心の貧しい人々が幸い?
2019年6月
そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5章2節〜3節
「貧しい」という言葉は「何も無い、物乞いをするしかないほどに貧しい」を指し示す言葉です。ですから、「心の貧しい人」というのは、自分の中に何も頼るものがなくて、もう自分では生きていくことが出来ないほどに弱り果て、困り果ててしまっている人ということです。そんな人が幸いなはずはないと思います。
日頃、私たちは「心の豊かな人は幸いだ」と思っています。実際の生活は貧しくても心は貧しくない、だから大丈夫。たとえ貧しくても心が豊かだから誇り高く生きることが出来る、だから幸いだ。普通はそう考えるのです。
しかし、主イエスは「心の貧しい人々は幸い」と言い切りました。その理由はただ一つだけです。「自分の中に何も頼るものがない、金もなければ健康もない、今日の楽しみもなければ明日への希望もない、家族ともトラブルを起こしていつもイライラしている、そんな心の貧しいあなただ。しかし、あなたはわたしの所に来た。今わたしの前におり、わたしの言葉を聞いている。だから、あなたは幸いになれるし、もうすでに幸いだ。天国はあなたのもの。わたしの所に来て、今わたしの声を聞いているということは、もう神の御手の中に生き始めたということ。あなたを襲うすべての貧しさから、わたしがあなたを守る。だからもう大丈夫。幸いな者よ!」主イエスはそう、人々に告げられたのです。
この言葉は主イエスにしか言えません。貧しさの中で喘いでいる人に、「あなたは幸せだね」なんてことを言ったら普通は怒られます。「私を馬鹿にしているのか!」と言われるでしょう。しかし主イエスは怒られませんでした。なぜでしょう。それは、主イエスにそう言われた時、人々は心底からその通りだと思ったからです。その上で主イエスの祝福、喜び、平安に包まれたからです。「あなたは心貧しいね」と言われても、本当に自分はそうだと思えた。自分の中には頼るべきものは何もない、そのことを素直に認めることが出来た。事実、彼らは頼るものが何もないから、主イエスの所に来た人たちだったのです。ただ主イエスに救いを求めて集まって来た人たちでした。私たちもそうでしょう。自分で頑張って何とかやっていける、そう思っている人は教会には来ないのでしょう。「私には何もありません。だから助けてください。」 その思いだけで主イエスの所に来た人を主はしっかり受け止めて、「わたしの所に救いを求めてやって来た心の貧しいあなたがたを、わたしが天の国に迎える。だから幸いだ。今悲しんでいるあなたがたをわたしが慰める。だから幸いだ。」そう言われているのです。
宗教改革者マルチン・ルターは62歳で地上の生涯を閉じましたが、その直前に書き残したメモには「わたしは物乞いだ。これは本当のことだ」と記されていたと言われます。それは自分の生涯が物乞いのようにみじめであったと嘆いて地上の生涯を閉じたというのではありません。ルターは、自分が神様の御前にあって何一つ誇るべきものを持たず、ただ神様に憐れみと救いを求めるしかない者であることをよく知っていたのです。
私たちは良い人になり、心豊かな人になったから幸いになっていくのではありません。それは、自分で手に入れようとする幸いです。そのような幸いがどんなにもろいものであるか、よく知っているはずです。自分の頭の中で描ける幸いは、家族の病気一つで簡単に壊れてしまうでしょう。しかし、主イエスは、そのようなもろい幸いではなくて、死でさえも打ち破ることのできない幸いを私たちに与えてくださると約束してくださったお方なのです。
それは、主イエスが今も共にいてくださる幸いであり、天の国(神の国)で神様との親しい交わりの中に生かされる幸いの約束です。この幸いを壊すことができるものはこの世のどこにもありません。そのためにも自分の心の貧しさをきちんと受けとめながら、「幸いな者!」とされている感謝をもって主と隣人と共に歩みましょう。
文:真壁 巌 牧師