日本キリスト教団

西千葉教会

無力さゆえの幸い

2020年3月

 神学校卒業と同時に召しを与えられた西千葉教会の務めを終える日が近付いている。たくさんの兄弟姉妹と出会い、週毎の礼拝や主にある交わりに与り、溢れるほどの恵みに満ちた五年間を心から感謝している。
 喜びの日々を送る一方で、自分の未熟さゆえに悩むこともあった。これまでの歩みを振り返る中で、ある有名な神父さんの、次のような言葉をよく思い出す。
「自分がどう見られているかばかり気にする人は、相手を見ているようでいて、実は相手に映った自分の姿ばかり見ている人。」
 私が悩んでいた時というのは、「自分が何とかしなければ」と思い込み、何とかできない自分の無力さに打ち拉がれていたからだったのかもしれない。
 相手を見るということは、単に牧師としての経験が浅いというスキルの問題ではなく、信仰に関わる事柄であると思う。人は、自分で誰かのために何かを成し遂げたいと思ってしまうところがある。しかし聖書は、自分が何かを成し遂げることが重要なのではないと告げている。大切なのは、真の癒しを与えてくださるイエス様のもとへとその人を導くことであると、神の御言葉は私たちに語りかけておられる。
 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 (マタイによる福音書17章19-20節)

 弟子たちは、目の前で苦しむ子供を何とか癒そうとした。ところが、「お弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした。」(16節)その後、イエス様の御業により「子供はいやされた。」(18節)弟子たちは、人を癒すということにおいて、自分たちの無力さを知った。弟子だけではなく、子供を連れてきた父親もまた、人の無力さを思い知った。そして父親は、弟子たちが息子を治すことが出来ないことが分かった時、イエス様にこう訴えた。「主よ、息子を憐れんでください。」(15節)自分では目の前の辛い現実をどうすることもできない、他者に頼ってもそれはぬぐい去られない。苦しみ悲しみを本当に癒してくださるのは救い主イエス・キリストであるということを、父親は無力さの中で悟ったのである。「貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)。神の憐れみを乞う以外の癒しの道が見つからないほどの貧しさ。この貧しさが、人の心を神へと向けさせる。
 弟子たちもまた、自らが癒し人となることが自分たちの与えられている使命ではないということを、無力さの中で教えられた。イエス様の弟子の務めは、癒しを必要とする人を、イエス様のもとに導くことである。信仰者は、人を憐れみ癒してくださる魂の癒し人に身を委ね、憐れんでくださいと祈る生き方が与えられている。この幸いを他者に証しすることが、私たちに与えられている大切な役割なのではないだろうか。

 私たちは、冷えきった相手を温めようとする時、自らが太陽となろうとしがちである。しかし、太陽の光は、熱すぎて、眩しすぎて、とても直視できるものではない。また、自らまばゆい光を発し続けていては、すぐに疲弊してしまう。それよりも、まるで、陽光を受けて柔らかで穏やかな光を地上に注ぐ月のように…天から注がれた聖霊の炎が私たちの心の中に灯るように…神の光に照らされた者として歩んでいくことができれば良いのではないだろうか。そう、私たちは既に主に結ばれた「光の子」(エフェソの信徒への手紙5章8節)なのだから。

 聖書に記されている神の御言葉に耳を開き、からし種一粒ほどの信仰を養われ、私たちを通して神の御働きがこの地に益々豊かに現されることをこれからも祈り願いたい。

文:佐藤 愛 牧師