日本キリスト教団

西千葉教会

真理はあなたたちを自由にする

2019年10月

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ヨハネによる福音書 8章31節〜32節

 国立国会図書館のホールには「真理が我らを自由にする」という言葉が刻まれています。これは冒頭聖句から引用した学問の探求心を求める理念でしょう。しかし主イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われたのです。
 主イエスとここで向き合っているユダヤ人たちには、主イエスの言葉や行為が自分たちの真理から逸脱しているように思えました。皮肉にも彼らはこれまで真理だと主張していたものによって縛られ、身動きが取れなくなっていました。
 本当はそうした状態から自由にするものが真理であることを主イエスは伝えたのですが、彼らはそれを受け入れませんでした。だからその直後に主イエスは、「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(8:37)と語られたのです。
 数年前、埼玉県の河川敷で、中学生男子が遺体で発見されました。同世代の少年たちによるリンチ殺人でしたが、その理由が「遊ぶ約束をしたのに嘘をついた。出かけると言ったのに町で見かけたので、頭にきた」という驚くべきものでした。しかし、このいじめによる暴行殺人を正当化する少年たちの真理こそ、「あいつは嘘をついた」でした。もう二五年前になりますが、あのオウム真理教の信徒が猛毒のサリンを撒いた驚愕の事件も教祖の「真理」に基づいて実行されたのです。戦争もそうですが、人は真理によって人を殺します。主イエスを十字架にかけたのも多くのユダヤ教指導者たちが主張した彼らの真理によるものでした。
 この真理を知るために、神学者ボンヘッファーの「神の愛の理解」がとても重要です。「私たちは愛についての何がしかの概念をもっている。男女の愛、親の子に対する愛、博愛主義の愛。しかしそうした愛についての一般的概念から始めて、それを神に当てはめてみても『神は愛である』ということは決して分からない。むしろ『愛である』という言葉ではなく、『神は』という主語から始めなければならない。神の中にこそ『愛』を理解するヒントがある。神が主イエスを通して私たちに何をしてくださったか、そこに愛の原型がある。」
 私たちは「真理とは何か」と尋ね求め、熱心に学べばいつか真理に到達できると考えているかも知れません。しかし聖書が告げる大切なことは「主イエスこそ真理だ」ということです。そして「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われた主イエスが、その真理を伝えるためにこの世に来られた目的は、まさに「神の愛を伝えるためであった」と言えるでしょう。
 夏期休暇中、アウシュビッツを訪ねました。ガイドの説明の中に「古くからヨーロッパ社会には、〝イエスを殺したのはユダヤ人〟という観念があり、ユダヤ人根絶の思想をドイツ人固有のものと限定するのは難しい」とありました。きっとそうなのでしょう。あの悲劇はポーランドの片隅で偶然起きた出来事ではなく、キリスト教社会の中で起こるべくして起こった惨劇であったのかもしれません。
 であればなおのこと、主イエスが語られた「あなたたちはわたしを殺そうとしている」をどう理解するかが大切になります。主イエスは決して「だからお前らは悪いやつだ」と言われたのでありません。御自分もユダヤ人として生まれた主イエスは真理に立ち帰ってほしいとの深い愛情をもって語られたはずです。ですから、もしクリスチャンが自分たちとユダヤ人を区別して「ユダヤ人がイエスを殺した」と言うなら、再び大きな罪を犯すことになってしまいます。
 主イエスの真理によって自由にされるということ、それは何か一般的な法則のようなものではなく、まして人を殺害する手段とはなりえません。むしろ十字架を通して神が私たちにどれほど大きな愛をお与えくださったか。そこに現された真理こそが、私たちを本当に自由にするのです。「我らの真理」ではなく「主イエスこそが」です。

文:真壁 巌 牧師