日本キリスト教団

西千葉教会

たった一人のためにも

2018年4月8日 復活節第2主日

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

ヨハネによる福音書 20章24節〜25節

 どのような事情があったのか分かりません。トマス一人が出遅れ、皆からおいていかれる形になってしまいました。たまたまその時、席をはずしていた。それだけのことだったのかもしれません。
 私たちの人生には、些細なことが深刻な結果を招くということがよくあります。もののはずみが日常の中で演じる役割は極めて大きいのです。トマスがその場にいなかったのも、運悪くと言いますか、偶然そうなってしまったことだったのでしょう。しかもトマスは、弟子の中でも特にひたむきに主に従った人物だったことが伺えますから(ヨハネ11章16節)、この時の彼の心中は納得できない思いで満たされていたはずです。「よりによってなぜ、私がいないときに!主よ、なぜですか!」という感じです。これが他人事だから、「人生なんてそんなもの」と言えるのでしょうが、自分のことだったらどうでしょうか?
 主が復活された日、自分だけそこにいなかったトマスは傍観者に徹しようとしたのだと思います。決してフィールドには降りず、観客席から観るだけです。その方が傷つくことなく、苦しむことなく、楽だからです。「自分だけ悲しい思いをするのはもうたくさん」との感情が、彼を傍観者にしたのです。そうなる気持ちもよく分かります。
 しかし復活の主はそんなトマスの気持ちを誰よりもご存知でした。
だから主は言われるのです。「トマス、いつまでも観客席にいないで、伝道のフィールドに降りておいで。傍観者でなく私を伝える伝道者になりなさい!」と。そして復活の主はこの幸いに二千年経った今も、トマスだけでなく私たちをも招いてくださっているのです。
 「八日の後」(26節)復活の主は再び現れました。それも一週間前トマスの不在中にされたのと全く同じことを、トマスただ一人のために繰り返されたのです。おそらくその時まで運の悪い人間だとトマス自身思っていたことでしょう。しかし実は、彼はそのままでほかの弟子たちと何の違いもなかったのです。自分の人生に納得がいかないと思えるような一人一人のために、主イエスはその御姿を繰り返し現してくださるのです。
 そうだとすれば、「こんな人生だから」と言って否定的にならず、人生を肯定して、どのような運命にある自分をも受け入れ、むしろそんな自分を好きになって生きてこそ本当の人生というものでしょう。自分でも納得できない、不甲斐なさを抱えての人生、それでもこの人生は神様によって肯定されている人生でもある!という確信こそ、「見ないのに信じる人の幸い」と言われているものなのです。
 「その日、すなわち週の初めの日の夕方」(19節)、「さて八日の後、弟子たちは家の中におり、トマスも一緒にいた」(26節)という記述からも分かる通り、主イエスが弟子たちに出会ったのは日曜日でした。つまり聖書は、主の日の礼拝で私たちが主イエスに出会うと言っているのです。近づいてくださる主イエスがおられます。その主の御前でトマスのように「信じられない」との思いを持ってしまうことだってあるでしょう。しかし礼拝を支配するのは聖霊なる神ご自身です。聖霊が働いて神の言葉が告げられるのです。この礼拝の中で信じない者ではなく、信じる者へと変えられていくのです。礼拝において神さまの成し遂げられた福音が、この私の救い、私たちの救いになるのです。
 伝説によれば、トマスはその後遠くインドまで伝道に赴き、そこで殉教したそうです。しかしきっと楽しく、後悔はしなかったのではないかと思います。なぜなら、痛み傷ついても決して観客席では味わえない喜びに満ちた生涯を送れたはずですから。

文:真壁 巌 牧師