信仰を守るために
2019年7月
韓国では、六月を「護國報勳の月」という。その理由は、1950年6月に韓国戦争が起こったからである。この戦争は、国を守るための歴史的な出来事であり、自由を守るためであった。韓国戦争は、私たちが当たり前のように感じている自由は、守らねばならないものであることを人々に示したものであった。
ところで、私は現代のキリスト教会に危機を感じることがある。それは、私たちに与えられている「信仰の自由」を守るための戦いはどこにも見当たらないからである。
私がここで述べたいことは、単に韓国の教会から感じたことや見たことと対比して日本の教会を見るというだけではない。双方の共通する問題を明らかにしつつ、教会が直面しているもが何であるかを明らかにしたいのである。
ところで、日本の教会における一番の課題に、教会員全体の「高齢化」が挙げられる。教会に若者が少ないのが現状である。韓国はキリスト教人口が20%以上であることを羨ましく思っているという話をよく聞くが、実際は韓国の教会も日本と同じように高齢化が進んでいる。30代以下は減少しており、50代以上が増加している。しかし、高齢化以上に、私たちが目を向けなくてはならない深刻な現状があるのではないだろうか。それは、信仰の未成熟という本質的な問題である。韓国プロテスタント教会の三人中一人は教会に出席するだけの信仰生活を送っていると言われている。あたかも学校に出席するかのような、所謂サンデークリスチャンである。信仰の成熟を求め、主のために献身するというのではなく、礼拝に参加することで自分の信仰の義務を果たしていると誤解している人が多い。また、そのことは、信仰と生活の不一致にも結びつく問題である。ある資料によれば、韓国における「信仰と生活が一致している」と感じている人の割合は、1998年は64%だったものの、2017年には48%と減少している。信仰と生活の不一致は、単に個人的な事柄ではなく、主から教会全体が託されている福音宣教の使命に影響を及ぼす問題である。この現状は、韓国だけに当てはまる問題ではない。私たちの信仰生活を振り返った時に、礼拝出席の律法主義化・信仰と生活の不一致は、他人事ではないのではないだろうか。
冒頭で、かつて自由を得るために激しい戦いが起こったことを述べた。信仰も、決して当たり前のものではなく、大切に守らねばならないものである。そのためには、まず私たちに与えられている信仰の価値について、もう一度考えることを提案したい。神が私たちに与えられた信仰は、罪と死から私たちを救ってくださったキリストの犠牲の故である。信仰は、キリストの十字架信仰の中で根を下ろし、復活の希望の上に実を結ぶものである。この信仰を守るために、代々の信仰の先達たちが、いかに祈り、また努力をしてきただろうか。救われた者の信仰生活というのは、十字架の恵み、復活の感激、感動、喜びを携えたものであることを忘れてはならないだろう。
二つ目は、数値的な「成長」ではなく「成熟」していくことである。もちろん、福音の旗の下に人が集まることを祈り求めることは大切である。しかし、集まった一人ひとりが成熟に根を下ろさなければ、人は容易に教会を離れる、あるいは教会を混乱させる存在になってしまう。教会は単なる人同士の交流の場ではない。教会の福音の業のために存在する、神の陣営である。健康的な成長と共に、個々人の信仰が深まることに関心を向ける必要があるだろう。
スポーツ選手は、いい結果を出せない時は基礎的な訓練をし直すという。ペテロの説教を通して3,000人が回心した後、使徒達がしたことは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒2の42)初代教会の出発とともに、使徒達によって不思議な業、しるしが行われていた。しかし、彼らが最も大切にしていたことは、不思議な業、しるしではなく御言葉、交わり、聖餐、祈りであった。私たちも、信仰の基本に立ち返り、神が日々与えてくださっている恵みに生かされ過ごしていきたい。
文: 金 ヨセフ伝道師