わたしの羊を飼いなさい
2018年4月29日 復活節第5主日
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
ヨハネによる福音書 21章17節
主イエスの「わたしを愛しているか」という問いかけが三度繰り返されているだけのように見える箇所ですが、よく読むと、主イエスの言葉が微妙に変わっています。最初はペトロの応答の後「わたしの小羊を飼いなさい」(15節)と言われていますが、二度目は「わたしの羊の世話をしなさい」(16節)となり、三度目は「わたしの羊を飼いなさい」となります。これだけの違いでは、それほど内容に変わりはないので、そんなに気にせずスーと読めてしまいます。
ところが、日本語訳の聖書では気づかない大きな違いがこのやり取りの中にあるのです。それは主イエスの「わたしを愛しているか」と問われている言葉の違いです。最初主はペトロに「わたしをアガパオー(絶対的な神の愛を示すアガペーの動詞形)するか」と問いますが、ペトロは「はい、わたしはあなたをフィレオー(人間相互の友情を示すフィリアの動詞形)しています」と応答するのです。それは二度目も同じです。しかし三度目は違います。主イエスが譲歩するかのように「フィレオー」で問われ、ペトロは悲しくなりながらも、やはり「フィレオー」で応答しているのです。この違いは何を示しているのでしょう?
それは人間的な限界の内でしか愛することのできないペトロのところにまで、主イエスが降りて来られ、こんなぺトロの愛を受け入れてくださったということです。
いかに豊かな賜物がある人でも、人の力だけでは限界があります。ですからもし教会が、ただ人間を中心とした集まりなら、必ず亀裂が生じます。しかし主イエスを中心とする集まりとなっているなら、限界があっても互いに赦し合い受け入れ合い、愛し合えます。その時、ぺトロの誓約も主イエスの助けによって保障されるはずです。
本日、午後から牧師就任式が行われますが、この教会は西千葉にある主イエスの教会であり、その中にいるのは主イエスの羊です。決して牧師や特定の信徒の持ち物ではありません。もう30年近く前、
私にとって最初の任地となった青森の牧師会でのことです。すでに天にお帰りになった中山年道牧師の忘れられない言葉があります。
その席上、中山牧師が年度内での辞任(隠退)を表明されたのですが、仕えておられた青森松原教会はその年が創立九八周年でした。牧師になってから間もない私は、生意気にも中山牧師に向かって「先生、あと二年で百周年なのにどうして辞められるのですか?」と言いますと、「真壁くん、教会はね、イエス様のものだよ。百周年は来年お迎えする新しい牧師先生と一緒に準備するのがいい」というご返答でした。忘れられません。
主イエスが飼いなさいと言われたのは、「わたしの羊」、主イエスの羊なのです。ペトロ(牧師)の羊ではありません。ペトロ自身、主イエスの羊です。そのペトロに求められたのは主イエスの羊を飼うことです。つまり、主イエスの羊の群れが、主イエスの声を聞き分け、主イエスの声に従う群れであり続けるようにすることです。必要のすべては主イエスが備えてくださいます。どこに水があり、草があるかを主イエスはご存じで、私たちを導いてくださるのです。主イエスの羊を飼う者に求められているのは、その主イエスの導きの声に従うことです。
午後の就任式で誓約するのは牧師だけではありません。牧師と信徒(しかも誓約文の量は信徒が三倍強)です。その中でも特に心に留めてほしいのは次の一文です。「どんなことでも愛と和らぎをもって行い、ことごとに相慰め、勧まし、支えて、牧師にその職を全うさせることを約束しますか」。
牧師は大牧者イエスの助けによって主の羊を飼います。どうぞ愛と和らぎをもってお支えください。
文:真壁 巌 牧師