神様からの贈りもの
2019年12月
小学生の頃、教会学校のぺージェントでどうしても博士の役をしたかったのですが、ふりあてられたのはただ聖書を読む役でした。「博士になれないなら出ない!」私は大声で教師でもあった母に怒鳴りました。すると母は、「わかりました。じゃ、あなたは見てなさい」と言ったのです。ガッカリしました。素敵な衣装を付け、赤や青のライトをあびて歩く博士の姿はとてもカッコよく見えました。だから男子は皆博士になりたがったのです。でも意地をはったせいでぺージェントに出られず、その年は劇が始まる時に部屋の照明を消すだけの役でした。
さて、最初のクリスマスにも「いつも周りからカッコよく見られたい!」と思っている人がいました。ヘロデ王です。ヘロデ王はこれまでもこれからもずっと変わりなく、自分がユダヤの王であり続けたいと思っていました。だから博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)と聞いた時、とても不安になりました。そして、その場所がユダヤのベツレヘムだと聞くと、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同2:8)と言います。しかしそれはウソです。「もし本当にユダヤ人の王が生まれたら、この私はどうなる?もう王様でいられなくなってしまうのか。それは困る!」というのがこの時のヘロデ王の本音でした。本当はその子を見つけて殺そうとしたのです。人は持っている物が多ければ多いほど不安になるものです。ヘロデ王もそうでした。力や宝をたくさん持っていれば不安はない!というのもウソです。持っているから不安になるのです。ヘロデ王は持っている物を失わないために必死でそれを守ろうとしたのです。
その反対に自分たちの宝物を救い主に献げて、手ぶらになって喜んで帰っていく人たちがいました。博士たちです。彼らはどこから来た人たちなのでしょう?どうして自分たちの大切な宝物(黄金・乳香・没薬)を幼子イエス様にささげることができたのでしょう? 実は、博士たちも初めは間違えてしまいました。「ユダヤ人の王様はエルサレムの宮殿でお生まれになるに違いない」と思ってしまったのです。でも違いました。きっと博士たちはヘロデ王を一目見て、気づいたはずです。「違う、救い主が生まれるのはここじゃない」と。
ではどこで生まれるのでしょう?それは遠い昔、すでに神様がお決めになっていました。夜空を見上げると、これまでずっと博士たちを導いてきた星が一層明るく輝き、彼らを招いていたのです。自分たちの思い込みで王の宮殿に行ってしまった博士たちは、きっと恥ずかしかったことでしょう。
その不思議に輝く星はエルサレムからベツレヘムへと博士たちを導きました。星が止まった場所は、救い主がカッコよく見える王の宮殿ではなく、どこにでもあるありふれた貧しい家(馬小屋)でした。そこには貴族ではなく庶民であるマリアとヨセフ、そして飼い葉桶の中に寝かされている幼子がいたのです。「博士たちはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のです。なぜ博士たちはエルサレムの王の宮殿ではなく、ベツレヘムの片隅にある馬小屋の飼い葉桶に寝かされていた幼子イエスを見て、この方こそが探し求めていた救い主だと分かったのでしょう?
それは「インマヌエル―神は我々と共におられる―」(マタイ1:23)事実の発見でした。本当の神様はある特定の人たちとだけ一緒におられるのではなく、貧しい羊飼いたちと、また外国人は救われることがないとされていた当時、外国人である博士たちとも一緒にいてくださる神様であることを知ることができたからです。イエス様はそれを世界中の人々に伝えるためにお生まれくださった神様からの贈りものでした。博士たちはもう迷うことなく大切な宝物を手放し、救い主に献げることができたのです。
私が子どもの頃に憧れた博士たちの本当のカッコよさは素敵な衣装なんかではなく、神様からの贈りものを受け取るために持っている宝物を手放せたことでした。
文:真壁 巌 牧師