主の食卓を囲む
2019年02月
私たちが礼拝を捧げている会堂の正面には、聖餐卓が置かれている。聖餐卓という名の通り、月一度守られている聖餐において、そのパンと杯を置く台として用いている。聖餐式は月一度しか行われないにもかかわらず、聖餐卓は正面に置かれたままであるが、意味なく設置されているものではない。
西千葉教会のように、聖餐卓が会堂の正面にあり、横に説教壇が置かれている教会もあれば、聖餐卓の後ろに説教壇を置いている教会もある。それは、説教者も会衆も、聖餐卓を囲んで礼拝を捧げているからである。会堂は、聖餐卓を中心として構成されているといえる。
聖餐は、洗礼とともに聖礼典として定められており、私たちの救いのために十字架上で血を流されたイエス・キリストを記念し、主の御言葉に基づいて行われる儀式である。聖餐がどれだけ大切であるかは、キリスト教の歴史の中で、聖餐についての議論が繰り広げられたことからも分かる。
カトリック教会では、聖餐におけるパンとぶどう酒は、見かけはパンとぶどう酒のままであるが、祭司の制定の言葉を通した神の力により、キリストの肉と血に実体変化すると考えた。しかし宗教改革者たちは、その考えを支持しなかった。ドイツで宗教改革を行ったルターは聖餐について、それがそのままパンとぶどう酒とはならないが、キリストの本質がパン及びぶどう酒の中にあると説いた。また、スイスで活躍したツヴィングリは、洗礼を受けた感謝の証しとして、キリストの死を「想起」し「記念」するために聖餐を行うと捉えた。
さらにカルヴァンは、聖餐はパンと杯の実体が変化するのではなく、また単なる記念でもなく、御言葉を通して聖霊の働きが起こることによって、天にいるキリストがわたしたちの中に満ちる出来事として解釈した。私たちもまたそのように、聖餐は信仰によりキリストと交わる出来事として理解している。
主の食卓(聖餐卓)が教会の中心に位置しているということは、神の御言(みことば)が教会の中心であるということを表している。聖餐のことを「目に見える御言」、説教のことを「目には見えない御言」と呼ばれるのを聞いたことがあると思う。礼拝の中で、キリストの十字架と復活の出来事により罪赦された恵みを神の言を通して新しく受け取り、今も神は生きて私たちを養い続けておられることを確信し、私たちがまことに神を拝む者とされる。その礼拝の柱となるのが、主の十字架の福音を指し示す聖餐と説教である。
パウロは、信仰とは「肉に従ってキリストを知ろうとする」(Ⅱコリ五の一六)のではないという。「肉」というのは、「霊」と対比する言葉として用いられている。さらに「霊に従う者」とは、「キリストと結ばれる人」と呼び替えている。その人はどういう人か、パウロは続けてこう語っている。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ」(Ⅱコリ五の一七)。罪の責任を私たち自身に問うことなく、神はキリストによって赦しを与えてくださった。この神からの和解の出来事によって、私たちはキリストの中に招き入れられることが許されたという。この神のイニシアチブを知らせるのが福音であり、その福音を伝えるのが聖餐と説教である。説教壇がさらに一段高くなっているのは、御言の権威を表すためである。
以前、会堂の正面に十字架を掲げるか否かという議論が起こったということを聞いた。大きい十字架があるにしろ無いにしろ、私たちは正面に据えられた主の食卓を囲み礼拝を捧げていることを、礼拝の度に心に留めておきたい。そしてその意味を、礼拝の度毎に御言葉を通して味わい知ることにより、私たちの捧げる礼拝がまことの礼拝となるのではないだろうか。
主イエスキリストは、私たち一人ひとりのために食卓を整えてくださっている。主の愛の招きによって、今月も私たちは週毎に福音という何にも代え難い命の糧を受け取ろうではないか。
文:佐藤 愛副牧師