救われる条件
2019年4月
しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
使徒言行録 24章14節〜15節
西千葉教会に着任して一年になります。新年度を迎える際、初心に帰る新鮮な思いが与えられます。私にとっての「初心」とは、十代で神学校に入ることにためらいを抱いていた私に、恩師が語った言葉でもあります。「君は確かにまだ若い。しかし歳を重ね、知識や経験を蓄えたからいい牧師になるとは限らない。むしろその経験が傲慢となる場合がある。そういう牧師に教会は迷惑する。経験がなければ、それをしっかり自覚しなさい。牧師とは自分が持っているものでできる仕事ではないのだから。」
パウロという人はかなり有能で、ローマ市民権の他、幾つかの特権を持っていたようです。けれども伝道者となった彼は、それで勝負しようとはしませんでした。人間の価値は持っているものや功績で決定されるものでないからです。
パウロはそれを信仰の中心である救いの問題として、実に大胆な表現で臆することなく語っています。それが「正しい者も正しくない者もやがて復活する」(15節)という言葉です。
この「正しい者・正しくない者」とは、「ユダヤの律法を守っている者・守っていない者」のことです。だから熱心なユダヤ教徒が聞けばこれは「信仰ある者も信仰のない者も」と響いたことでしょう。そして「復活する」を「救われる」に置き換えてみたらどうでしょうか?
これは当時のユダヤ人、少なくともパウロへの激しい憤りをもって取り囲んでいた人々から見れば、許しがたい完全な異端であり、彼らはそんなパウロを「ナザレ人の分派」(24:5)と呼んでいたのです。しかしパウロは決してユダヤ教批判をしているのではありません。むしろここでは、自分自身も同じ神を信じ、仕えていることを強調しているのです。
ではパウロの発言のどこに問題があったのでしょう? パウロは「信じる者も信じない者も救われる」と語っただけです。しかし私たちは本当に「語っただけ」と思えるでしょうか。「では何のために信仰するのか」、「信じても信じなくても同じでは困る」と考えてしまうことはないでしょうか。だとすれば、このユダヤ人たちの姿は決して他人事でなく、パウロの発言も聞き流せなくなってしまいます。
秋田で長年開拓伝道をした先輩牧師が、最初に赴任した農村教会でのエピソードを紹介しています。
「一人の教会員もいなかったという状況の中で、しかしだからこそ信じる者も信じない者も救われるという信仰へ変えられたと思う。そうでなければ、いつも食べ物を差し入れてくれる隣家の老婦人は毎日仏壇に手を合わせているので、救われないことになる。しかし果たして神様は仏を捨ててキリストを拝まなければ滅ぼしてしまうようなお方なのだろうか。聖書が告げる福音とは、その老婦人に『あなたも神から愛され、救われていること』を大胆に宣言することではなかろうか…」
この先輩牧師のエピソードも、私に「初心」を再確認させるものとなりました。つまり「正しい者も正しくない者も」と言う場合、自分をどちらに位置付けているか。「神を信じない人でも救われるのか?」と問う前に、「こんな小さな信仰しかない者をも神様は救ってくださる!」という事実にまず驚くべきでないか。そしてその驚きを喜びと感謝に変えて人々に伝えることこそが伝道ではないかと。
毎主日礼拝で説教壇に立つ時、自覚させられることがあります。「こんな私が救われているのなら、救われない人は一人もいないことを伝えればいい」ということです。
何のための信仰と考える必要はありません。ただ十字架と復活の主イエスによって示された神の愛の深さを知り、信じざるを得なくさせられること、それが信仰です。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」
(マタイ5:44b―45)
文:真壁 巌 牧師