日本キリスト教団

西千葉教会

見よ、わたしはあなたの前に
門を開いておいた

2019年1月

 「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」

ヨハネの黙示録3:8

 祈りの内に2019年の聖句として冒頭の御言葉が示されました。ある方は「この御言葉は何だろう」と思われたようですが、率直な感想だと思います。どうぞ皆さんも今年一年間、この御言葉にこだわり続け、そこから聞こえてくる主イエスのメッセージに耳をすましていただきたいと願っています。  この御言葉が示された直接の理由は、2018年の主題聖句「この町には、わたしの民が大勢いる」(使徒言行録18の10)を受けています。昨年一年間、繰り返し礼拝の派遣の言葉として心に留めてきた主の御声です。この御言葉が放つ不思議な力は「私たちはすでに神の民とされている人々へと遣わされてゆくのだ」という安堵感を与えるものであり、それが「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」(同18の9)と命じられ、押し出される根拠ともなりました。  しかし主イエスはただそう命じられただけではありません。私たちを遣わされた先々で、その責任を確実に果たしてくださるお方です。  伝道の難しさを実感して久しい今日ですが、だからこそ私たちの実力をよくご存じの主ご自身が私たちと共に働いてくださるのです。 私が教師として立てられた時、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモテ4の2)と命じられました。しかし実際はどうだったでしょうか。自分の都合や置かれた環境条件を優先し、それを伝道が振るわない口実にしたことが正直ありました。  だから主は言われます。「わたしはあなたの前に門を開いておいた」。  これは一世紀の終わり、迫害の只中にあった小アジアのフィラデルフィアにある教会に送られた「ダビデの鍵を持つ方」(黙示録三の七)、まことのメシアである主イエスの御言葉です。注目したいのは、主が「あなたは力が弱かった」と言われていることです。「兄弟愛」を意味するフィラデルフィア教会の人々にも弱さがありました。  この「弱い」と訳された言葉は原語で「ミクロス」(とても小さい)が用いられています。顕微鏡で見ないとよく分からないほど小さいもの、「それほどにあなたの力は小さい」と主は言われているのです。 日本基督教団内で西千葉教会が大きな規模の教会であることは確かです。しかし今後著しく高齢化が進む中、多くの課題もあります。それ以上に同じ教団内では牧師を迎えられず、その存続さえ危うい教会が年々増え続けている現状があります。しかしここで大切なのは、「だから自分たちで努力し、この世に対抗できるようにしなさい」とは言われていないことです。  教会がこの世(社会)と同じになる必要はないですし、それでは教会がこの世に存在する意味がありません。ある牧師が「決して能力主義ではない、遅くてもいい、否、むしろそのモタモタがいい」と言いましたが、そういう教会こそが老若男女が安心して帰れる場所として求められているのです。  確かに私たちは強くありません。常に弱さに満ちています。でもそれを主イエスご自身が知っていてくださることに勇気づけられます。その昔、プロ野球で新人ピッチャーがコチコチになって九回裏のあと一球が投げられなくなった時、監督がマウンドに行ってこう言ったそうです。「どうした?たかが野球じゃないか!」これが実話かどうかは分かりませんが、主イエスは間違いなく弱さのゆえにしゃがみ込み、うろたえてしまう私たちに「どうした?たかが人間じゃないか!」と言ってくださるのです。  フィラデルフィア教会も西千葉教会もこの社会から見れば本当に小さな群れですし、ミクロの力しかないことを思い知らされます。でもだからこそ、「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない(否、わたしが閉めさせない)」と力強く宣言してくださるのです。  

文:真壁 巌 牧師