日本キリスト教団

西千葉教会

復活の主はどこにおられるか

2018年4月1日 イースター/復活節第1主日

 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

ヨハネによる福音書 20章15節〜16節

 マグダラのマリアが主のイエスの墓穴が空であることを発見し、ペトロと愛弟子のところへ走って行って告げ知らせます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節)。このマリアの叫びは二〇章の中で三度繰り返されています。最初はペトロと愛弟子に対して、二度目は天使たちから「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)と問われた時、そして三度目は、復活の主イエスがそこに立っておられるのに、マリアは主を園丁だと思って少し表現は変わっていますが、冒頭に掲げた言葉を発するのです。
 三日前まで自分の生活の中心であった主イエスを喪失したという事実、そしてどこに行ってしまったか分からないから教えてほしい、何としてもあの方を取り戻したい、彼女の叫びはそう要求しています。つまりマリアにとって主イエスの喪失は生活すべての喪失であり、生きる希望の喪失でもありました。この時のマリアは、主を失った自分の居場所は暗い墓穴こそふさわしいと思っていたかもしれません。もはや自分には、生ける屍としての人生しか残されていないと、思いこんでいたのかもしれません。
 しかしそれは、マリアに限ったことでしょうか。決してそうではありません。主イエスの弟子たちの姿でもあり、二千年後に生きる私たちの姿でもあると思います。いったんは主イエスの福音に接し、主イエスを生活の中心に据えて生きる決意をしながら、ある時から続かなくなってしまう経験をしたことはないでしょうか。あるいは自分の生きがいを見出すことができなくなる経験をすることもあるでしょう。自分の生活の中心であるはずの家庭や仕事が失われ、それまでの価値観が根底から崩されてしまうこともあります。そうした時、医学的には確かに生きていても、人格的に生きているとは言えない、墓穴のような人生を経験している人々が、この町にも大勢いるのではないでしょうか。
 最初のイースターの朝、今後の人生にとっての希望を失っていたマリアは、ただ主イエスの遺体を取り返し、それに仕えることしか未来を考えられなかったのです。しかしマリアが追い求めた未来とは正反対の方向に、本当の生命を与え、生活を支えてくださる復活の主イエスが立っておられました。

 ある旧約聖書学者がとても興味深いことを述べています。「旧約の人々は『未来はどこか』と問われると自分の後ろを指さし、『過去はどこか』と問われれば前を指さす。なぜなら、過去は思い出や形となって目に見えるが、未来は予測不可能な見えないものだからである。そして最も不安で恐ろしい未来は死であろう。死は足音なく背後から迫り来る。それがいつかは誰も知らない。だから怖い。」

 イースターの出来事は、この恐怖から私たちを解放するのです。マリアが「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」(14節)。面白いです。自分で振り向いた時には分からなかったのに、主イエスから「マリア」と呼ばれたら気づいたのです。「彼女は振り向いて『ラボニ(先生)』と呼びかけます。いつもそう呼びかけていたのでしょう。そこには恐怖はなく、マリアを誰よりも理解し、愛してくださる主イエスご自身が今も生きて、微笑みながら立っていてくださるのです。その喜びと希望に包まれた者は誰でも「わたしは主を見ました!」(18節)と叫ばざるを得なくなります。マリアの叫びは失望から歓喜の叫びへと変えられたのです。
 今年度は教会にとって最大の祝いであるイースターから始まりました。失望や罪を繰り返してしまう日常生活の中で、やはり繰り返し私たちの名を呼んで共にいてくださる復活の主イエスをしっかり見つめながら歩みましょう。

文:真壁 巌牧師