善にさとく、悪にはうとく
2018年2月4日 降誕節第6主日
兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
ローマの信徒への手紙 16章17節~23節
ローマの信徒への手紙の著者パウロは15章までで内容的なことを書き終え、16章は小見出しにある通り個人的な挨拶を記しました。3節からはローマ教会にいる旧知の人々の名を次々と挙げて、彼らに「よろしく」と言って主の恵みと平安を祈ったのです。パウロがこんなに多くの知人をローマ教会の中に与えられていたのかと感心し、またこれらの人々と同信の友として美しい交わりを結んでいたことに教えられる思いが致します。
特に「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶をかわしなさい」とローマ教会の中で信徒同志がパウロに対してと同じように親しく愛をもって交わりを作り出していくよう勧めていることに、パウロが何を願っているかわかるような気が致します。それは教会の一致であります。教会内に作り出される信仰による兄弟姉妹としての交わりであり、和合であります。兄弟姉妹が信仰によって一致し、互いに助け合い支え合って教会生活、信仰生活に励むこと程パウロにとって大きな喜びはなかったのであります。
ですから、逆に教会の中に不和や分裂が生じ、離反が起こることがパウロにとっては一番心配で心を痛めることでした。その不安がここでふと心をよぎったのでしょうか、17節でいきなり語調が変わってパウロは鋭く、厳しい勧告を述べるのです。本来ならば16節から21節に続く方がスムーズなのですが、間に割り込ませるような形で警告の言葉を語り始めたのです。
つまり、教会に不和やつまずきをもたらす人々を警戒し、彼らから遠ざかるようにと教えるのです。具体的にこういうことをする人々とはどういう者たちであったのか、ユダヤ主義的なキリスト者であったかグノーシス主義的な教えを伝える者たちであったかははっきりしません。しかし、これらの人々に共通していることははっきりしています。18節にあるように彼らは「キリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」ことです。「キリストに仕えない」ということはパウロのようなキリストの僕ではないということです。キリストを自分の主としていないのです。では何を主としているのか。それは「自分の腹」を主としているのです。自分の腹とは自分の欲望、貪欲、願望、等々自分の名誉や栄光を求めようとする思いです。結局は自分自身と言っても良いでしょう。
ですからキリストを宣べ伝えているように見えるけれども自分のことを宣べ伝えている。中身は自己宣伝です。キリストの名前は出すでしょう。しかし実は自分のことを言っているのです。
しかも、彼らの弁舌はさわやかです。聞く者の心をくすぐります。「うまい言葉やへつらいの言葉」を用います。聞く人の善意や良心に訴えることも言いますし、聞く人を持ち上げてよい気持ちにさせる術も心得ています。ですから純朴な人は欺かれ易いのです。20節には「サタン」という言葉が出てきますが、結局はサタンの働きです。サタンがこのような人たちを動かしているのです。残念なことですが時々教会の中に不和が起こり、教会が分裂状態になってしまう例があります。そうなると解決は非常に困難となりますし、その時のきずは後々まで続きます。もうどちらが正しくてどちらが間違っているのかわからなくなります。どちらが良くてどちらが悪いなどと言えなくなるのです。それはただサタンがその教会をかき回しているとしか言えない。そして教会が大混乱に陥っている様子を見て高笑いをしているような気がするのです。
サタンは聖書に出てくる神話的存在なのではありません。今も私たちを誘惑する手強い相手です。私たちはその働きに気付かねばなりません。私たちを執拗に、また実に巧みに罪に陥れる恐ろしい力です。だから「彼らから遠ざかりなさい」と教えるのです。
純朴であるということは美徳でありますが、それが無防備であることを意味し無知につながると危険です。ですからパウロはローマ教会の人々が従順であることを喜びますが、それも何に従順なのかが問題です。
そこでパウロは「善にさとく、悪にはうとく」と勧めるのです。「さとい」は「聡い」と書きます。聡明という言葉があるように賢いことです。と同時に敏感とか感覚が鋭いという意味もあります。「うとい」は「疎い」と書きます。知識や理解が不十分、即ち聡いの反対で愚かという意味になります。しかし関心がないという意味もあります。疎遠という言葉がありますが、親しまない、離れるという意味もあります。つまり「善にさとく、悪にはうとく」とは善いことに対しては敏感に反応し、感覚を鋭く研ぎすます、そして悪に対してはこれに親しまず、そこから離れるというあり方ということかと思います。とかくすると私たちはその逆になり易いのではないでしょうか。
そして尽きるところ、私たちにとって何が一番大切か。それは最初に「あなたがたの学んだ教えに反して」とありますが、その反対で学んだ教えに固く立つということであります。即ちパウロ自身も教えられたキリストの福音であります。キリストの十字架と復活の教えです。(Ⅰコリント15の1~4)私たちはキリストの十字架の贖いによって罪を赦され、キリストの復活の命を頂いて御国の世継ぎとされたのです。私たちはこの恵みによって生かされている。あくまでもイエス・キリストによって示された神の愛です。この愛から私たちを引き離すものは何もない。この信仰に立つなら、神さまは私たちにサタンに対する勝利を与えて下さるのです。
唯キリストの贖いによって神の子として生きることを赦されていることをおぼえこの福音に固く立ってキリストの体なる教会を建て上げていきたいと思います。
文:木下 宣世 牧師