日本キリスト教団

西千葉教会

「教会が持っているもの」  

2018年11月

 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

ヨハネによる福音書 6章11節

 五千人の給食の出来事は、主イエスの十字架と復活を除くと、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてが記している、ただ一つの奇跡です。病人を癒す奇跡もたくさん記されていますが、奇跡物語で四つの福音書すべてに記されているものは他にありません。つまり、この五千人の給食という出来事は、それ程までに弟子たちの心に残ったのであり、また後世まで語り伝えられた奇跡であったと言えるでしょう。
 弟子のアンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(九節)と言いました。ここから想像して、「少年が五つのパンと二匹の魚を持っていたのだから、大人たちが弁当を持っていなかったはずがない。少年が自分のパンと魚を差し出したのを見て、他の大人たちも自分の弁当を差し出して皆で分け合い、結局全員が満腹したのだ」と読む人がいます。なるほど説得力ある美しい読み方だと思いますが、果たしてどうでしょう?この理解の仕方は私たちの常識内ですし、とても合理的です。そしてこの合理的な読み方は、私たちに信仰を求めません。信仰がなくても分かるからです。しかし、信仰がなくても分かる聖書の読み方によっては、聖書が告げようとしている福音は見つけられないと思います。
 聖書は明確に「しるし」として告げているのですから、主イエスが神の子であることの「しるし」として読むことが求められます。合理的な読み方は、互いに分け合うことの素晴らしさの「しるし」を語る出来事になってしまいます。そこでほめたたえられるのは主イエスではなく、私たち人間の愛の素晴らしさになるでしょう。そして、この聖書の読み方の行き着く先は、主イエスは復活したのではなく、主イエスを愛する弟子たちが主イエスの死を受け入れられず、復活したような気になり、幻を見て「復活した」と言い広めたということになってしまうのです。
 冒頭に掲げた「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて」との言葉は、主イエスが最後の晩餐の席上で聖餐を制定したときにも用いられている言葉です(ルカ22章19節他)。つまり五千人の給食と最後の晩餐はつながっています。ヨハネ福音書には最後の晩餐時に聖餐制定の場面がありませんが、それはヨハネ福音書が聖餐を軽んじていたからではなく、この五千人の給食の出来事において主イエスが制定された聖餐を指し示しているということなのです。
 その証拠にヨハネ福音書6章は、五千人の給食の出来事の後、22節以下に「永遠の命に至る食べ物」(27節)、「わたしが命のパンである」(35、48節)という主イエスの言葉が続きます。つまり、この時主イエスが人々に与えたパンは、単に自然の法則を超えた奇跡物語というだけではなく、主イエスが与えてくださる永遠の命、また主イエス御自身をも指し示しているのです。
 この主イエス・キリストご自身を人々に配るために教会は建てられているのです。それ以外のものを配ることは教会には出来ません。逆に言えば、それ以外のものを求められても、教会は与えるものを持っていないのです。
 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)との御言葉によって示されているとおりです。
 10月23日(火)から第41回教団総会が開かれ、諸教会が抱えている教勢の低迷や財政の逼迫等、様々な問題が協議されました。10年後の教団はどうなっているかが、真剣に問われた時でした。だからこそ、「五つのパンと二匹の魚しかない!」という不安を抱えながらも、「私たちが持っているもの(イエス・キリスト)を大胆に指し示す教会を形成しましょう。

文:真壁 巌 牧師