日本キリスト教団

西千葉教会

安心して帰れる場所

2019年5月

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ルカによる福音書 22章31節〜32節

 この場面は主イエスが十字架につけられて殺される直前、愛する弟子たちと最後の晩餐の食卓を囲んでおられた時のことです。主イエスは「一緒に食事をしている者の中で私を裏切る者がいる」と言われました。弟子たちはいったい我々の中の誰がそんなことをするのだろうと互いに議論をし始めたと記されていますが、続いて「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」のです。
 シモン・ペトロは弟子たちの筆頭格です。たぶん、この中で誰が一番偉いかと議論した時、はっきり意識していたのはペトロだったでしょう。そのペトロに主イエスは冒頭の言葉を告げられました。主イエスはここではっきりとペトロがサタンに負けることを予告されたのです。ペトロはそれに気づきません。それどころか、その後を読むと「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と立派なことを言いました。二二章を読み進むと、ついに主イエスが逮捕され、裁判に遭う場面になります。ペトロは裁判の行われている屋敷の中庭までついて来ました。しかしある女中から「あなたもあのイエスの仲間ではないか」と問われてそれを打ち消し、とうとうすべてを打ち消しました。怖かったからです。ペトロは信仰を失いました。弟子の道から落ちたのです。「立ち直ったら」と言われた通り、完全に倒れたのです。
 しかし信仰をなくしたのはペトロだけではありません。後に教会の柱になった使徒たちが皆、ここで信仰をなくしました。では、どうやって立ち直ったのでしょう?それは主イエスが祈ってくださったからです。弟子たちは主イエスを捨て、主イエスから顔を背けました。しかし主イエスは弟子たちの方を向き続けられたのです。先ほどの裁判の場面でペトロが主を三度知らないと言った時、「主は振り向いてペトロを見つめられた」とあります。ペトロが主イエスを見たのではなく、主イエスがペトロを見つめられた。きっとここでも目で語られたのです。「お前が立ち直れるように祈っているよ」と。ペトロは外に出て、激しく泣きました。

 教会がキリストの教会かどうかを深く知る術は、この主イエスの祈りに支えられている自覚があるかどうかです。私たちが主イエスの方を向いていなくても、私たちの方を向き続けていてくださる主イエスのまなざしをしっかりと仰いでいるかどうかです。つまり教会は自分たちの悔い改めの熱心さよりも、この主イエスの立ち直りのために祈っていてくださる祈りに取りすがるようにして立つのです。そこで主イエスは言われます。「あなたが立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。私があなたのために祈ったように、あなたと同じように倒れ伏している兄弟たちためにあなたも祈りなさい。大丈夫、これからも主があなたのために祈っておられるから立ち直れる」と。教会はそう告げる他に何もすることはないのです。ただあなたには安心して帰れる場所がいつでも用意されている!事実を告げるのです。
 教会はいつの時代も弱さをもった人間の集まる場所です。ですからそこで人間関係のこじれや何らかの事情があって教会に足を運べなくなってしまう時があるかもしれません。かつて自分もそうだった。あるいは今、そのような友のことを心に留めておられる方々があるでしょうか。でもだからこそ、自分だけの力で立ち帰ろうとしなくてよいのです。なぜなら教会は信仰が強くならなければ立ち帰れないという場所ではないからです。
 ペトロは主イエスから「私がこんなに祈っているのだから裏切るはずはないだろう。三度も私を知らないとは言わせない」と言われたのではありません。「三度も知らないと言ってしまうような貧弱なあなただからこそ、私は今も、これからもずっと祈っている!」 そう言われたのです。

文:真壁 巌 牧師