日本ソムリエ協会 平成15年 北海道支部例会セミナー

北 海 道 の 三 つ 星 レ ス ト ラ ン
March.3.2003 ロイトン札幌

ザ・ウィンザーホテル洞爺 ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン

支配人・シェフソムリエ 加茂文彦氏 
副料理長 横須賀雅明氏

参 考 H P
テレビ朝日『トリセツ』より 
http://www.tv-asahi.co.jp/torisetsu/contents/100/008/
ミシェル・ブラスへ行かれた方の感想 http://www.geocities.jp/mitsuhiro_na/restaurant/rest-hokkaido/0210bras.html
「Northern-Look 」より ウィンザーホテル洞爺・MICHEL BRAS関連 http;//park17.wakwak.com/~n-l/tc/ 


加茂 ミシェル・ブラス・トーヤ・ジャポン支配人

熱田 日本ソムリエ協会会長

*ミシェル・ブラス・トーヤ・ジャポンの加茂支配人 横須賀副料理長に内容を確認頂き、承諾の上掲載させて頂いています。

加茂 文彦(かも ふみひこ)氏
1960 茨城県古河市生まれ 
1980年 大阪阿倍野・辻調理師専門学校卒業
1981年 辻調理師専門学校フランス・リヨン校卒業
1983年 東京「ドゥ・ロアンヌ」でシェフ・ド・ラン=ソムリエとして勤務
1992年 Saint-EmillonChateau Angelus」にて、ブドウ畑の収穫研修
1993年 パリ「Lucas Carton」ソムリエ勤務
1999年 ボルドー大学醸造学科デキュスタシオン講座卒業/免許取得
2000年 Aix-en-ProvenceLe Clos de la Violette」シェフ・ソムリエ
2001年 ザ・ウィンザーホテル洞爺 ミシェル・ブラス シェフソムリエ・支配人

横須賀 雅明(よこすか まさあき)氏    
1972年 埼玉県生まれ
・ホテルオークラやフランスの一ツ星レストラン シャトー・ドゥ・スリーのスーシェフを勤める。
・シャトー・ドゥ・スリーのシェフであり、今回ミシェル・ブラス・トーヤ ジャポンのディレクターシェフを務めるアレクサンドル・ブルタス氏に誘われ日本へ戻り、ザ・ウィンザーホテル洞爺 ミシェル・ブラス 副料理長に就任。


加 茂
 みなさまはじめまして。ミシェル・ブラス支配人の加茂でございます。洞爺からこちらにまいりまして、北海道をなめていました。12時に出て3時に着くだろうとおもっていました。高速に乗ったのですが、大雪のために途中で高速をおろされてしまいました。それで時間ぎりぎりになってしまいました。
 今日は北海道の三つ星レストランとしてお話しさせていただくのですが、昨年6月にオープンさせていただきました。料理については横の横須賀シェフに聞いていただくことにして、オープンまでやその後についてお話ししたいと思います。

 このお話を聞いたのは、南仏プロヴァンスで仕事をしていたときにきき、ミシェル・ブラスという名前は雑誌などで知っていたのですが、いったことはなかったのです。まず実際いって料理を食べて、シェフに会ってから決めたいと思いました。
プロヴァンスからラギオールまで車で6〜7時間かかります。山の中のラギオールからさらに6キロほど入った標高1200mほどのところにあります。こんなところにこんな近代的なものがあるのかというのが最初の印象でした。

 一番最初に食べた料理は、みなさまのお手元にあると思いますが、ガルグイユーというものでした。一番春野菜がおいしい時期で、野菜やハーブが飾ってあるもので、本当においしかったのです。感動しました。この一皿を食べただけで、この店で働きたいなと思ったのでした。それだけでシェフのイメージであるとか、人間性が凝縮されていたものだと思いました。
 全部のコースをいただきましてブラスにお会いし、いってみれば面接なんですが、北海道の洞爺に行くことに対して、「お金儲けでも名声を得るためでもない。自分が生まれ育ったオーブラックにすごくにていて、うり二つだ。そこに自分の魂を持っていきたい」という言葉を聞いて、この人と是非一緒に仕事をしてみたいとおもって、決心した経緯がありました。

 それから去年2月18日にフランスから直接洞爺に入って、準備室で仕事を始めたということです。実際どういうことがあったかという真実をお話したいと思うのですが、ミシェル・ブラスという店にはすごいスタッフがいると思ったのですが、私しかいなかったのです。待っていてもスタッフは来ませんでした。オープン前の5月はじめなんですが、決まっていた人間というのは3人でした。最低10人は必要だと提示されていたのですが、3人しかいませんでした。このままではオープンすらできないじゃないかと危機感を持っていまして、今の料飲部のメンバーから10人ほしいと料飲部長にお願いしました。いろんな部署からなんとか10人集めまして、オープンの25日前でした。そこからが実際ミシェル・ブラスのスタートで、本当に大変でした。

 ワインの方に関しても話が長くなるのですが、ワインをフランスから入れようという話になったのですね。最低でも3ヶ月前には日本に着けて、休ませてオープンに間に合わせようと思っていました。
しかしワインがついたのは5月25日 本当にぎりぎりでした。フランスの本店からワインを注文して、それを日本に送るという手はずをとっていたのですが、4〜10月しか本店は営業しません。フランスの本店にはワインが2万本程度あるのですが、洞爺は365日あけるので、最低本店と同じ程度の本数を持ってこないといけないとブラスから指示がありました。

 それで24,000本を一気に持ってこようと無謀な計画をし、実際におこないました。セルジオという本店のシェフソムリエ兼ディレクターなんですが、電話で注文したりふたりで直接ブルゴーニュを巡って、なんとか入れてほしいとお願いして、ワインを選定していったという状況です。輸入代行をしてくれるところがあったのですが、一番最初は簡単にできるとお話ししていたのですが、実際に行うととてつもなく大変な作業だったのです。500種類弱の銘柄があり、300種類程度のドメーヌがあります。日本へ持って来るには資料が思ったより必要で、さらにすべて前金じゃなければいけないということもありました。3月くらいになんとか一括した資金を渡しまして、それから日本に持ってくるという作業になってしまいました。

 フランスから船がでたのが3月
20日から4月くらいで、日本に入ってきたのが5月でした。税関・検品をくぐって5月中旬になり、フェリーで苫小牧に運びトラックでホテルまで運んできました。4トントラック10台分のワインだったのですが、24,000本のワインがたった3日間で届きました。ケースを見たとき唖然としました。これを全部ワインカーヴに収納して、どこに何があるかを整理して、リストを作る。これを5日でやらなきゃいけないという状況で、フルスタッフとほかからも人をかりて間に合わせたという状況です。6月の最初にお越しになられたお客様には本当にこころから申し訳なかったというのが実際のところです。

 たった25日間しかなく、ワイン整理に5日とられたので、結局サービスの訓練は20日しかなかったのです。ブラス本人が5月末に来日しチェックをしていきました。3日間びっちりブラスは、哲学をたたき込んでいったのですね。どういったレストランにしたいのか、なにを考えているのかなどです。1時間半程度のビデオがあるのですが、ブラス本人から解説を聞きながら見たのです。サービスやメニューをどうするのかということは本当に時間がなかった。オープンの料理が決まったのは、たった1日前でした。彼からなにか指示あるだろうと思ったのですが、何もなくその日は10時くらいに帰ってしまったんですね。夜中なんですが、スタッフがみんなで集まって横須賀シェフに一品ずつ説明してもらいました。かろうじて頭にはいったかなという状況でオープンの日を迎えました。

 オープンから1・2日たち、ブラス本人に呼ばれました。あと1日で帰るところだったのですが、こんな状況ではミシェル・ブラスの名前は出せないと怒鳴られました。殺されるかと思うぐらいです。なにも聞いていないという状況で、「おまえはなにをやっているんだ」といわれました。
私自身正直いいまして、たった20日しか準備期間がなく、その上に他の10のレストランのワインリストを作らなければなりませんでした。なので私にはミシェル・ブラスだけに専念するという時間はありませんでした。私がブラス本人に「ホテルのシェフソムリエとミシェル・ブラスの支配人の両方はできません。シェフソムリエの看板を降ろしてもらいブラスだけに専念します。」といいました。ブラスはひとこと「それでいいんだ」と。

 ブラス自身最低限のレベルを持っていたと思うのですが、そのレベルまで持ってこようというのが今までの仕事でした。お客様からのクレームもありましたし、いろいろな評価もいただきました。

 ミシェル・ブラスのサービスとは何なのかなと思うのですが、自分の家に招いたサービスはどういうものかを考えなさいということです。それが基本中の基本だとブラスの口から直接いわれ、お客様が家に帰るまで和んで頂きたいとの思いでやってきました。本当にお客様に心から喜んで頂けるということを考えてきたのですが、これからが本当に勝負の年になるかと思い、2003年の今年、いかにがんばれるかできまってしまうという危機感を持ち、1日1日やっていこうという気持ちでおります。

 ミシェル・ブラスの神髄といわれる料理については、横須賀シェフからお願いします。
横 須 賀
 ミシェル・ブラス・トーヤ ジャポンで副総料理長をしています横須賀と申します。本来ならば アレクサンドル ブルダス(アレックス)とデルフィンブイヨンというディレクターシェフとサービス、ロゴショップを担当しています、二人が一番適任なのですが、打合わせとバカンスをかねて現在帰国中ですので、代わりに私が話させて頂きます。

 経緯も含めて話させて頂きますが、まずは、自己紹介させていただきます。ミシェル・ブラスに来る前は、フランスのノルマンディーにある“シャトードスリー”というミシュランの一つ星のシャトーレストランで、スーシェフとして3年勤めさせていただきました。そこの私のシェフをしていましたのが、今回、洞爺でディレクターシェフをしておりますアレックスでした。

 その前は、ミシュラン2ツ星のオーベルジュ エ クロデシームに2年、同じく2ツ星、シャビシューに2ヶ月、レストラン コートロティーに1ヶ月、など合計5年フランスにいました。その前は東京のホテルオークラに5年半、勤めました。

 ミシェル・ブラスが日本に、それも北海道洞爺にどのようにしてできたのかということを話させて頂きます。3月にアレックスに直接依頼がブラスからあり、私にその次の日に聞きました。自分の耳を疑いました。というのは、ブラスのことはアレックスを通じて何度か聞いていたからです。ブラスが「本当にそんなことをするのか」と思い、信じられなかったのです。なぜならば、彼は完全主義者だと聞いていました。彼のレストランでは、全ての作業、物事を彼の目の前で行い、全て、彼が決断しないと気がすまない人、今までそうしてきた人だと聞いていたからです。

 そして、私はアレックスもこの話を断ると思っていたのです。初めてノルマンディーでシェフをやっていたのですが、彼の名前もフランスに売れてきていました。ガイドブック、“ゴー、エ、ミーヨ”にて未来のグランシェフということで、フランスで、5人の中に選ばれました。これから上り調子という時期で、二つ星は目の前だともいわれていました。

 勿論、彼にとってあこがれのシェフからの依頼、彼の料理に対する考えに賛同していましたので引き受けたのですが、その他の理由の一つに、もしこのまま続けていれば2つ星、3つ星になれたかもしれない。でもここで一呼吸をし、そこまでのアクセスに、もっといろいろな経験をし、そこに到達するほうが、自分にとっては、良い結果が出ると考えたからだそうです。

  私もフランスでスーシェフをしていて、ビザの関係も労働ビザがとれていました。あと2年更新すると永久ビザがもらえ、どこにでもいける状況になっていました。1週間悩んだのですが、「フランス料理をフランスでするのには限界がある。他の国の人がその国で料理をするのは無理じゃないか。ベースとなる文化であるとか、子供のころの味わいとかがないじゃないか」と感じていました。彼らのような料理人になりたいと考えたとき、自分のフランスでの経験、や感じてきたことに、日本での生れてから今までに感じた文化や経験をふまえていけばできるのではないかと考えていた事も、今回、承諾した一つの理由です。

 ブラスがなぜこの洞爺へ出店するということをOKしたのかを話したいと思うのですが、3年前に私どもウィンザーホテル社長の窪山と料理顧問をしている斎藤が依頼し、最初は乗り気じゃなかったようです。ブラスには他のところに店を出すという考えはなかったのですが、熱意にまけてとりあえず、冬に洞爺へやってきました。

 その時は2・3日の滞在だったのですが、天候が悪く景色も見られなかったのですが、奇跡的に最終日に天候が良くなり、ホテルの最上階からの洞爺の自然を目の前にし、「生まれ故郷のラギオールのようだ」と感じたようです。そしてフランス ラギオールにあるミシェル・ブラスではなく、新しく日本の洞爺にミシェル・ブラスを作ろうと思ったそうです。

 翌冬にブラスと結局洞爺のディレクターシェフをすることになったアレックス、設計のティェリー、そしてブラスの息子セバスチャンが洞爺にきました。レストランの内装やロゴショップ、厨房などについての話をしていきました。中でも一番力を入れていたのは、食材のティスティングです。全部で200種類もの食材を試していったそうです。

 その後私がウィンザーホテルに入りました。その時も一面の雪でした。私は何から手をつけたら良いのだろうと心配していたのですが、到着してみると、仕事の山でした。ブラスからついたと同時に連絡があり、ブラスの疑問点を調べ連絡する、またフランスにサンプル品を航空便にて送る、ということが私の仕事でした。たとえばサービススタッフのユニフォーム、その他のリネン類、キッチンのユニフォームまでもフランスに送って、ブラス本人が決めていきました。

 そしてオープンを控え3月にアレックスが洞爺へ来ました。一度バカンスで日本に来たことはあったのですが、生活するということになると戸惑っていました。生活もそしてレストランも含めてたった3ヶ月で準備しなきゃいけなかったのです。

 その後最終確認のためブラスが来日しました。その時初めて仕事でブラスにあったのですが、「本当に完璧主義」。ひとつひとつ細かくチェックしていきました。またその時も食材を200種類ティスティングしていきました。なぜそんなにティスティングをするのか聞いたのですが、「洞爺に新しいミシェル・ブラスを作るためには食材をしっていないといけない」からだそうです。

 コンピュータにひとつひとつデータ化し、大きさ、産地、値段、シーズナリティ、味などです。味も肉や魚は、焼いてはどうかであるとか蒸してはどうかなど細かにしていました。2〜3日かかったのですが、肉・魚・乳製品などをデータ化してもって帰りました。

 ミシェル・ブラスは★★★です。本店はすこしずつ時間をかけてできたものですが、洞爺は本人がいない中でいきなり★★★にてスタートしないといけないことです。またミシェル・ブラスの経験者はアレックスただ一人です。その事は、我々の重いプレッシャーでした。

 私はスタッフの応募についても、てっきり履歴書の山だろうと思っていました。日本でミシェル・ブラスのレストランにて働けるのですから。しかし、それは、サービス同様人はそろっていませんでした。ようやく集まったのは4月で、それからミシェル・ブラスというものを理解しないといけなかったのです。

 本店と同じことを厨房でしよう。ブラスがきても普段と同じように料理ができるようにしようと考えました。入ったオーダーを読むのはアレックスなので、フランス語がわからなきゃならない。まずは、最低限のフランス語を理解してもらうことでした。

 試作を続け5月中旬に息子のセバスチャンがやってきました。その2〜3日前にブラスからメールでメニューが来ました。「え、こんなに複雑なメニューなの」というのが感想で、むこうと変わらないレベルのことを洞爺でも始めからするのだと思いました。そしてセバスチャンに料理などをたたき込んでもらいました。

 その後オープン直前にブラスがやってきて、「これではだめだ」と始まり、半分くらいのメニューが変わりました。本当にいろいろなことを要求してきました。その時★★★をここに本気で持ってくるのだなと感じました。そして今までの人生で一番怒られました。

 ブラスの料理に対する考え方ですが、ガルグイユーなどをみても「華やか」で今までにない全く新しいものという印象があります。それにはいつもどんな料理にも土台となるものがあり、そこに考えやエスプリが加わっているのだと思います。生まれ育った大地・自然・幼い頃からたべている母の料理、それに彼の発見が加わってできているのです。

 ガルグイユーという料理ですが、ラギオールにもともとある料理で、ハムとか野菜の煮込みだそうです。その昔から伝わる土地の料理を彼は、若野菜を、3040種類、2030種類の香草やハーブ、そこになごりであるバターとハムで料理をまとめ、ブラスはブラスのガルグイュをつくり。さらにお皿にラギオールの自然や光などの表現も合わさってブラスの料理として完成したのです。

 彼のデザートに対する考えですが、かれは、お客様がデザートを食べているときに、子供の頃に戻ってほしい、誰もが小さい頃感じていた、甘いものに対する想いを思い出して欲しい、という気持ちが表現されています。ちょっと遊び心ある、手で食べたり、どのように食べたら良いか悩んでもらうようなもの、技術はかなり高いデザートなのだけどお客様には、それを感じさせないと心がけています。

 そしてブラスの盛りつけも独特なものこだわりがあります。本店で盛りつけすることができるのは、ブラス本人に息子のセバスチャン、20年以上も勤めているレジス、そしてパティシェの4人しかできないのです。彼らの前を通らなければ、料理をお客様に出すことはないのです。そして、必ずお皿には、影と光があり、いつも静止しているのではなく、流れがあるもの、お皿に十字を作っては、いけないなどいろいろな決まりがあります。

 またメニューの名前もこだわりがあり、非常に難しい表現を使っています。洞爺も同じ名前を使うのですが、ブラスのつけた名前のイメージを壊さず、イメージを伝える日本語に出来るよういつも悩んでいますしこれからの課題の一つです。

 本来一番良いのは ミシェル・ブラス本人に話していただくのが一番良いことなのですが、私が簡単に話させていただきました。私どものこれからの課題として本店のキュイジーヌ・エボリューション「進化する料理」を洞爺でも実践することです。毎日新しい発見を繰り返し、進化できるようにスタッフ一同心がけたいと思います。
加 茂
 あと
35分ほど時間があるのですが、フランスでの経験も踏まえ、これからの21世紀にソムリエとしてどのようにすればよいのかと思うことを話したいと思います。私自身ソムリエとして22歳くらいからこの世界に入ったのですが、その頃はほとんど飲めませんでした。

 パリの三ツ星レストラン ルキャ・キャルトンでソムリエとして働いていた時の事です。エシャンティョンという見本が届くのですが、7人のソムリエの1人として、全員でティスティングをするのです。地下のカーヴには空間があって、そこでミーティングであるとかティスティングをするのです。皆でディスカッションしながらワインをティスティングしてリストに載せるのかどうかを決めていきます。ここではワイン自身の味はわかるのですが、そのワインの背景がわからない。畑や作り手の情景がわからないのです。

 作り手の思いを知るには、このままだとダメだと思い、5年で退職してボルドーへ行きました。ボルドー大学にあるティスティング講座へ申し込みました。そこは1年半前に申込をし、さらに書類審査で選抜されます。そこへ11〜6月までの半年ちょっと通いました。その講義はソムリエだけの知識では難しく、科学の知識を知らなければできないのです。全部録音し、3回はきいてようやく何となく理解する状況でした。講義を翻訳するのに一日かかっていました。

 学校時代は理科をほとんどわかっていませんでしたので、中学・高校の教科書を開いて何とか追いついたのです。しかし6月の修了試験に落ちてしまいまして、その時38歳。妻も子供もいる状況で、もう後がないと言うプレッシャーに耐えながら9月の追試でどうにか合格しました。

 ワインの作り方をしっかり勉強した後、いろいろな作り手の方を訪問したのですが、「作り手の思いを共有する」。それが一番大事なことだと気が付きました。「いいワインを作りたい」という思いが、ひとりひとりの畑仕事につながり、醸造にしてもいろいろな志が出てくるのです。それを共有することによって、ひとりひとりの愛情が、一房のぶどうひとつひとつに集まって、すばらしいワインができあがっていく。この「思いを共有する」ことが大事なのだと思っています。

 お客様にワインを注ぐ最後の提供者によってすべてが決まるのではないかと思います。ワインを持った瞬間に作り手の思いを感じ取れる。それを注ぐ人間によって味がかわってくると思うのです。そういった思いをどうしたらいい状態でサービスできるのかを考えてほしいのです。サービスの根底にあることではないかと思うのです。私自身そういった面からすると、まだすべてがわかっている訳ではないのです。修行したり作り手の方にお会いして行かなければならないと思っています。

 マダムルロワの本を読みますと、70年代にはいって異質なものを感じるようになった。農薬の影響などで本来あるべきワインの姿を失っているのではないかというのです。

 「土地を愛する」 ソムリエが最後の提供者であるということをもとに、私が感じることを話させて頂きました。
質 問
Q.メインダイニング キリガンズ アイランドにて、ウィンザーを知って頂きたいという意図で「サンデーブランチ」という企画をされており、最初の頃は食事のみで5,000円、シャンパン飲み放題がついて5,500円ということで行われていました。今はシャンパン飲み放題の企画はなくなっていますが、当初の頃はシャンパンといいつつもフランス産のスパークリングワインを提供するということをされていました。加茂さんをはじめ多くのソムリエの方々がいらっしゃるなか、原産地呼称制度なども無視したような企画を行われたいきさつなどありましたらお願いします。

A.その件に関しては 楽しみにされていた方々にお詫び申し上げなければならない事です。ソムリエとしあってはならないことですし、実際企画の方からその話があった際、私はやめるよう申しました。しかしその企画が通ってしまい、実際にお客様に提供してしまったのです。このことも私がミシェル・ブラスに専念することになったひとつの訳です。

Q.モリエールの中道シェフが代表をつとめる「ラパンフーヅ」で運営受託している、真狩村の「マッカリーナ」と洞爺村のセイコーマートの保養施設「フェニックス洞爺クラブ」には、ミシェル・ブラスのサインプレートが飾られているのですが、行かれた際の感想などをご存じでしたら教えていただきたいと思います。

Aマッカリーナでは三日間連続で、調理場を借りて素材のテースティングを行なったそうです。ミシェルはとてもいいレストランだと言っていたそうです。フェニックスには滞在中ずっと宿泊していて毎日ちがったメニューをだしてくれて大変満足していたそうです。

Q.食材などでは地元 北海道の食材がふんだんに提供されているのですが、ワインはミシェル・ブラスやホテルのレストラン全てで道産ワインは含まれていないかと思います。道産ワインをリストに入れない理由(コストパフォーマンスなども含めて)をお聞きしたいのですが。

A.北海道のワインをリストに載せていないのは、「作り手の思いを理解する」ことが、まだできていないからです。言い訳になってしまいますが、オープンしてまだ一年たっておらず自分の時間をとることがなかなかできません。これから少しずつ北海道のワイナリーを巡って私自身が納得して作り手の思いを理解できた時にリストに載せたいと思っています。

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