳家が泣いて喜ぶセリフ少なめの寡黙な映画。間とか映像とか編集のリズムとか。そういう「映画の言葉」で物語を語ろうとする作品が、やたら心にしみてくる。去年は『過去のない男』や『少女の髪どめ』をベスト10に入れたけど、今年も、この『キッチン・ストーリー』が、そうした寡黙派の代表としてベスト10にランク・インしそうだ。

おもな舞台は、8畳ほどの真四角な台所。その家に派遣された調査員のフォルケは、台所の片隅に設置したプールの監視台のようなヤグラにすわり、住人の動線を記録する仕事を始める。かたや住人のイザック老人は、景品の馬(それはホンモノの馬じゃなく、スウェーデンの民芸品として有名なダーラナ馬の置物だった)が目当てで調査に応募したものの、他人から「見下ろされる生活」が気に食わず、台所中に洗濯物を吊したりしてフォルケにいやがらせ。さらに、2階の寝室の床に穴をあけ、監視する立場のフォルケを、あべこべに監視したりする。

そんなふたりの意地の張り合いが終わりを告げたのは、パイプの葉を切らしたイザックに、フォルケがタバコを投げてやったことがきっかけだった。お礼にコーヒーを淹れてやるイザックと、彼の言葉に従って監視台から降りてテーブルに着くフォルケ。「同じ目線」で会話をはじめたふたりのあいだには、やがて稀有な友情が芽生えていく。

と、ただそれだけのシンプルなドラマの中に埋め込まれているのは、「何が人を幸せにするか?」という問いかけだ。フォルケが行う「動線の調査」は、より機能的、より便利な生活に向けたツールを開発するための情報収集に関わる作業だ。が、その結果、まったく無駄のない完璧な動線のキッチンが誕生したとしても、それで人は幸せになれるわけじゃない。しょせんキッチンなんて、お湯が沸き、物が洗え、料理するスペースがあればすむ代物。人生を豊かにするのは、そんなものの進歩ではなく、一緒にコーヒーを飲み、他愛ない会話を楽しむ相手を得ることである。

そのことを、「スローライフのススメ」などという押しつけがましさをいっさい感じさせず、飄々と描いている点がこの映画の魅力。アキ・カウリスマキ系の映画が好きな人には、強力におすすめする。

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コールドマウンテン

Cold Mountain

2003年アメリカ 監督・脚本アンソニー・ミンゲラ 撮影ジョン・シール 出演ジュード・ロウ/ニコール・キッドマン/レニー・ゼルウィガー/ドナルド・サザーランド ●155分 東宝東和配給 2004年4月24日より日劇3ほか東宝洋画系にて公開 
●オフィシャル・サイト●http://www.eigafan.com/

全米図書賞を受賞したチャールズ・フレイジャーの原作を、『イングリッシュ・ペイシェント』のアンソニー・ミンゲラ監督が映画化。南北戦争末期、恋人の待つ故郷コールドマウンテンに向かって苦難の道のりを歩み始めた南軍の脱走兵イマン(ロウ)と、彼を待つと決めたためにサバイバルな生活を余儀なくされる恋人エイダ(キッドマン)の苦難の日々を描く。エイダに野良仕事を教える流れ者ルビーを演じたレニー・ゼルウィガーが、アカデミー助演女優賞を受賞した。

魂のロードムービーとして見たい作品
★★★
(2004/01/22 東宝東和試写室)

主人公は、南北戦争の激戦地で人生にめざめた青年。「ここで犬死にするのがオレの人生かよ?」と、疑問にかられた彼は、故郷に残してきた恋人との愛を成就することに己の生きる道を見出し、軍隊を離脱して徒歩で故郷への道を歩み出す。そんな彼の生き様は、ベトナム反戦の気運が盛り上がっている時代なら拍手を持って迎えられただろうが、イラクに送られた兵隊さんたちがバタバタと死んでいるいまの時代にあっては、勝手に戦場を放棄した者=反体制の国賊とみなされる立場にある。結果、アカデミー賞では、ミラマックスに対する反感ムードも手伝って、作品&監督賞にはノミネートされずじまい。受賞は、レニー・ゼルウィガーの助演女優賞のみにとどまった。

ドラマは、この主人公インマンの旅を描くパートと、彼を待つあいだに牧師の父を亡くし、自立せざるをえなくなった恋人エイダの苦闘を描くパートの2本立てで進行する。インマンのパートは、南北戦争時代の「オデュッセイア」、あるいは同時代の『地獄の黙示録』の面持ちだ。ピーターズバーグの戦場を出発したインマンは、道中、黒人奴隷をはらませた牧師(フィリップ・シーモア・ホフマン)、彼らをホームガードに売り渡す男(ジョバンニ・リビジ)、乳飲み子を抱えた戦争未亡人(ナタリー・ポートマン)、彼女を犯そうとする飢えた北軍兵など、奴隷制度と戦争の傷跡を物語る人物たちと遭遇。いわば「時代の目撃者」の立場を兼ねつつ、生き残りを賭けた500キロの道のりを歩む(なかには、アイリーン・アトキンス扮する山羊飼いのオババのように魔女を思わせるキャラも登場する)。

いっぽう、料理だの野良仕事だの裁縫だの実用的なことが何ひとつできなかったお嬢様育ちのエイダは、流れ者のルビー(ゼルウィガー)から辺境の地でのサバイバル術を学び、たくましい大地の女に変貌を遂げていく。インマンがオデュッセウスなら、こちらは、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラを、より現代的に、よりインテリにしたようなイメージだ。

そんなふたりが、ひたすら「愛」にプライオリティを置き、苦難を乗り切っていく姿をみつめた作品は、ある意味、ひじょうにシンプルな純愛映画と言える。難解さはまったくないし、ナイーブなインマンも、芯の強さを秘めたエイダも、観客が感情移入しやすいキャラに仕立てられている。まとまりの良さという点では、オスカーの作品賞候補になった『マスター・アンド・コマンダー』や『シービスケット』よりも、こっちのほうが得点は高い。

が、逆に、そのソツのなさがやや物足りなく感じられるのも事実。この映画を最初にNYで観たとき、私がいちばんひっかかったのは、インマンがあまりにも都合よく生き延びすぎる点だった。映画の冒頭、南軍の陣地が北軍の爆破攻撃にさらされる場面で、瓦礫の下からはい出たインマンは、その後、ゲリラ任務に駆り出されたときもかろうじて命拾い。さらに、故郷を目指す旅に出てからも、鎖でつながれた捕虜のなかでただひとり生き残るといった具合に、悪運(!?)がつきまくる。この点に関しては、同じように命拾いしまくる『戦場のピアニスト』の主人公と同様、インマンが「神に選ばれた時代の証人」の役割を背負っているという解釈が成り立つだろう。

が、私の希望的な解釈(笑)では、現実のインマンは最初の戦闘シーンで死んでおり、その後の物語では、彼の魂が故郷に向かって旅を続けるというふうに、この映画を捉えてみたくなった。つまり、ロマンチックなゴースト・ストーリーという感じ。そう考えると、ラストのオチ(ネタばれになるので書かないよ)が「奇跡」の輝きをおび、映画全体がグンと味わい深いものになるような気がするのだけど、どうだろ?

ま、この解釈に関しては、とある先輩評論家に「あんた、それは無理があるわよ」と一笑に付されてしまったのだけどね。なにはともあれ、「同じ戦うなら戦場じゃなく、自分のフィールドで愛のために戦えよ、お前」というテーマをはらんだこの映画は、志の高さが買いだ。

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真珠の耳飾りの少女

Girl with A Pearl Earring

2003年イギリス 監督ピーター・ウェーバー 脚本オリビア・ヘトリード 撮影エドィアルド・セラ 出演スカーレット・ヨハンソン/コリン・ファース/トム・ウィルキンソン/ギリアン・マーフィー ●100分 ギャガ配給 2004年4月10日よりシネスイッチ銀座にて公開 
●オフィシャル・サイト●http://www.gaga.ne.jp/pearl/

17世紀オランダの肖像画家フェルメールの代表作「真珠の耳飾りの少女」(別名「青いターバンの少女」)。その名画がいかに誕生したかに推理をめぐらせたトレイシー・シュヴァリエの小説を、英国の新鋭ピーター・ウェーバーが映画化した文芸作。アカデミー賞では、撮影、美術、衣装デザインの3部門にノミネートされた。

ラブシーンが1個もないのに官能的
★★★☆
(2003/11/28 ギャガ試写室)

主人公の少女グリートが、切った野菜を皿に盛る。その手元をドアップで映し出す冒頭の場面。むかれていくタマネギは、グリートが少女から女への通過儀礼をくぐりぬけていくドラマの流れを暗示し、色のバランスを考えながら並べられていく野菜は、彼女が天性の色彩感覚の持ち主であることを物語っている。ひとことの説明も交えず、スパッと要点に切り込む無駄のない描写に、まずはうなる。さらには、その寡黙な中に奥行きを感じさせる語り口が、フェルメールの画風とも通じあっているところが、またスゴい。緻密さと完成度の高さにおいて、これは近年稀に見る佳作であると太鼓判を押す。

モチーフとなるフェルメールの絵画は、「真珠の耳飾りの少女」とも「青いターバンの少女」とも呼ばれているそうだが、劇中では、この「耳飾り(ピアス)」と「ターバン」が、どちらも官能の小道具として効果的に使われている。

タイル職人の父が失明して働けなくなったため、フェルメールの家に奉公に出されたグリート。アトリエの掃除中、窓を拭くと光の色が変わることに気づいた彼女の芸術的な感性の高さに着目したフェルメールは、次第にグリートに助手としての仕事を任せるようになる。フェルメール自身は、気位の高い妻とのあいだにボコボコと子供をもうけ、さらに家計を仕切る妻の母親も同居するマスオさん状態で暮らしているのだが、そんな彼にとって、アトリエは「俗」な日常と切り離された神聖な世界であり、グリートはその神聖な領域に立ち入ることを許した唯一の人間だった。

芸術を本能的に理解しあえる者として、同志的&共犯者的な絆で結ばれていくフェルメールとグリート。それが愛という感情に高められていくことをふたりは強く意識するが、どちらも思いは秘めたまま。決して、主人と使用人の境界線を越えることはない。

やがてフェルメールは、パトロンの挑発にのせられる形でグリートをモデルにした肖像画を描くことになる。最初にフェルメールがグリートにリクエストしたのは、髪を包んでいるキャップをはずすこと。髪を見せるのは裸を見せるも同然という思いから、当然グリートは拒否するが、フェルメールの執拗な要求に、彼女はキャップからターバンに「着替える」ことに同意する。その着替えの現場を垣間見てしまったフェルメールと、見られたことに気づいたグリートが、電流に打たれたように立ちすくむ刹那にほとばしるエロチックな情感。「髪を見る、見られる」という行為が、冒頭のタマネギの描写と呼応して、フォアプレイのような意味を帯びて鮮烈に印象づけられる。

この「ターバンの儀式」に続いて行われるのは、「ピアスの儀式」だ。フェルメールが「着けろ」と要求した真珠のピアスが、彼の妻のものだったこともあり、「ダンナ、それだけはカンベンしてくだせえ」と頑なに拒否するグリート。だが、描きかけの自分の肖像画が、内面までもを捉えた素晴らしいものだったことから、彼女は耳飾りを着けることに同意する。そのエピソードに、グリートのアーティスト魂を描きとってみせるドラマは、フェルメールが彼女の耳にピアス用の穴をあける場面で官能のクライマックスを迎える。芸術家の手に耳を貫かれ、一筋の涙を流すグリート。現実的な性行為よりもなまめかしく、鮮烈な処女喪失の瞬間。彼女の瞳には、歓びと悲しみがきらめき、それを敏感に察したフェルメールは、瞳の中に宿る感情を絵の中に封じ込めるべく「唇をなめろ」とグリートに命じる。

実は、この一件がフェルメールの家族の修羅場を招く以降のドラマは、ややソープオペラ的なものに落とし込まれていくのだけど、それでも、フェルメール家を去るグリートの姿を俯瞰で捉えるといったダイナミックな構図を配した演出は、最後までアートの領域から逸脱しない。見事だ。

特筆すべきは、フェルメールの絵画に宿る微妙な光と影の色合いを、そのままフィルムに移し替えた映像の美しさ。実は、ワケあってこの作品をビデオでも鑑賞したのだけど、ビデオでは黒の奥行きが丸つぶれで、映画全体に対する印象も大きく違ってしまった。なので、これはぜったいに映画館での鑑賞をおすすめする。

グリート役は、『ロスト・イン・トランスレーション』でも話題のスカーレット・ヨハンソン。彼女のデッドパン(無表情)な個性は、ターバンで覆われた髪と同様、感情を包み隠したこの役柄に、まさにドンピシャリ。ひとりの芸術家の手によって開花の瞬間を迎え、そのせいで現実の不幸を味わうかわりに、絵画の中にその存在をとどめる幸運を手にした少女の数奇な生き様に、グッとこちらの思いをひきつけていく。

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