小さき者に与えられる恵み
2019年09月
以前勤務先の高校で、授業の中でイザヤ書43章4・5節を読み、次のようなワークを行った。「この聖句の『あなた』の部分を自分の名前に置き換えて、書き写してください。」生徒一人ひとりに、「わたしの目にあなたは値高く尊く、わたしはあなたを愛している」という神様の思いが向けられている…そのことを感じて欲しかった。書き終えた後、ある生徒がこんな感想を述べてくれた。「こんなこと書いて、誰かに見られたらめっちゃ恥ずかしいじゃん!」
現代の日本の若者は自己尊重感が低いということを、色々な場で聞いたことがある。「日本の教育改革によって促進された『勝ち組・負け組』を作り出す教育システムが、子どもたちに自己尊重感の低下をもたらした」ということは、大学時代に教育を学ぶ中で常識的な知識だった。しかし、現代の若者だけが「自分が有能であるという実感」、「自分は価値があるという実感」を持てないとは必ずしも言えないのではないだろうか。神との出会い無き人生は、何かしらの実存的な渇きを感じるものではないだろうか。そして、信仰を与えられるという事は、自分の価値の再発見(真の発見)を経験することなのではないだろうか。
先日、ある方が書いた「30年以上前に母にかけてもらった心に残る言葉」についての記事が、大変印象に残った。「よく学校から帰ってきた私を母が抱きしめながら、『帰ってきただけで100点満点よ』と耳元で優しく言ってくれていたのを覚えています。『え!?帰ってくるだけでいいの!?』と聞き返した私。そんなことでお母さんは嬉しいの?と不思議に思ったのです。『もちろんよ。それだけで100点満点。』と繰り返す母。それからも時々、母はその言葉を私に伝えてくれました。その言葉を聞く度に、テストで100点を取らなくても、発表ができなくても、帰ってくるだけでいいんだ、と存在そのものを認めてもらえて安心できた記憶があります。」
私たちが自己尊重感を抱くのは、自分が機能的な意味で有能であると感じる時ではない。いくら優秀であっても、「私はこれが出来るから受け入れられているんだ。もし出来なくなったら、私はここにいる価値はないんだ」と捉えるならば、その機能的優秀さがかえって自分の価値に疑問を生じさせる種となってしまう。母の言葉が忘れられないというこの方の体験に表れているように、私たちが本当の意味で存在の喜びを感じる事が出来るのは、テストで100点を取らなくても「あなたは、帰ってきただけで100点満点!」と言ってくれる存在がいるということなのだろう。自分に自信が持てなくったっていい。この世界の中で自分は何てちっぽけなんだろう、と思うこともある。そんな小さくて壊れやすい自分だからこそ、丸ごと温かく大きく包み込んでくれる存在が必要である。その実感を得るとき、小さい事も悪くない、と自分をそのまま受け入れることができるようになるのかもしれない。
イエス様は、まさに私たちの小ささを、恵みに変えてくださるお方である。福音書の中で、イエス様は弟子たちに対して度々「信仰の薄い者たちよ」と言われる。元々は、「信仰の小さい者たちよ」と訳すことができる言葉である。イエス様は、弟子をはじめとした信仰小さき者たちを最後までお見捨てにならず、大切な者として愛してくださった。一人ひとりを、ご自分の命を引き換えにする程、価値のある者としてくださった。そして週毎に礼拝という主の食卓に招いてくださっているのである。
思う通りにならない人生を歩む私たちである。理想とかけ離れた自分の小ささに苛立ちを覚えることも多い。しかし、自分を高く評価できなくても、他者から100点をもらえなくても良いのだ。私たちは既に神様から次のようなメッセージをいただいているのだから。「あなたは、イエス様に信頼するだけで100点満点!」と。
先ほどの記事を書いた方は、かつて母がかけてくれて嬉しかった言葉を、今は自分の子どもに伝えているという。私たちも、私たちの心を潤してくれる神の御言葉を他者にも伝えるべく、聖霊が私たちを清め、私たちを通して神が働いてくださることを祈り求めたい。
文:佐藤 愛副牧師