日本キリスト教団

西千葉教会

不思議に見える

2018年12月

 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

マタイによる福音書 21章37節〜39節

 伝道師として准允を受けた31年前、八甲田伝道所で祝った最初のクリスマスにて生涯忘れることのできない言葉と出会いました。
 堀田飛鳥ちゃんという当時小学五年生だった女児の言葉です。
 彼女の両親は熱心な教会員で、飛鳥ちゃんはいつも両親と一緒に礼拝に出席していました。1987年のクリスマス、礼拝後の祝会で私は彼女に尋ねました。「クリスマスプレゼントは何が欲しい?」すると彼女は母親の顔を横目で見ながら、「クリスマスプレゼントは毎年決まってるの。それはね、お父さんが帰ってくること」と応えたのです。
 標高750メートルという青森県にある八甲田山の中腹に戦後樺太からの引揚者が入植し、当時は18戸の専業農家がにんじん、レタス、トマトといった高冷地野菜を栽培していました。しかし冬には積雪が四メートルにもなり、農業ができる期間は五月から十 月の半年間で、残りの半年は出稼ぎに出なければなりませんでした。当時、青森県は日本で最も出稼ぎ労働者が多い県でした。堀田家もその例外ではなく、晩秋から翌年春のゴールデンウィークまで父親は家を空けるのです。それでも、クリスマスが終わった暮れから年頭にかけては、どこの家でも一時帰省した父親を囲んで家中が笑顔に包まれるのです。
 私は飛鳥ちゃんの言葉に驚き、何かとても恥ずかしい気持ちにさせられました。それはこの時小学五年生だった彼女の感性に対する驚き(感動)であり、それまで家族がいるのは当たり前と思い込んでいた自分への恥ずかしさでした。
 考えてみれば、生きているということは決して当たり前のことではありません。生きていること自体は、自分でコントロールすることができない全くのいただきものであり、私たちは誰もが皆生かされている存在であるはずなのです。
 ある牧師が「生きていること自体がすでに十分ドラマティックであり、何か面白いことはないだろうかと、刺激の強いことや心躍らせること、目先の変わったことを次々と求めるのは生きていること自体への感動のなさを物語っているにすぎない」と言っていますが、飛鳥ちゃんはその事実に気づかせてくれました。生きていることは決して当たり前ではなく、「不思議に見える」ことであり、その不思議さに感動すべきことなのです。自分が生命をいただいて生かされている事実に気づかされる時、周りにいる家族や隣人がプレゼントにさえ思えるのかもしれません。そしてそのプレゼントの贈り主が誰であるかを確かめられるのです。
 「ぶどう園と農夫」のたとえに登場する非情で残忍な農夫たちは、そこで働けることを当たり前のように思っていたのかもしれません。しかも彼らは自分たちがこれだけ働いたのだから、収穫は当然自分たちのもので主人に渡す必要はないと考えるようになったのです。そうだとすれば、彼らは決定的なことを忘れています。それはぶどう園が主人のものであるという決して変えられない事実です。それを忘れてしまう時、冒頭の聖句に見られる痛ましい惨劇がぶどう園で繰り広げられるのです。
 収穫が自分のものになって当たり前、親がいつもそばにいて自分のために何かしてくれるのは当たり前、自分が生きているのは当たり前といった無感動な心が、主人である神様やこの世界というぶどう園で一緒に雇われている隣人を見失わせてしまうのです。
 どうして自分が雇われ、生かされているのか。それは当たり前ではなく不思議としか言えません。この不思議さに驚き、感動して主人である神様に向き合う農夫であるか、自分を見つめ直しましょう。
「これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(マタイ21:42)

文:真壁 巌 牧師