日本キリスト教団

西千葉教会

この愛によりて

2018年3月4日 受難節第3主日

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

ヨハネによる福音書 13章1節〜11節

 去る2月14日の灰の水曜日から始まった主イエス・キリストの十字架の苦しみをおぼえる受難節(レント)も本日ははや第3の主日を迎えました。本日はそのことをおぼえて受難節にふさわしい箇所を選ばせて頂きました。
 ここは主イエスが夕食の席で弟子たちの足を洗う良く知られた出来事が記されている箇所で、ヨハネ福音書における受難物語の発端となった場面であります。
 ヨハネ福音書は他の三つの福音書とは大分異なる書き方をしているのですが、受難物語においても同様で共観福音書とはかなり違う内容となっております。一番大きな違いは十字架の死は復活と結びついて、主イエスの勝利であったということを強調している点であります。ですから十字架の死を前にしての主イエスの恐れや苦悩についてはあまり述べられておりません。むしろ自分から進んで十字架に向かう姿勢を強調します。ゲッセマネの祈りもありませんし、逮捕される時も自分から名乗り、進み出て捕えさせるのであります。
 この洗足の出来事も他の福音書には記されておらず、ヨハネ福音書だけが書いているのですが、受難物語の始まりに当たり、十字架の死の意味はこの洗足という行為が示すように、主イエスの自発的な自己否定であることを述べているのです。
 1節には「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」とありますが、ここでは十字架の死の時とはご自分が父のもとへ移る時のことであるという理解が表されています。それは3節でも繰り返されて「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰る」、それが十字架の意味であると述べているのです。つまり、いよいよ十字架にかかる時がやって来たことを悟った、というわけです。
 それは弟子たちとの別れの時でもありますが、主イエスは弟子たちを愛し、この上なく愛されたのです。「この上なく」というのは極限の愛をもって弟子たちを愛されたということです。その具体的な姿が洗足という行為でありました。そこにはくわしくその様子が記されていますが、洗足は奴隷のする仕事です。しかもユダヤ人以外の奴隷しか行わなかった程のことでありました。ですから弟子たちの汚れた足を洗うということは、御自身を否定し、自分を殺して弟子たちを清めるということであり、これが十字架の意味だと言うのであります。
 この時、弟子たちはあっけに取られてぼう然としていたでありましょう。主イエスのなされるまま足を洗って頂いたのですが、ペトロのところに来た時、初めて彼が反対したのです。彼は自分の師である方が異邦人奴隷のすることをされて大変恐縮したのだと思います。まことに恐れ多い、勿体ないことと感じたのであります。だから断ったのです。
 大変謙遜なようですが、主イエスの行為の意味をわかっていないのです。彼はこのことを人間的に捉えました。主イエスの行動を単に人間的な親切とか愛のわざだと考えて、遠慮したのです。
 しかし、これは神のひとり子が人間に仕えて下さったのであり、まさに十字架を象徴する行為でありました。だからこれを拒否するということは十字架の救いを拒否することになるのです。
 まさに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」のです。
つまり、主イエスは自分の救い主でも贖い主でもなくなってしまうのです。それを告げられるとまたペトロは変わって、今度は「主よ、足だけでなく手も頭も」と願います。それに対して主イエスは「足だけ洗えばよい」とおっしゃった。
 足を洗うということは象徴的な行為であります。つまり、人間の体の中で最もよごれている部分を洗うということは、主イエスの十字架は罪に汚れた私たちの、その罪を贖い清めるということであり、従って体のあちこちをも洗うといったことではない。

 主イエスは十字架の上で自分の命をささげて私たちの罪を贖って下さいました。私たちは唯自分の罪を認め、赦して頂く外ないのです。自分の最も汚れた部分を差し出し、清めて頂く外ありません。
 主イエスはそのために来て下さいました。そして私たちのため自分を捨てて仕えて下さいました。それが、この上なく愛された、ということです。この愛に全てを委ね、救いに与りたいと思います。

文:木下 宣世 牧師