笑うべき正義よ
2018年8月5日 聖霊降臨節第12主日
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
マタイによる福音書 5章43節〜45節
数年前、三日間のCS(教会学校)夏期学校に参加した時のこと。そこで耳にした子どもたちのジャンケンの掛け合い言葉が印象的でした。それは「ジャンケンポン。アイコデショ。正義が勝つとは限らない!」というものでした。平和を祈り求める八月に行われた夏期学校中だっただけに、強烈に耳に残る言葉でした。同時に今の子どもたちが置かれている社会が映し出されているような気がして、とても複雑な思いになりました。
主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じられ、敵を愛する精神を求められましたが、当然、それが昔も今もすべての人にとって難しいことを私たち以上に知っておられた主イエスは、続けてこう言われました。「父(神様)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからである」と。私たちは時々、どうしても好きになれない人のことを、「善人・正しい人・味方」と区別します。そしてあいつは「悪い奴」だ、「間違っている人間」だ、「敵」だと決めつけて憎み、自分こそ「正しい」「正義」だと主張します。しかし神様の目からご覧になる時、そんな区別はないと主イエスは言われるのです。どんな人でも同じ父なる神の子だからです。
ある人が「敵を愛するとは、自分に対してひどいことをする人に怒って直ぐ仕返しをするのではなく、少し我慢すること」と言うのを聞いて、なるほどと思いました。「待てよ、この人は何かムシャクシャすることがあって意地悪になってしまったのかもしれない。この人だって私と同じ神様の子なのだから。」 このようにその人の気持ちを理解しようとすることが「敵を愛すること」なのかもしれないと実感したのです。
フランスの哲学者パスカルは「川のこちら側の正義も川の向こう側では不正義ということもある。笑うべき正義よ!」と言いました。熱心な信仰者でもあった彼は、正確にこの主イエスの言葉の意味を理解していたのでしょう。神様が創造された世界は一つで、そこには本来、善人も悪人もなく、敵、味方と区別すること自体間違っているのです。
今年は朝鮮半島の非核化を巡り米朝会談が開かれましたが、核の脅威は、皮肉にも私たちに、世界は敵も味方もなく一つだということを教えてくれます。敵を滅ぼそうと核兵器を使っても、死の灰で結局自分たちも滅びてしまうからです。同じ一つの世界に暮らしている私たちは、もはや敵だ味方だと言って争っている場合ではないことを自覚しなければなりません。
小説「黒い雨」の作者でもある井伏鱒二(いぶせ ますじ)の「平和こそ正義」という言葉をご紹介します。
「いわゆる正義の戦争よりも、
不正義の平和の方がいい」
心底から「アーメン(その通り)」です。これは決して正義を軽んじている言葉ではないと思います。本来、戦争をしなければならない正義など、この世にないからです。かつてこの国も「欧米列強から亜細亜を守る正義」を掲げて「大東亜戦争」を展開しましたが、殺し合ってまで守らなければならない正義とは何なのでしょう。そんな正義なら必要ありませんし、「ない方がよい!」と断言しましょう。平和こそ正義ですし、それ以外は笑うべき正義なのですから。
正義の預言者アモスが伝えた「正義(ツェダカー)を洪水のように尽きることなく流れさせよ」(アモス5:24)とは、まさしくそのような正義でした。私たちは「平和を実現する神の子」として、神様が創られた一つの世界に生きているということ、そこには敵も味方もないのだということを証ししていく責任があるのです。
文:真壁 巌 牧師