日本キリスト教団

西千葉教会

祈り

2019年8月

 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

ローマの信徒への手紙 8章26節

 信仰者にとって祈りとは呼吸のようなものです。ですから祈りが途絶えてしまうと呼吸が止まり、死活問題となるはずです。
 実は神学生時代、危うく呼吸が止まってしまうところでした。それは毎週の祈祷会での経験ですが、周囲を意識し過ぎたために祈りの言葉が口に上らず、人前で祈ることに苦痛を感じるようになってしまったのです。同級生や牧師の祈りは言葉も豊かで口調も滑らか。しかもその日に祈るべき課題がいつもきちんと押さえられているという気がして、その後祈ることが見つからない。何か自分の惨めさを見せつけられるような、苦痛な時間でした。
 そんな恥ずかしい自分の悩みを信仰の先輩に打ち明けた時でした。「君はまず、自室で一人祈る時間を大切にした方がいい。誰がいようといまいと神様に向き合う時間をきちんと確保しなければ、人前で祈ることはできないよ」と忠告されました。その通りです。祈りは決して独り言ではなく、また流暢な言葉遣いで周囲の人々を感心させる自己推薦の時ではないのですから。こんな当たり前のことに気づかされました。
 今振り返っても赤面してしまう実に恥ずかしい経験です。それでもあえてこの経験をお話したのは、その時気づかされた大切なことを皆さんにも伝えたいからです。
 一つは、祈っている間、神様は自分の心の中にいるのではなく、常に他者を通して外側から働きかけてくださっていることです。D・ボンヘッファーという神学者が「自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのです。前者は不確かで、後者は確かだからです。だからキリスト者は共に祈り、礼拝する相手を必要とするのです」と言っていますが、これもまた真実です。
 もう一つは、本来自分は祈れない者だということを知ることです。イザヤは神様から預言者として立てられ、派遣される時、「ああ、もうだめだ。わたしは滅ぼされる」(直訳;イザヤ6:5)と叫びました。自分が神の使者に相応しくないと自覚していたからです。でもこの罪の認識があったからこそ、イザヤは本当に祈ることができ、真の預言者とされたのです。
 よく「私は身勝手で、苦しい時にしか祈らない〝苦しい時の神頼み信者です〟」と言う方がいます。しかしそれでも神様に向き合って祈れるなら、大いに結構なことです。神様は喜んでその祈りをお聞きくださるはずです。なぜなら神様がお嫌いになるのは〝苦しい時の神頼み〟ではなく、〝苦しい時の神離れ〟だからです。それを心しておきましょう。
 それでもなお、私たちはやはり自分中心に考え、自分の不信仰さに打ちのめされて祈れなくなる時を経験します。そんな時は、あのペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)と言われた主イエスの言葉を思い出してください。その主は今も私たちのために祈っていてくださり、誰もが祈れるようにと「主の祈り」を教えられました。それは神様の御前で「もうだめ」としか言えない者が、祈る者にされるためなのです。
 恩師がある時、鬱状態が高じて苦しんだことがありました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16―18)と勧められても喜びと感謝が湧いて来ない。心が燃えず、竃がくすぶって煙にむせぶような思いだったと言います。「しかしこのように心がくすぶる状態というのは、中に火種があるからだ。火種がなければくすぶりもせず、神の愛と命が尽きているなら、この苦しみもないはずだ。だから祈りの口を大きく開け、聖霊の火を送っていただき燃え上がらせていただこう。」恩師の証しを通して知らされた祈りの実です。
 祈りとは、聖霊なる神様がどう祈るべきかを知らない私たちのために祈っておられる恵みに気づかせてもらえる至福の時です。

文:真壁 巌 牧師