大勢でも一つの体
2019年11月
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
コリントの信徒への手紙一 10章16節〜17節
全員が皆、同じ意見というのは普通に考えれば理想的です。よい国、よい町、よい会社、よい教会をつくるということのために、皆が同じ意見であれば、よい結果を生むと考えるのは自然でしょう。
しかしだからこそ、創世記11章の「バベルの塔」の記事は興味深いものがあります。あそこでなぜ神は人々の言葉を乱されたのか。「同じ言葉で、同じように話す」ことが神の御心にかなわなかったのはなぜなのか。
一つの理由は、人間が完璧ではないということだと思います。誰もが多くの欠点を持ち、間違った考えを持っています。にもかかわらず、同じ言葉、同じ意見で一つの方向に向かったとしたら、いったい誰がそれを止め、方向修正できるでしょうか。六節で(主は)言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」だから神は人々の言葉を乱されたというのがその理由なのです。
そしてもう一つ、神が人々の言葉を乱された目的があると思います。それは、私たちに「愛する」ことを教えるためです。バベルの住民は、言葉が通じなくなった時、全地に散って行きました。それまでは「同じ言葉、同じ意見」のゆえに、共に生活し、働くことができたのです。しかし、互いに言葉が通じなくなり、意見が合わなくなった時、一緒にいられなくなりました。「同じ言葉・同じ意見・同じ思想」であれば、共に集まるために愛は必要ありません。人は愛が無くても集まれます。それどころか、人は「憎しみ」を動機としてでも一緒に行動することができる存在なのです。日頃は水と油の関係であったファリサイ派とヘロデ党の人々が、主イエスを抹殺するためならば手を結べるのです。
では、私たちが集まっているのは何によってでしょうか。キリスト教という「同じ思想」によってでしょうか。 確かに同じ神を信じ、同じ聖書を読んでいます。しかし交わりを持てば持つほど、考え方の違いが際立つこともあるのです。クリスチャンは価値観が同じかというと実際はそうではない部分が大いにあります。その証拠に今、特にプロテスタント教会はバラバラに分裂している現状があります。同じ宗教でも「信仰観が違う」「教会観が違う」「聖餐式の仕方が違う」「聖書の読み方が違う」と言って分裂を繰り返してきた歴史があるのです。言葉が通じなくなったという現実は、まさに教会内の出来事でもある。
私たちは聖書を一生懸命読みますが、その目的は「正しい信仰」「正しい教理」をつかむということだけではないはずです。それよりも大切なのは自分と違う者を受け入れ、愛することができるようになることではないでしょうか。フランスの哲学者ヴォルテールの名言が牧師たちの集まりでもある教団の会合でしばしば頭に浮かびました。「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利を、私は命を懸けて守る。」
主イエスが教えてくださった「自分自身を愛するように隣人を愛する」とはどういうことなのか。それを真剣に求め、主イエスと出会うために聖書を読むのでしょう。
冒頭の聖句が示している通り、私たちは一つの家族であり、一つのキリストの体です。しかし意見が同じだから一つなのではありません。互いの言葉が通じないことも多々あります。にもかかわらずなぜ一つなのか。それは「パンが一つだから」「皆が一つのパンを分けて食べるから」と記されている通りです。
違う考えや声を持つ者同士が主イエスというまことの指揮者の前に集められ、賛美のハーモニーを奏でる場所こそ教会です。本日は世界聖餐日ですが、世界の兄弟姉妹と共に礼拝でいただく聖餐のパンは、それを証明する主イエスの愛そのものです。
文:真壁 巌 牧師